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 月が綺麗な夜の日のことだ。
 合宿三日目の夜、午前中の出来事のお礼がしたくて、外にいる荒北くんに会いに行った。彼は今日も自転車に乗って一人自主練習をしている。
 転校前にサイクリングロードで初めて会った時も、この前の休日の時も、彼は自転車に乗っている。

「どうして、荒北くんって部活動以外の時も練習をしているの?」

 彼は少し迷った後に教えてくれた。

「インハイに出るためにオレは毎日自転車に乗ってんだよ。一年の頃の話だ。三年がギャーギャー言ってるインハイが気になって、福チャンに出る方法聞いたら人の三倍練習しろっつーの。あん時は唖然としたさ。時々練習をやめようかと思った。でもオレは、もう一度どこまで行けるかを試してみたい。そうして、ここまで来た……」

 夜空を見上げながら荒北くんが言った。
 普段ぶっきらぼうな彼が見せた、きらきらとした瞳。本当に叶えたいのだと訴えるような優しい声色。
 初めて見た彼の一面に、心が大きく波打つ。
 この時から私は荒北くんの自主練習を手伝うことに決めた。部活を休部している友達が最高の状態になった自転車部に戻ってこられるように。マネージャーとしてできる限りの手を尽くして、来年のインハイで優勝できるように。
 そして、この時はまだ気づかなかったけれど。私はこの時、たしかに荒北くんに惹かれてたんだ――。


 昼休み、大量の本を持って教室の中に入る。自分の机の上に置いてようやく一息ついていると、友達の響子が不思議そうな顔をして寄ってきた。

「アンタそれどうしたの?」
「これ? 自転車の本だよ」
「なになに……? 専門家が教える練習メニューの作り方、走るのがもっと速くなる! 体幹トレーニング入門……アンタ、マネージャーだよね?」
「そうだよ」
「マネージャーってこういうこともやんの?」

 ずらりと並んだ本の背表紙を眺めて響子が言った。響子の問いに首を左右に振る。

「ううん。部員の練習メニューを組んでいるのは別の人で、私の仕事は主に雑用。雑用なんだけど、部活とは別にやりたいことができたんだ。だからこれを読んで勉強しようかなぁって思って」
「早くごはんを食べたかと思えば、図書室行ってたのね……。ま、そういうことなら今日はそっとしといてあげるから頑張りなさいな」

 私に気を遣ってくれたのか、響子がひらひらと手を振って別の友達の所に行った。ありがとう、響子。心の中でお礼を言って、本を読む前に後ろを振り返る。私の後ろの席の荒北くんの姿はない。いつも学食に行っているか、外でごはん食べているみたいだし今日もどこかで昼食を食べているのだろう。
 こんな本を読んでいるところを見られたらなんとなく気まずい。荒北くんがいない間に少しでも多く読んでおこう。そう思い、読書に没頭した……。


 夜、一旦家に帰って支度をして、再び学校に向かって夜道を歩く。学校から少し離れた部室の前で、自転車を押して歩く一人の姿が見えた。夜の闇でもはっきりと浮かぶチェレステカラーのロードバイクに白のヘルメット……。あれはたぶん間違いない。

「荒北くーん!」

 大声で呼ぶと、荒北くんが私に気がついた。「げっ、本当に来てる」駆け寄っている最中、心外なことを言われた。

「だって、あの時手伝うって約束したし。今から練習?」
「あぁ。外をぐるっとな」
「そっか。今日は私が練習手伝う初日だし、色々確認しておきたいことがあるんだ。よかったら中に入って」

 荒北くんがちょうど部室の前を歩いているところでよかった。遠回りせずに済んだことを幸いに思い、今日手に入れたばかりの鍵を取り出す。

「なんでオメェが部室の鍵持ってんだ」
「監督にもらったの。マネージャーなら色々と入用だろって言ってて。……まぁ、本当はこんな時間に部室使っちゃいけないんだけどね」

 部室のドアの鍵を開ける。「オメェ、相当なワルだな……」後ろで荒北くんがあきれて言った。ごまかすように笑ってドアを開き、中に入る。
 電気をつけると、寂しい光景が目に入った。床に何台も鎮座しているローラー台に誰も座っていないベンチ。数時間前まで大勢がいた場所なのに、こうして違う時間に訪れると寂れて見えるから不思議だ。

「とりあえずここに座って」

 部室の隅にあるベンチに座り、視線を彷徨わせている荒北くんに声をかける。荒北くんは口を一文字に結んだまま、間を開けて私の隣に座った。練習前にシャワーを浴びてきたのだろうか、荒北くんからふんわりとシャンプーの香りがする。
 男の子とふたりっきりってなんだか緊張するなぁ。そう思う自分に不謹慎さを感じながら、バッグから一冊のノートを取り出す。

「なんだよ、そのノート」
「練習日誌、別名荒北くんノート。これから自主練習の記録をこのノートにつけていこうと思う。あ、一応今までのレースの成績とか、全部ノートにまとめてあるよ」
「今日の授業中やけにペン動かしてると思ったら、そんなことしてたのかヨ」
「や、やりながら授業も聞いたよっ」
「まさかここまでガチだとは思わなかった……」

 荒北くんが額に手をあてる。私も気合入れすぎかなって思ったけど、手伝う以上ちゃんと力になりたいし……。うぅ、やっぱりひかれたかなぁ。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。あきれていた荒北くんの表情が突然険しくなった。

「あん時は勝手にしろっつったけど撤回だ。オメェなんざの力を借りなくてもオレは一人でやれる。明日から来んな」
「自分一人の力で、本当にインハイに行けると思ってる?」
「アァ?」

 言い返されるとは思わなかったのか、荒北くんの目つきが鋭くなる。怯みそうになるけれど折れるもんか。荒北くんにこう言われることは想定済みだ。

「福富くんは小さい頃から自転車に乗ってきた。今の荒北くんの実力は、福富くんに比べたらまだまだ下だよ。真鶴のレースでは優勝したみたいだけど、それは福富くんのアシストあってこその結果だし。このままじゃ荒北くんは他の部員にインハイに出場する権利を奪われちゃうかもしれない。使えるものはなんでも使わなきゃ」
「ハッ!! 随分言うじゃナァイ! 伊達に福チャンの幼なじみはやってねェってか!」

