Faint hope

 インハイが終わってから、怖い夢ばかり見てしまう。

「オレには自転車に乗る資格がない」

 真っ暗闇の中、右頬を腫らした福富くんが私から背を向ける。

「待って福富くん! たしかに、福富くんのしたことは許されないことかもしれないけれど……でも、自転車をやめたら絶対に後悔するよ!」
「すまん、……。オレのことは、忘れてくれ」

 悲しそうな顔をした福富くんが去っていく。
 自分の無力さに拳を握る暇もなく、今度は新開くんが現れた。

「ゴメン、。やっぱりオレ、自転車には乗れない」
「新開くん……?」
「あの後考え直したんだ。ウサ吉の幸せを本当に願っているのなら、オレは一生自転車に乗らない方がいいんじゃないかって。……怖いんだ。オレが最速を目指すことで、また誰かを傷つけてしまうかもしれない」

 新開くんが震える自分の体を、両手で抱きしめる。

「ウサ吉はそんなこと望んでないよ……。新開くんと一緒にいるときのウサ吉はすごくうれしそうで……。それに、インハイに出るのは来年が最後のチャンスなんだよ!? 新開くん、前に教えてくれたよね!? インターハイはツール・ド・フランスにも負けないくらい熱い戦いが見れるって……! だから、」
、本当にゴメン。身勝手な願いだけど、寿一たちのこと、よろしく頼む」

 涙をこらえて笑った新開くんの姿が、徐々に薄くなって消えていく。
 自転車部から去っていく何人もの人たちの背中を見送ることしかできなくて、絶望に膝をついてしまう。
 私は一体何なのだろう。幼なじみの苦悩にも気づかず、振り返れば後悔することばかりだ。
 あのときああしていれば。私がもっと周りの人たちに気を配っていたら、防げた事はいくらでもあるのに。福富くんの苦悩に、もっと早く気づいてあげられることができたのに……。
 コツコツと近づいてくる足音に顔を上げると、荒北くんがいた。

「荒北、くん」
。オレ、部活やめるわ」
「なんで……?」
「ダリィしめんどくせー。こんなことやってられっか」

 踵を翻して去っていこうとする荒北くんの服の裾をつかむ。

「待って!! インハイに出るっていう目標はどうなるの……?」

 つかんだ手に自然と力がこもってしまう。荒北くんは面倒くさがり屋だけど、こんなところで放り出してしまうような人ではなかったはずだ。

「もう少し頑張ってみようよ……。私も練習手伝うから……」

 祈るような思いで言葉を紡いでいると、荒北くんに胸ぐらをつかまれた。今までに一度も見たことのない鋭い視線が私を射抜く。

「一度も戦ったことのねェくせに、人に夢押し付けてんじゃねェよ」

 まるでナイフで胸を刺されたような気分だった。なにも言い返せずにいると、胸ぐらから手を離されて、再び地面に膝をついてしまった。そのままうなだれていると、いつの間にか夢から覚めた。
 今日もまた、こんな夢を見てしまった……。


 インターハイが終わってから一週間のお盆休みを挟んで、部活動が再び始まった。あれから何日も経ったのに仕事に身が入らない。いけないとわかっていながらも、失敗ばかりしてしまうのだ。

「自分でやるからいいっすよ」
さんも、たまには休んでください」

 私がなにかに失敗したとき、周りのみんなは笑って許してくれる。その優しさに甘えてはいけないと思う一方でさらに焦ってしまうのだ。もっと、しっかりしないと。部員ひとりひとりのことをしっかり見て、もう誰にも悲しい思いはさせない。そう思うのに、結局付きまとう結果は空回りだらけだ。
 私なんか、いない方がいいのかもしれない。最近では、そう思うことが増えてしまった。

「二年、入ります」

 夏休みが終わりに近づいてきたある日の午後、部室に入ると荒北くんと田島くんがいた。荒北くんから説明を受けている田島くんの顔は真っ青で、やけにおどおどしている。

「なんで田島くんがここにいるの……? ま、まさか、自転車部に入部しに来たの!?」
「ちげーよ。コイツは代理のマネージャーだ」
「だ、代理……?」
。今日はオレと一緒に部活サボれ」