 「で、オマエはオレにどうしろっつーんだ」不敵に笑った後、荒北くんが私に聞いた。

「まずは普段の自主練習の内容を確認するよ。最近、どんな練習をしているの?」
「リピートヒルクライムがメイン」
「坂を繰り返し登るトレーニングだね。今の荒北くん、筋力がもうちょっと欲しいしそれが一番かも。今日から私がいる時は部室も使うことができるから、ローラー練習と筋トレも併用していこう」

 頭の中で荒北くんの練習メニューを組みつつ、ノートをぱらぱらとめくる。とある記述に目がとまった。

「荒北くん、一年の頃最初からローラー二時間乗ってたんだね。途中から一時間増えてるし、すごいなぁ」
「るっせ、褒めんなっ」

 びっくりして顔を上げる。褒められることが嫌いなのか、荒北くんが嫌そうな顔をしていた。「ご、ゴメン!!」自分は悪くないのにとっさに謝ってしまう。

「え、えーと、じゃあ、データ取りたいしローラー練習しよう! 荒北くん、自転車持ってきて」
「メンドクセーなぁ」

 荒北くんがポケットに手を突っ込んで部室を出る。……自分から言い出したことだけど、これから先荒北くんとうまくやっていけるのかな……。ドアの閉まる音を聞いてさらに不安になった。


「はぁ……」

 授業が終わった放課後、ため息をつきながら部室に向かう。荒北くんの自主練習を手伝ってから、最近どっと疲れることが増えたような……。普通に練習を手伝うのならまだいい。だが、荒北くんは一癖も二癖もある。荒北くんが考えていることとは反対のことを言うと嫌な顔されるし、うっかり褒め言葉を口にしてしまうと「褒めんなっ!」って怒られるし……。毎日手伝っているわけじゃないものの、一週間目にして早速弱音を吐きそうだ。今日の夜のことを考えたら憂鬱になってきた。とぼとぼと歩いていると、部室の前で東堂くんが荒北くんに向かってなにか怒っている。

「コラ、荒北っ! お前がにらむからファンの子たちが逃げてしまったではないか!」
「オレは何もしてねーよっ! アイツらが勝手に逃げたんだ!」
「ふっ、これだから荒北は……。モテない故に女子の扱い方がわからんのだな」
「うっぜ、バカチューシャ」
「なーっ!!」

 ……また今日もケンカしてる。見慣れた光景に、そっと彼らの横を通って部室に入ろうとした時。部室から出てきた福富くんが東堂くんたちに近づく。

「お前ら、部室の中まで声が聞こえてきたぞ」
「福チャン!」
「トミー! この際だからはっきり言わせてもらう! 新入部員が入ってきたというのにコイツは相変わらず部の空気を乱している! この前なんか新入部員の臭いを嗅いで黒田と揉めたというではないか!」
「オレァ正直なことを言っただけだ」
「だからと言って志を持って入部した者の心を初っ端から折るヤツがいるか馬鹿者ォォォー!! 荒北はもっと部活の態度を改めるべきだっ!!」
「オメーこそどうなんだよ!? オメーのファンクラブ、レース中超ウゼーんだけど! ここはアイドルのライブ会場かっつーの!!」
「いい加減にしろ」

 福富くんのドスの利いた声に、荒北くんと東堂くんが一瞬にして静かになる。

「そんなに互いに不満があるのなら道の上で決着をつけろ。ちょうど今月の末にレースがある。どっちか勝った方の言い分を認めよう」
「福富くんっ!!」

 口論をせずに解決できる方法とはいえ、こんなのいくらなんでも無理やりすぎる!

「コイツらにはこれくらいでちょうどいい」

 東堂くんたちに聞こえないよう、福富くんが小声で言った。荒北くんが声を上げて笑う。

「ハッ、楽勝じゃねーか。また真鶴ン時みたいに福チャンにアシストしてもらえればオレの勝ちだ」
「今回オレは出場しない」
「なっ……!」
「たとえオレが出場するとしても、今回はあくまでも力比べが目的だ。手は貸さん。お前ら一人一人の力でぶつかって勝利を目指せ」

 福富くんは有無を言う隙さえ与えず、部室の中に入っていく。三人で呆然として立って、先に口を開いたのは東堂くんだ。

「ふっふっふ。たしかレースの舞台は伊那だったな。伊那にはたしか山が多い。この勝負、オレの勝ちだ」

 東堂くんがニヤニヤした顔で去っていく。「オレ不利すぎだろォォォ!!」荒北くんが叫ぶものの、東堂くんがハンデの話を持ちかけることもなければ、福富くんが戻ってくることもなかった。


「あー、くそムカつくっ!!」

 部活が終わり、自主練習の時も荒北くんの怒りは収まらなかった。更衣室から出てきた荒北くんがライトを片手に部室の出口に向かう。

「荒北くんどこ行くのっ!?」
「坂登りに行くっ。テメーのこまけーメニューに付き合ってられっか!!」

 大きな音を立ててドアを閉める。荒北くんが行ってしまった……。
 ……私、荒北くんの自主練習手伝っている意味あるのかな。
 荒北くんが勝手に行ってしまったので特にやることもなく、部室の掃除をした。まだ荒北くんは帰ってこない。今のうちに練習日誌でも見返そう。ベンチに座り、練習日誌を手に取る。一ページ目には、以下のようなことが書いてある。

 一年D組 荒北靖友 四月×日、入部シーズンの少し後に入部
 ロードバイクは最近乗ったばかりのビギナー。福富がきっかけでロードバイクを知った模様
 部活に入ってからは、福富指導のもとに連日二時間のローラー練習に励む
 長時間のローラー練習に耐えうる体力を持っている。昔、なにかスポーツでもやっていたのだろうか?(追記…後日本人に直接聞いてみた。無言でにらまれたため本当のことはわからない)
 平坦、山岳両方走れるオールラウンダー。しかし今は基礎を積み重ねているため今後の成長によっては転向の可能性大
 練習の時は手を抜いているが、本番になるといい成績を出す。大舞台になると実力を発揮するタイプ?

 以下レース成績
 五月×日 二宮ロードレース高校生の部・Cクラス一年生の部に出場 ※ロードレース初出場
 レース中に体力が尽きてリタイア。リタイアする直前、先頭集団の中にいた
 六月×日 真鶴ロードレース高校生の部
 福富がアシストを務め、レース出場二回目にして見事初優勝

 ・備考
 先輩に対して反抗的な態度を取ったり、協調性にものすごく欠ける。要注意人物

 記入日:二〇××年六月×日 佐野

 これは全部、部室にある部員データシートから全て転記したものだ。記入者には当時ここの部員だった佐野さんの名前がある。おそらく去年三年生だった人だろう。今この部活に該当する人物はいない。
 練習日誌を眺めながら思う。……そういえば私、荒北くんのことあんまり知らないや。転校して自転車部のマネージャーになって、あれから少し経ったけどもいまだに彼のことをよく知らない。これから長い間多くの時間を過ごすのだし、私はもう少し荒北くんのことを詳しく知るべきなのかもしれない。
 ――そう思った時、ドアが開いた。部室に入ってきたのは荒北くんで、違和感に気づいて視線を落とす。膝から血が出ている。

「ど、どうしたの荒北くんっ!? 血出てるっ!!」
「ちょっと擦りむいただけだ。大したことねーよ、こんくらい」
「ちょっと待ってて! 今救急箱取ってくる!」

 棚の中段にある救急箱を取り、荒北くんをベンチに座らせる。血がとまっているものの、手当てした方がいいことに変わりはない。救急箱を開け、消毒液一式を取り出す。

「擦りむいたくらいで大げさだっつの」
「こういうの放っておくと痕になるんだから。すぐに手当てした方がいいの」

 傷口を消毒しながら言う。いい機会だし、荒北くんにはよく言っておこう。

「怪我の手当て含め、体のケアって結構大事なんだよ。体に小さなサインが出たとき、それが故障につながる可能性だってある。もっと自分の体を大事にしなきゃ――」
「しねェよ、そんなヘマ二度と」

 静かな室内に荒北くんの声が響く。
 いつもの不機嫌そうな声とは違う、ひんやりとした口調。つられて顔を上げると、荒北くんと目が合う。

「荒北くん……?」
「なんでもない」

 あまり深入りされたくないのだろうか、はっきりと目をそらされた。それ以上は聞かないことにして傷の手当てを続ける。

「にしてもオメー変なヤツ。先帰ればよかったのに、律儀に待ってるし」
「手伝うって決めたから帰ったりなんてしないよ。……さっきね、荒北くんの過去の練習データ見返してたんだ。日に日に右肩上がりになっていく記録に、ひょっとしたら今度のレース、東堂くんに勝っちゃうんじゃないかって思ってる」

 東堂くんには悪いけれど、荒北くんはすごい人だ。
 一年の頃は自転車初心者だったのに、一ヶ月、また一ヶ月、月日を重ねるごとに成長してる。彼は運動神経が非常にいい。それと、怒るから直接本人には聞けないけれど彼は努力家なのかもしれない。
 最近聞いた話、福富くんは一年の夏荒北くんにこう言ったと言う。

「インハイに出るのなら人の三倍練習しろ」

 もしかして荒北くんは、その頃から自主練習を始めたのだろうか……? そう思うと胸の鼓動が高鳴ってしまう。今まさに、この学校で一人のエースが誕生しようとしているのだ。
 インハイに出場する荒北くんを想像する。今はまだ、ぼやけた後ろ姿しか想像できないけれど、いつの日かその光景をこの目で見てみたい。

「明日もここに来るよ」

 念を押すように絆創膏を強く貼る。痛かったのか荒北くんが一瞬眉をしかめた。

「後でこんなことに時間割くんじゃなかったってオレに言うなよ。あの時も言ったけど、オレはお前になにも返さない」
「わかってるよ」

 救急箱をぱたんと閉じる。荒北くんが立ち上がった。

「……手当てしてくれてありがとう」

 小声で言って、荒北くんが更衣室に去っていく。その時の表情を見ることができず、しばらくの間ぽかんとしていた。
 ――荒北くんに初めてお礼を言われた。ようやくそのことに気がついた時、心の中が一気に温かくなった。


 翌日の昼休み、後ろの席に荒北くんがいないことを確認して、机を向かい合わせにして座っている響子に向き直る。響子は手作り弁当を黙々と食べている。今なら聞いてもいいタイミングだろう。

「ねぇ、響子」
「なぁに?」
「響子から見て、荒北くんってどんな人?」
「ゴホッ、ゴホッ!!」

 突然響子が咳き込んだ。

「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「それはこっちの台詞よっ! もしかしてアンタ、荒北のこと……!」
「ち、違うよっ! ほら、同じ部活で後ろの席なのに、荒北くんのことあんまり知らないなぁって思って……!」
「なんだ、びっくりした……。荒北のことは多少知ってるけど、私よりもアイツに聞いた方が早いと思うよ。おーい田島ー!」
「なんだよ」
「ちょっとこっちに来てー!」

 男友達と談笑しながらパンを食べていた田島くんが口をヘの字に曲げる。しぶしぶと私たちの前に来てくれた。

「アンタ、荒北と一年の頃から同じクラスだったんでしょう? コイツがこれから部活でうまくやるために部員の情報収集してるんだけどさー、なにか知ってることあったら教えてよ」
「本当に? 後でこっそり荒北にチクるんじゃ」
「チクらないって。そういうことして私たちに何のメリットがあるっていうのよ」

 あまり喋りたくないのだろうか、田島くんがなかなか口を開こうとしない。
 響子とふたりでじいっと見つめていると、観念して口を開いてくれた。

「……一年の頃、アイツは不良だったんだ。リーゼント頭でアクセじゃらじゃら着けてて、授業中先生に指名されたら怒って無断早退して……。外では原付乗り回してた」
「その時私は違うクラスだったから知らないけど、噂で聞いたことある。相当グレてたんだってね」

 響子が納得するようにうなずく。妙に口が悪いとは思っていたが元ヤンだったとは……。なんとなく納得はできる。

「けれどある日、なにがあったのか知らないけど、髪をばっさり切って自転車部に入ったんだ。それから授業サボったりはしなくなったけど、怖いことに変わりはないよ。この前、ボクがチャンピ読んでたら、それ読み終わったら貸せよって脅されたし」
「あはは……」