 代理っていうだけでも訳がわからないのに、荒北くんの口から出た次の言葉にさらに混乱する。

「な、なに言ってるの、荒北くんっ!? 夏休みで気が抜けてるのかもしれないけど、荒北くんにとって来年がインハイに出場する最後のチャンスなんだよ!? そんなことしているヒマなんか――」
「つべこべるっせーよ! オラ、ついてこい!」

 荒北くんに手を引っ張られて部室を出る。え、えぇぇ!? なんでこんなことになっちゃったの……!?


 荒北くんに連れていかれた先は、学校から少し離れた所にある土手だ。土手に着くなり、荒北くんが原っぱの上で大の字に寝転んだ。

「オメーも寝てみろ」
「で、でも……」
「……ア? ンだよ、仕方ねェなぁ。下敷き貸してやんよ」

 上半身を起こした荒北くんがサイクルジャージを脱ぎ始める。サイクルジャージのチャックを下げた時、中に着ている黒のタンクトップがちらりと見えた。

「い、いいよ!」

 下敷き代わりのサイクルジャージを貸そうとする荒北くんに遠慮して、私も同じように仰向けになる。部活をやっていると、ジャージが汚れてしまうのはよくあることだ。私が気にしてたのはそういうことじゃなくて、部活をサボってしまったことに対してなんだけど……ここまで来た以上荒北くんに逆らうわけにもいかず、おとなしく日向ぼっこをすることにした。原っぱのベッドは、想像以上にふかふかで気持ちいい。木陰が夏の暑さを幾分か和らげてくれて、空には雲がゆっくりと流れている。こんなことをしていると、部活をサボっていることを忘れてしまいそうだ。しばらくの間ぼうっとしていると、荒北くんがゆっくりと口を開いた。

「ここ、最近見つけたお気に入りの場所なんだ。休憩したくなったときとか、ちょくちょくここに通ってんだ」
「休むことも大事だけど、あんまりサボっちゃダメだよ。サボった分自分にツケが返ってくるんだから」
「じゃあ、今度から迎えに来いよ。オレの居場所知ってんの、今ン所お前だけだからなァ」

 荒北くんの顔を見る。顔を背けた荒北くんの耳朶が、真っ赤に染まっていた。そんなことを言われても困る。ここは、そう口にするべき場面なのに……私しか知らない荒北くんのささやかな秘密を教えてくれたかと思うと、言うべき言葉も言えずに舞い上がってしまう。

「……ま、いずれは誰かにバレるだろうけどな」
「そ、そうだね……」

 それはそうだ。たまたまここを通りかかった誰かが、こっそり部活をサボっている荒北くんを見つけるのも時間の問題だろう。少し考えればわかることなのに、なんで浮かれてしまったんだろう……。

「空、青いなぁ」

 原っぱを背にしたまま空を仰ぐ。こうしてぼうっと空を見ていると、黒く染まった心が浄化されるような気がした。
 荒北くんがいきなりこんな所に連れてきたのは、私を心配してのことだろう。荒北くんの優しさはうれしいけれど……部活の中で一番応援してあげたい彼にまで迷惑をかけてしまった。やっぱり、ダメだなぁ、私。

「……どうだ? ここにいると色んなことがどうでもよくなんだろ」
「多少はね。でも、完全には忘れられないよ。いきなり部活抜け出しちゃったけど、みんな大丈夫かな」
「前から思ってたんだけど、オメー真面目チャンすぎんだよ。たまには手を抜くことも覚えとけ。毎回毎回全力投球じゃ、いずれはバテるっつーの」