 苦笑いをして今の話をよく考える。
 田島くんのことはそれほど知っているわけじゃないけれど、彼には少し気が弱いところがある。今の話には田島くんの主観も入っているだろう。
 自転車部の記録には、福富くんがきっかけでロードバイクに乗ったと書いてあった。彼と福富くんの間にはなにがあったのだろう。たぶんそれは、今は本人たちに聞いても簡単に教えてはくれないだろう。
 荒北くんのことを知るつもりが、またひとつ気になることが増えてしまった。


 放課後、部活に行くと部室の前で愛車のメンテナンスをしている東堂くんを見かけた。部活開始まで少しだけ時間がある。周囲には誰もいないし、この際だから東堂くんにも聞いてみよう。

「東堂くん」
「おぉ、君か。さっきファンクラブの女子を相手にしたばかりなのだが、君もいつものあれ、やってほしいのか? オレはトークも切れるうえに」
「ま、待って! そんな用件じゃなくて聞きたいことがあるんだけどっ!」
「なんだなんだ? 好きなタイプから趣味までなんでも聞いてくれ」
「その、東堂くんのことでもなくて……荒北くんのことについて聞きたいんだけど。東堂くんから見て、荒北くんってどういう人? 荒北くんとは席が近いんだけど、いまだに彼のことあんまり知らないのどうかなって思ってさ」

 それまで饒舌に喋っていた東堂くんが突然真剣な表情になった。変に勘ぐられたらどうしよう。頬を指で掻いた時、東堂くんが答えた。

「一言で言えば美的センスのないヤツだ。初めて会った時、オレのカチューシャのことをバカにした。大声でまくし立て、目上の人にも構わず暴言を吐く。使ったものは汚したまま片さない! マネージャーの君なら、それは一番よく知っているだろう?」
「言われてみればたしかに……」

 先輩とよく口喧嘩したり、雨の日に使った練習用の自転車を泥だらけのまま元の場所に置いたり……。東堂くんの話にはうなずけるところが多い。

「アイツは部の空気を乱すヤツだ。トミーはアイツの面倒を見ているが、オレは絶対に認めない。だから君も、これから荒北になにかひどいことを言われたらあまり気にするな。アイツは所詮、口だけのヤツだからな」

 前から東堂くんと荒北くんの仲が悪いことは知っていた。だから東堂くんが荒北くんのことを悪く言っても、信じられる情報だけ頭に留めておくつもりだった。
 けど、東堂くんの言い分は間違ってない。荒北くんに悪意があるのかないのかわからないけれど、彼のすることの多くが誰かを怒らせたり、不安にさせている。
 ……私は彼を信じていいんだろうか。あの日の夜の決心が、少しずつ揺らいできた。


 今日の部活はレースだ。さっきから外と部室を何回も往復してレースの準備に取りかかっている。
 もうすぐレースが始まる。今日の仕事のメインは中間地点で各部員の記録を取ることだ。部室からノートを持ち出し、車に向かって歩く。
 ふと、手元に視線を落とした時だった。長年使っている割には妙に綺麗なノートに、そっと表紙を見てみると見覚えのあるノート……

「あっ、いけない!」

 間違えて自主練用の練習日誌を持ってきてしまった! 今すぐ取りに戻らないと……!
 部室に向かって走っている最中、自転車を押して歩く荒北くんとすれ違った。私に気づいた荒北くんが目を眇める。

「なにやってんだよ。もうすぐレース始まるぞ」
「ちょっと忘れ物しちゃって」

 苦笑して再び走ろうとすると、後ろの方からにぎやかな歓声が聞こえてきた。振り向けばうちの学校の女子がずらりと集まっている。

「あれって……」
「東堂ファンクラブのヤツらだよ。大方、東堂の応援に来たんだろ。ヒマなヤツらだよなァ。見てるだけしかできない分際で頑張れ頑張れって。傍観者に言われる筋合いねーよ」
「そんな言い方はないと思うよ。時間を割いてここまで来てるんだし」
「ンなのあっちが勝手にやってることだろ。応援なんてただの自己満足だ」
「……ひどい」

 頭に血が上ってきた。
 今まで、福富くんたちのレースに何度も応援に行ったことがあるから、荒北くんの一言に余計にカチンと来てしまった。

「荒北くんは、今までのレースでそんなこと思ってたの?」
「あぁ。ウッゼー応援がありがてェと思ったことは一度もねーよ」

 今の私は相当嫌な顔をしているかもしれない。しかし、荒北くんは微塵も悪びれない。

「オメェもあれか? 今まで福チャンたちのこと応援しては自己満足に浸ってたんだろ」
「私は応援だけじゃないっ! レース始まる前にはメンテナンスとか色々手伝ってて……!」
「道の上に立たない時点でオメーも傍観者の一人だよ」

 手に持ったノートを握りしめる。
 今までの日々が全部否定された気がして、気がついた時には地面にノートを叩きつけていた。

「おっ、おいっ!!」

 荒北くんの呼び止める声にも立ち止まらず、部室に向かって走る。
 荒北くんがあんな人だとは思わなかった――!!


 家に帰った後、制服も着替えずにベッドの上に倒れ込む。目を閉じて今日の出来事を思い出す。
 荒北くんがあんなにひねくれた人だとは思わなかった。なんで福富くんはあんな人を自転車部に連れてきたんだろう! 東堂くんの言うとおり、部の空気を乱すだけじゃないか……! 思い出したら腹が立って、枕に顔をうずめる。
 見返りなんて、最初から期待していない。ただ、私の価値観と荒北くんの価値観があまりにも違いすぎて、このままじゃうまくやっていけないって思ったのだ。
 床に置いた学校のバッグを見る。あの中には携帯が入っている。今日は自主練の手伝いにいけないと連絡をしようとして――やめた。荒北くんにとって、私はいてもいなくてもどっちでもいいのだろう。
 ふてくされたまま目を閉じる。掛け時計の秒針を刻む音が妙にうるさく聞こえた。


 部室の前でブレーキをかけ、地に足をつける。
 練習を始める前に立ち寄ったものの、部室に明かりはついていない。自主練習の手伝いに来ていない事態に、彼女を完全に怒らせてしまったのだと後悔する。
 しかし、荒北にも言い分がある。部活が始まる前、東堂が彼女に荒北の悪い話を吹き込んでいるところを見てしまったのだ――。
 その後彼女が何事もなかったかのように荒北に接してきた時、疑惑が募った。もしかしてコイツはオレを嵌めようとしているのかもしれない。よくよく考えれば、彼女にそんな狡猾な真似はできないというのに。荒北の頭を冷ましたのは、練習日誌がきっかけだった。
 まだページの半分も埋まっていない、白紙だらけの練習日誌。だが、書き込まれたページには、自主練習のメニューや日々の練習の記録、これからどうすれば荒北が伸びるのかなど様々なことが書いてあった。
 このノートは初日に見せてもらって以来、一度も目を通していない。荒北が好き勝手やっているうちに彼女は自分にできることをやっていたのだ。
 ――自分が伸びると信じて、ノートをまとめている彼女の姿を思い浮かべる。頭を掻き毟りたくなるような罪悪感がこみ上げてきた。
 東堂とのやりとりを先に見てしまったとはいえ、今回ばかりはひどい言葉をぶつけてしまったと後悔している。ここはこちらから謝るべきだろうか? 自転車から降り、携帯を取り出そうとしてやめる。あっちは自分の声さえ聞きたくないほどに怒っているのかもしれない。そしたら謝罪さえも逆効果な気がして、なにもしない方がいいだろうと思ってしまった。
 ……走ろう。こんなことでクヨクヨしているくらいだったら練習に打ち込むべきだ。今度のレースで東堂に負けてしまったら元も子もないのだから。
 ペダルを踏んで、街灯が照らす夜道を走る。今日のペダルはやけに重く感じた。

 ◆

 昼休み、屋上に出て空を仰ぐ。
 一晩経っても怒りは収まらない。あれから顔を合わせる場面は何度もあったけれど、互いに目をそらしてはなにも話さなかった。荒北くんも、私とは関わり合いになりたくないのだろう。昼休みになった時、一人になりたくて屋上に足を運んでしまった。
 これから梅雨の季節に入るとは思えないほど、空に高く昇る太陽は暖かくまぶしい輝きを放っている。そのまぶしさが今はなんだか憎らしい。
 合宿三日目の夜の私の決心は軽々しいものだった。初めて会ってまだ一ヶ月も満たない人のことを信頼して手伝うということがどんなに浅はかなことか、身を持って知った。
 もう、自主練習には行かないでおこう。荒北くんに断りを入れるまでもない。
 ……そうすれば簡単に全部終わるのに、それじゃあ納得できない自分がいる。納得できないからこそ、ここに逃げてきてしまったのだ。
 私は一体なにがしたいのだろう。一体なにに納得がいかないの?
 ――ドアの開く音がした。はっとなって顔を向けると、屋上に訪れたのは意外な人物だった。

「泉田くん……」
「あれ、先輩? どうしたんですかこんな所で」
「私はちょっと、一人になりたくて。泉田くんは?」
「ボクは盆栽の世話を。実はボク美化委員で、盆栽の世話が趣味なんです」
「意外と渋い趣味を持っているんだね……」

 自転車部にいる人たちってみんなアクティブなイメージがあるから、泉田くんのような趣味を持った子はなんだか新鮮だ。
 泉田くんがジョウロを持ち、奥にある盆栽の水やりをする。その様子を黙って眺める。
 泉田くんは、荒北くんのことをどう思っているのだろう。彼もまた、東堂くんたちと同じようなことを言うのだろうか。
 ――いつの間にか、口を開いていた。もう答えは十分に聞いたのに、さらに泉田くんに聞くなんて自分でもどうかしていると思う。

「ねぇ、泉田くん。泉田くんから見て、荒北くんってどういう人?」
「荒北さんですか? ……一言で言えば、怖い先輩です」

 やっぱり答えは同じだ。お礼を言おうとした時、泉田くんの言葉が続く。

「先輩が転校してくる少し前の話です。ボクが入部したばかりの頃、荒北さんがボクや他の新入部員の臭いを嗅いで、これから自転車部でどうなるのか言い当てたことがあるんです。ボクの友達のユキがそれでカンカンに怒ってしまって……。その時ふたりのやりとりを見ていたボクは、正直、荒北さんに近づきたくないなって思いました。あの人に近づいたら最後、すべてを見透かされそうな気がして……」
「やっぱり、そうだよね」

 どうして彼は不器用な生き方しかできないのだろう。呆れを通り越して冷たい感情がわいてくる。

「……でも、自転車に対しては人一倍熱い方なんです。たまに福富さんと荒北さんが話しているところを見るんですけど、この前、ふたりの会話を偶然聞いてしまって。その時の荒北さんなんて言ったと思います? ――もっと速くなるためにはどうすればいい? アイツの速さの秘訣はなんだって。彼はそう聞いていました」

 それまで、私の心を覆っていたモヤが一気に晴れる。

「普段はメンドクセーって言ってばかりなイメージがありましたが、ふたりの会話を聞いてボクびっくりしました。荒北さんは高一の頃から自転車を始めたと聞きましたが、人一倍速くなりたいと努力する人でした。……だから、怖いけどお手本にしたい先輩といったところでしょうか。今の荒北さんに言わないでくださいね」

 泉田くんが言葉を失っている私に気づき、不思議そうな顔をする。

「……先輩?」

 そうだ、荒北くんは自転車が好きな人だ。
 みんなが言うように普段の言動で大きく損をしている。時々擁護できない発言もあるし、また私が怒る日も近いうちにあるだろう。
 だが、それが一体どうしたというのだ。
 私はあの日、夢を語る荒北くんに惹かれて彼の自主練習を手伝うと決めた。
 荒北くんが過去をどうやって過ごしてきたか。誰に対してどう思っているか。
 夢に向かって進む彼を思えば、そんなのは瑣末事でしかないじゃないか――!