 気のせいだろうか。今の荒北くんのセリフが、どこか悲しげに聞こえた気がした。

「……私ね、最近思うんだ。自転車部のマネージャーになって三ヶ月近く経ったけど、本当にみんなの力になれてるのかなって。私がマネージャーになってから、やむを得ない理由で部活を去った人もいて、新開くんの悩みにも、福富くんの苦しみにも気づいてあげられることができなくて……。あのとき私がちゃんと見ていればこうはならなかったかもしれないのに……今になって、後悔ばかりしてる。私は、このまま部活にいていいのかな」
「じゃあ、やめちまうか」
「えっ」

 思わぬ言葉に草むらから飛び起きる。荒北くんは、腕を枕にしたまま飄々とした顔で空を仰いでいる。

「つらいんだろ? なら、部活やめちまえばいいじゃねェか」
「そ、それはそうかもしれないけど……」

 荒北くんにとって私は、どうでもいい存在なのだろうか。別に、慰めてほしいわけじゃないけれど……ここまでそっけなく突き放されるとは思わなくて、彼の鋭利な言葉に心が追いついていけない。

「これからはオレ一人で練習する。オメーの手伝いはいらねェ」
「そっ、そんなのダメだよ!! 荒北くん目を離すとすぐに怪我するし、放っておけないし! 前にも言ったけど、私は荒北くんの手伝いをするって決めたから。これだけはなにがあっても絶対に譲れない!!」

 そう言い切った直後、しんと静かになってしまった。時間差で頬が熱を帯びているのが嫌というほどわかる。なにを熱くなっているのだろう、私は。荒北くんも呆然としているじゃないか。

「……本っ当にオメェはよ。あんなことするの、福チャンだけのクセに……」
「荒北くん?」
「なんでもねェよ。独り言だ。……とにかく、それで答えはとっくに出てんだろ。やりたいならやればいいんじゃねェの? 周りにどう思われるだとか、結果はどうだとか、そういうのは後から勝手についてくるもんだ。結局オレたちはあと一年しか時間がないんだ。こんなところでウジウジしてたって、何にもなんねェだろ」
「……なんか、意外だね。荒北くんなら、もっと罵倒するかと思ってたけど」
「オメーオレのこと何だと思ってんだ。……ま、福チャンは厳しいからな。たまには、愚痴くらい聞いてやんよ。オメーにはただでさえ借りが山ほどあるんだからなァ」
「ありがとう」

 まさか、荒北くんが親身に相談に乗ってくれるとは思わなかったけれど……荒北くんのおかげで、だいぶすっきりした。
 草むらに寝転がっていると、いつの間にか睡魔に襲われてしまった。次に目を覚ました時、視界に映ったのは茜色の空だった。
 いけない、もうこんな時間! 慌てて飛び起きると、隣には荒北くんがいた。上半身を起こしている彼は草むらに手をついて、茜色に染まった空をぼんやりと見上げている。私が寝ている間、ずっとそばにいてくれたのだろうか。

「ごっ、ゴメンね!」
「なんで謝んだ」
「だって、こんなことしているヒマなんかないのに……」
「オレはいいんだよこんくらいで。どーせ夜に自主練するんだからなァ」
「あっ、そっか。じゃあ今日の夜――」
「待て。今晩オメーは来んな」
「で、でも……」

 前にも言ったけど、なにがあっても荒北くんの自主練習を手伝うって決めた。今度はなにに怒っているのかわからないけれど、荒北くんの言うことを簡単に聞くつもりはない。そんなつもりだったのに、荒北くんが真剣な顔をしてこう言った。

「頼むよ。お前になにかあったら……一体誰がオレの面倒を見るんだ」

 そんなことを言われたら返す言葉もない。私は、黙って荒北くんの言うことを聞くことにした。


 夜、自分の部屋のベッドに寝て、今日の出来事を思い返す。今日は不思議な一日だった。荒北くんと一緒に部活をサボって、土手で昼寝をして。
 荒北くんにはああ言われたけれど、じっとなんかしてられない。ベッドから起き上がって、出かける準備をする。
 荒北くんの自主練習を手伝うことは全然苦じゃない。むしろ、私にとっては一日の中で一番楽しみにしている時間で、もっと荒北くんと一緒にいたい。最近ではそう思うことが増えて……。
 ……あれ? なにを考えているのだろう、私は。とにかく部室に行こう。もたもたしていると荒北くんとすれちがいになってしまうかもしれない。