「私、謝らなきゃ」

 いてもたってもいられなくて、泉田くんに別れも告げず屋上を飛び出す。
 運悪く荒北くんとすれ違ってしまい、昼休み中に話すことはできなかった。
 帰りのホームルームが終わった時、荒北くんに話しかけようと決意する。直後、響子から掃除当番の仕事をお願いされてしまい、気づいた時には彼はいなかった。
 今日の部活での私の仕事は買い出しで、また荒北くんと話すことはできず。そして、夜を迎える。


 夜、一旦家に帰って支度をして、再び学校に向かって夜道を走る。明かりのついていない部室の前に一人の男の子がいた。片手で携帯を取り出しては見つめている。

「荒北くんっ」

 振り返った荒北くんが、びっくりして携帯を落としそうになる。

「な、なんでオメーがここにいんだよっ!? まだ電話してねーのに!」
「電話……?」
「あ、いや、なんでもねーよ」
「荒北くん、私――」
「待て。先に言いたいことがある。……悪かった」

 荒北くんが深く頭を下げる。悪いのは私の方なのに……。

「これ、落としモン。余計なことも書いてあった気がすっけど、オメーなりに考えてんのよくわかった」

 荒北くんからノートを受け取る。あの時、カッとなって捨ててしまったけれど……荒北くんはこれをとっておいてくれたんだ。
 一度は捨ててしまったノート。それを見て、涙が零れそうになる。
 荒北くんのことを一番信じていなかったのは私だ。周りの話にこうだって決めつけて、荒北くんの何気ない言葉に怒って、自分が決めたことを勝手にやめて。
 もし、荒北くんが本当に悪い人だというのならば。このノートなんか、とっくにゴミ箱に捨ててるじゃないか――!!
 宝物のようにノートを抱きしめる。荒北くんが夜空を仰いだ。

「……最近、オレの昔のことについて探ってただろ」
「なんで……それを知ってるの……?」
「オメーが東堂とオレの話してるとこ聞いたんだよ。その後、平然とした顔のオメーを見て、オメーがオレを嵌めようとしてるんじゃないかって疑ったりした。今思えば、そんな器用なことはできないっつーのにな」

 だからあの時、荒北くんは私につっかかってきたんだ。
 なんだ、一番最初に火種を作ったのは私じゃないか……!

「周りに聞いたんなら知ってると思うけどよ、オレは昔トンがってた。人恋しくて舎弟を作った時もあったけど、大体はオレから突き放して、気がつけば遠ざかってた。もちろん、戻ってくるヤツなんざいねェ。オレがあんなにバカにしたんだ、当然だろ」
「…………」
「……正直、お前も戻ってこないと思ったから驚いた」

 荒北くんが空を見上げるのをやめて私に向き直る。
 安堵と、寂しさと、悲しさと、色んな感情がごちゃ混ぜになった顔。彼は私以上に悩んでいたのだろう。

「改めて言うまでもないけどよ、オメーが思ってるほどオレはいいヤツじゃないんだ。今でもお前のことは傍観者だって思ってる部分があるし、ムカつくけど東堂に指摘されてるとおり人に優しくすることなんざできねェ。またいつかオマエを怒らせる日だってあるだろうさ。だからオレに無理して付き合うこたぁねーよ。インハイで優勝目指すんだったらオレより他のヤツのこと手伝え。そうした方がはるかに有意義だ」
「……ううん。あの時はあんなこと言っちゃったけれど、それでも私は荒北くんの力になりたい。荒北くんじゃなきゃ嫌だよ」

 合宿三日目の夜のことを思い出す。満天の星空の下、今日も一人で自主練習をしている荒北くん。
 どうして、部活動以外の時も練習をしているの?
 その問いに荒北くんは、インハイを目指していることを教えてくれた――。
 私は、荒北くんを応援したい。夢に向かって走る彼の背中を押してあげたいんだ。
 決意を新たに荒北くんに向かって微笑む。荒北くんが眉をしかめる。

「オメー本当にバカだ。今まで色んなヤツ見てきたけど、そん中でもすっげーバカ。バカ飛び越えてボケナスだ」
「ば、バカバカ言わないでよっ! なんかムカつくっ」

 決意を新たにこれから頑張ろうって思った矢先に、荒北くんにたくさんバカにされた。さっきの決意が台無しだ。
 荒北くんが声を押し殺して笑う。

「いいぜ、付き合ってやんよ。こうなったらお前を利用してでも速くなってやらぁ。オレはもう一度上を目指すって決めたんだ。こんな所で立ち止まっていられるかよ」

 荒北くんが拳を突き出す。それは、彼なりの心の開き方なのだろう。
 こういうやり方でいいのだろうか? 私も拳を突き出して、コツンと重ねる。
 月夜の下、荒北くんが微笑む。
 初めて、荒北くんが私に対して笑ってくれた気がした。それが嬉しくて、私も応えるようににっこりと笑う。


 レースまであと残り数日間。限られた時間の中で最善を尽くす。
 レース前日。今日は軽めの練習で済ませて、荒北くんとふたり部室の中にいた。
 今日までヒルクライムの対策をしてきた。多少山には強くなったものの、まだまだ東堂くんに勝てるとは思えない。
 東堂くんにも負けない決め手が欲しい。他になにかできることはないか、ノートを眺める。

「……あれ?」

 ノートのとあるデータに目が留まる。最初は気づかなかったけれど、データを見慣れてきた今荒北くんのとある特徴に気がつく。

「あ? なんだ? 何か忘れモンかぁ?」

 更衣室から出てきた私服姿の荒北くんが私に尋ねる。

「荒北くんって、下りが速いんだね」
「ったりめーだろ。誰でも速いっつの」
「ううん。これ、人並みの記録じゃないよ。荒北くんは下りが得意なんだ……!」

 この前行われたレース。
 一ヶ月前の茅ヶ崎レース。
 なにかの記録になればと思って、色んな地点の記録もノートに書いておいた。
 データの羅列でわかるひとつの特徴。下りを走った彼は、そこで何人もの選手を追い抜いているんだ――!

「明日のレース、最後のゴール前で大きな下りがあるの! その前にも二回あるし、もしかしたら東堂くんに勝てるかもしれない!」
「初めて言われたぞ、そんなこと。福チャンにすら言われなかったのに」

 以前の荒北くんだったら、ここで笑い飛ばして終わっていたかもしれない。でも、今は違う。

「いいぜ、乗ってやんよ。明日の勝負、下りに賭ける」


 そして、レース当日の日を迎えた。
 会場に東堂くんの姿はない。なぜ、受付終了時間を過ぎても彼の姿が見えないのか、福富くんの携帯経由で知ることになる。

『ゴホッ、ゴホッ! すまん、風邪をひいた!』
「オイコラ東堂ォ!! 今日の決着どうするんだよっ!?」
『風邪をひいたのだから仕方ないだろう!? 美形だって風邪をひくのだっ』
「……オメー前に美形は風邪ひかないっつってなかったか」
『ふっ。昔のことなどはるか彼方だ』

 福富くんの携帯の前で、荒北くんがものすごくあきれた顔をする。

『というわけで荒北、勝負はまた今度だ。ワーハッハッハ!!』

 「……勝負はお預けだ」スピーカーモードにした携帯を閉じ、福富くんが澄ました顔で言った。

「勝負は延期になったが、今日のレースは手を抜くな。優勝を目指し、王者の威厳を示せ」
「ハッ!! 注文キツすぎなんだよ福チャン!!」

 福富くんが去っていく。彼は今日中間地点でレースを観戦するという。
 荒北くんの隣に並び、レース前の最後の一声をかける。

「昨日、下りに勝負を賭けてって言ったけど……くれぐれも怪我しないでね」
「なに甘っちょろいこと言ってンだ。怪我の覚悟もしねーで優勝狙えるかよ。……ま、こんな所で大怪我するのはオレもゴメンだ。メンドクセーと思ったら手抜いて走る」
「ゴール前で私、待ってるね」
「へいへい」

 荒北くんがひらひらと手を振って、スタートゲートに向かって歩いていく。
 いつもと変わらないそっけない態度。これは荒北くんが緊張していない証拠だ。今日の彼はベストを尽くすことができるだろう。
 ――頑張れ、荒北くん。
 彼の一番大嫌いな言葉を呑み込んで、ゴールゲート行きのバスに乗る。今日の私はゴールで彼を待つことしかできない。

 ◆

 今日はすこぶる調子がいい。集団の中でできるだけ体力を蓄えて、頃合いを見て一気に飛び出した。なんとか逃げ切り、先頭争いに突入する。
 登りで一人を追い抜いた。先頭まであと二人!
 下りに入る瞬間、荒北が鼻をひくつかせる。
 ――ゴールの臭いだ。
 ゴールゲートの近くで集まっているであろう人混みの臭い。ピリピリと張り詰めた空気。今日の一位は一体誰だと期待膨らむ重圧。体中に、ぞくぞくとしたものが湧き上がる。
 真鶴のレースで優勝した時のことを思い出す。あの時、福富のアシストで飛び出して優勝した。
 あの時のことは決して忘れられない。あの時の感覚をもう一度味わおう。
 優勝を取りたい一心で、急勾配の下り坂に笑って挑む。
 視界に緑ジャージの男が映る。男が荒北に振り返った。

「なっ……!」

 下りで抜かれると思わなかったのか、男は滑稽な顔をして、自分を追い抜く荒北の後ろ姿を見送った。

「大したことないじゃナァイ!!」

 大口を叩き、坂を下っていく。
 カーブに差し掛かった。速度をなるべく落とさず、車体を地面すれすれに倒して進む。
 フレームが音を立てて軋み、あと少し傾ければ落車すると心臓が大きく鼓動を打って警告する。
 歯をきつく噛み締め、恐怖に耐える。
 カーブが終わった。車体の角度を元に戻す。今度は逆方向のカーブが立ちはだかる。
 インコースギリギリでカーブを曲がる。ヘルメットがガードレールに当たる音がした。観客が悲鳴を上げる。

「な、なんだアイツ!? 今、ギリギリのブレーキングで曲がってったぞ!」
「アイツ、真鶴のロードレースで見たことある……! 箱根学園の荒北だぁぁ!!」
「な、なんでクライマーじゃないアイツがここに!?」
「うっぜ!!」

 後ろから聞こえる観客の声に舌打ちをして、ハンドルを握る。
 下りが終わり、平坦に入った。
 遠くの位置に、先頭を走っている三王学園が見える。
 三王学園が逃げ切るか、荒北が奇跡を起こして優勝をかっさらうか、いずれかの未来になる。
 だが、本能が告げている。ここで三王学園を抜くことはほぼ不可能だ。
 ここまで来たら、鉄仮面もよくやったと認めるだろう。
 無理に足を使って明日以降つらい思いをするだけだったら、このままのペースを保って準優勝を取るのもいい。
 ――今までの自分なら、そう思っていたかもしれないが。
 自主練習を手伝ってくれた彼女のことを思い出す。桜舞うサイクリングロードで初めて会ったヤツと、まさかこんな所にまで一緒に来るとは思わなかった。
 一時は、別の道を歩むとも思った。
 だが、彼女は今もこうして自分の背中を押してくれる。
 もし、荒北が優勝を取った時の彼女の反応を想像する。
 きっとアイツは、自分が勝ったわけじゃないのに自身のことのように喜ぶだろう。
 なんて、単純なんだ。
 ……だが、その顔を見るのも悪くない。
 荒北がペダルを強く踏む。
 背後からの異様な気配に、三王学園が振り返る。

「なっ、なんで箱学がいるんだっ!?」

 今日のレースで一番気にかけていた東堂は体調不良で不在だというのに!! このまま全力を使わずに優勝を狙えるかと思いきや、無名の選手がここまで来るなんて!!
 選手の顔を確認したい気持ちもあるが、一刻も速く走らなければ。焦る気持ちでレバーを操作する。
 三王学園の表情がひきつる。焦りのあまり、シフトチェンジを失敗してしまった。
 そうこうしているうちに荒北がどんどん近づいてくる。
 その時には勝負が決していた。
 優勝を確信していた三王学園。ゴールに向かってペダルをひたすら回す荒北。
 優勝は、一番に勝利を願った者のみに与えられる!!

 ◆

 コースの向こうに荒北くんの姿が見える。
 人の間を縫って声を上げる。

「荒北くんっっ!!」

 彼にどう思われるとか、いつの日か言われた傍観者とか、今となってはどうでもよかった。
 全力でペダルを踏む彼を見て、なにもせずにはいられない。合宿のあの日も今日も、今こうして私はここにいるのだから――!!