 家を出て、部室に行くと明かりがついていることに気がついた。中にいるのは荒北くんだろうか……? 部室の近くに行くと、何台か並んでいるロードバイクに目が留まった。疑問に思いながら部室に入ると、中には自転車部のみんながいた。もうとっくに完全下校時間を迎えたはずなのに、ローラー練習をしたり筋トレをしている。その光景を呆然と見ていると、部員のひとりが私に声をかけてくれた。

「あ、さん、お疲れ様です」
「お、お疲れ様……。こんな遅くまでどうしたの?」
「実は今日、みんなで今年のインハイの動画を見返してたんすけど、先輩たちの頑張っている姿を見ていたら部活が終わった後なにもせずにはいられなくて……みんなで集まって、自主練することにしたんです。本当は外走った方が一番いい練習になるんすけどね。こんな時間に外走ったら色んな人たちに怒られちゃいますから」

 呆然としながら聞いていると、更衣室から出てきた荒北くんとばったり会ってしまった。荒北くんは案の定怒っている。

「あっ! テメー! 今日は来んなっつっただろ!」
「ごっ、ゴメン。居ても立っても居られなくて……。でも、びっくりしたよ。まさかみんな、こんな時間まで部活やってるだなんて思わなかった」

 荒北くんと一緒に、部室を見渡す。窓の外には夜の帳が下りているというのに、部員の活気は日中と変わらない。

「来年がインハイに出る最後のチャンスなんだ。オレたちは立ち止まっているヒマなんかねェんだよ」

 まっすぐに前を見据える荒北くんの横顔を見て、私は忘れていたことを思い出した。
 ……そうだ。インターハイに出れるのはたったの六人。荒北くん以外にも、インターハイに出ることを夢見て一日一日の貴重な青春の時間を自転車にささげている人たちがたくさんいる。
 だとしたら、こんなところでうじうじしている場合じゃない。私は私にできることで、部活のみんなを支えたい。できるできないじゃない。やるかやらないかだ。時には間違えることだってあるかもしれないけれど……それでも私はみんなと一緒に戦いたい。
 決意を新たにした時、福富くんが部室に入ってきた。

。今日は休みじゃなかったのか?」
「ゴメン! 今日はちょっと、色々あって……!」
「謝る必要はない。荒北から、今日はを息抜きさせると事前に聞いている」
「なんだ、そうだったんだ……」

 ほっと胸を撫で下ろす。正直、次に福富くんに会ったときに怒られることを覚悟したから、その言葉を聞いて安心した。

「ありがとう、荒北」
「別に。福チャンの大事な幼なじみだからな」

 皮肉げに笑った荒北くんが、ひらひらと手を振って部室を出ていく。なんだったんだろう、今の……? 後ろを振り返ってみたものの、荒北くんの姿はもう見えない。

「にしても、珍しいな」
「なにが?」
「荒北が、ここまで誰かに優しくするのは初めてのことだ」

 真顔で言う福富くんにぽっと頬が熱くなる。

「そっ、そんなことはないと思うよ! 荒北くん、いつも口は悪いけれどなんだかんだいって優しいし……」
「それは知っている。だが、荒北にとってお前は特別な存在なのだろう」

 特別な存在……。福富くんの言葉を心の中で復唱して、ぽかんとする。

「お前がいれば、荒北はもっと強くなることができる」
「あ、あぁ……」

 二言目でやっと理解した。あくまでも福富くんは、よき部活仲間のことを指して言っているのだ。インハイに出るのならサボっているヒマはないと言っておきながら、なにを邪なことを考えているのだろう、私は。

「オレは上がる。じゃあな」
「もう帰っちゃうの?」
「あぁ。オレはまだ、あの時自分がやったことに対して何の償いもしていないからな。……これからどうするか考えなければならない」

 うつむいた福富くんが部室を出ていく。先にやるべきことを見つけた私は――福富くんの背中を追いかけないことにした。