「頑張れ、荒北くんっ――!!」

 三王学園まであと残り30、20、10メートル! ゴール直前で一直線に並ぶ!
 歓声がピークに達する。一瞬にして勝負が決まる。
 目をそらしてしまいたくなるようなこの瞬間を、この目でしっかりと見届ける。
 ――見えた! タイヤがラインを踏む瞬間を、はっきりと目にした!
 街頭スピーカーから聞こえる勝者への祝福の言葉。夢に向かってひた走る彼が、まぶしい太陽の下で両手を上げて空を仰ぐ。

「ゴ――ルッッ!! 伊那ロードレース優勝者は箱根学園荒北靖友っ!! 無名の王者箱学の選手が優勝だああぁあ――っっ!!」


 表彰式が終わり、周囲は帰る人やテントの撤去作業などで一気に慌ただしくなる。
 人混みの間を縫って、荒北くんの姿を探す。ステージの近くでやっと彼を見つけた。表彰式の時にもらった花束を片手に持っている。

「荒北くん、優勝おめでとう」
「どーも。まさか本当に勝っちまうなんてなァ。これで東堂のヤツがいたらよかったのに。『オレより目立つとは何事だ荒北ーっ!』って絶対に怒るぜ」

 東堂くんの物真似をした荒北くんが笑う。普段不機嫌そうな顔を見せることが多い彼だけど、この時ばかりは嬉しさがにじみ出ている。

「オメーの声、はっきり聞こえた。無我夢中で走ってたのにな」
「え、あっ、ゴメンッ。荒北くんが優勝だーって思ったら、つい口に出ちゃって……」

 あの時、たしか頑張れって言っちゃったような……。怒声を飛ばされることを覚悟して構えていると、荒北くんは怒鳴らなかった。

「……もうオレに気ィ使うな。お前があの時下りで勝負に出ろって言わなかったら、オレは優勝できなかった。オメーはもう、傍観者じゃねーよ」
「荒北くん……」

 今まで、口の悪い彼ばっかりだったから、こうやって感謝の気持ちを口にされると、逆に今度はこっちがなにも言えなくなってしまう。
 ありがとうって言えばそれで済む話なのに。感謝の気持ちが胸いっぱいにこみ上げて、ますますなにも言えなくなってしまう。
 反応に困る私に気づいたのか、荒北くんがわざと話をずらした。

「……にしても、優勝したら花もらうんだな。真鶴ン時はトロフィーだけだったから、こんなのは今回初めてだ」

 「こんなの、男がもらったってどうしようもねェのに」荒北くんが花束を胸に、複雑そうな表情を浮かべる。

「福富くんは部屋に飾ってるよ?」
「マジでっ!? あの鉄仮面に花を愛でる趣味があんのかよっ!?」
「うん。名前もつけてるみたいだよ。最近聞いた名前だと、ジャスミンとか」
「……前から思ってたケド、時々天然だよな、アイツ」

 花を愛でる福富くんを想像したのか、荒北くんが苦い顔をする。
 その表情にふっと笑みがこぼれた時、目の前には花束があった。荒北くんが私に向かって花束を差し出している。

「……やるよ」
「えっ」
「これ、お前にやる」

 真剣な顔で花束をさらに差し出す。いい香りがする素敵な花束。でも、これをおいそれと受け取るわけにはいかない。

「で、でもこれ、荒北くんが頑張った証だし。そんな物を簡単に受け取れないよっ」
「いつも自主練付き合ってもらってる礼。……そんなにいらないなら、ゴミ箱に捨てるけど」
「そ、そんなのダメだよっ!」
「じゃーどうすんだ。受け取るか受け取らないか、二択に一択だ!」

 ゴミ箱に捨てるくらいだったら私がもらう! 慌てて花束を受け取った。今気づいたけれど、この花はマーガレットだ。
 シンプルでかわいらしい花。この花と荒北くんはどこか共通点を感じる。

「……ありがとう」

 これで枯れなかったら、ずっと部屋に飾っておけるんだけどな。胸の中が幸せな気持ちで満たされる。

「じゃあオレ、鉄仮面の所行ってくっから」

 荒北くんが背中を向ける瞬間、一瞬だけ見えた。彼の頬が朱に染まっている――。
 その場に立ち尽くしたまま、荒北くんの背中を見つめる。荒北くんは私に振り返ることなく、人混みの中に消えていった。
 花束をそっと胸に抱く。花のいい匂いが鼻孔をくすぐった。


 着替えている荒北くんを待ちながら練習日誌を見返す。この前のレースでは優勝したけれど、あの時はたまたま幸運が重なって、荒北くんの得意なコースが何箇所かあった奇跡の連続だった。
 次はうまくいくとは限らない。たとえ、今の荒北くんに実力があったとしても、今この時インハイの優勝を目指して必死に練習している人たちがいる。ここで満足するわけにはいかないのだ。
 練習日誌のページをめくる。ページがだいぶ埋まってきて、それと同時に彼の色々な一面を知った。
 ベプシと肉料理が好きなこと。お風呂は一瞬で済ませちゃうこと。本人は頑なに認めようとしないけれど、猫が好きっぽいところ。
 時々棘のある言葉に怒ったりするときもあるけれど、その裏には優しさが秘められていることに最近ようやく気がついた。
 荒北くんはすごく不器用だけど、実は優しい人なんだ。それに気がついた時、自然と荒北くんに向き合うことができるようになった。……あと、彼は目が離せない。
 明日はどんな成長を見せるんだろう。今度のレースではどんな活躍をしてくれるんだろう。
 最近、ちょっとだけ荒北くんのことを考える時間が増えてきた。
 まるで私、荒北くんのことが好きになったみたいだ――。
 そう思った時、くしゃみが出た。

「ンだよ、風邪ひいたのか?」

 「今日何度もくしゃみしてるじゃねーか」更衣室から出てきた荒北くんが言った。背中にはスポーツバッグを背負っている。

「風邪じゃないと思うんだけど……」

 たまたま今日はくしゃみが多い……だけだと思いたい。

「じゃあ帰ろうか」

 電気を消して、ふたりで一緒に部室を出る。
 ロードバイクを携えた荒北くんが私を一瞥する。

「じゃあな。また明日」
「うん。また明日」

 明日も会うことを約束して、家と寮、別々の道を歩む。
 涼しい風を受けてふと空を仰ぐ。今日は満月。宝石を散りばめたような満天の星空が広がっている。
 あの日インハイに出たいと夢を語ってくれた荒北くんのことを思い出す。
 あぁ、あの時もこんなに美しい空だった。