数年後

 さんへ

 この前は合宿でご指導頂きありがとうございました。おかげさまで伸び悩んでいた記録を超えることができて、インハイ優勝に一歩近づきました。頂いたアドバイスを胸に刻み、夏のインハイに向かって全力で頑張っていきたいと思います。

 合宿の時にお話した雄二くんのことについてですが、先日ようやくお医者さんから許可をもらい、練習に復帰しました。春の終わりにあるインハイメンバー選抜の組別トーナメントに必ず勝つぞと意気込んでいます。練習に復帰するまでだいぶ時間がかかってしまいましたが、私は雄二くんなら大丈夫だって思っています。一時期は怪我で自棄になっていましたが、それを乗り越えた雄二くんは誰にも負けない強さを身につけました。彼ならトーナメントは簡単に勝ち抜いてみせるでしょう。かつて泉田さんが立った舞台に彼が立つ日も、そう遠くはありません。

 夏のインハイでは両方のレース共に優勝を取ってみせます。お忙しいとは思いますが、是非見に来てください。

 金井茉莉花

「なに読んでるんだ」

 靖友くんの声で、現実に引き戻される。
 ガタンゴトンと電車の揺れる音がして、車窓から見える景色は同じ方向に流れて消えていく。正面には靖友くん。頬づえをついて、私が持っている手紙を気だるそうに見ている。箱根湯本に向かう電車の中で私と靖友くんはボックス席に座り、それぞれの時間を過ごしていた。

「後輩からの手紙。この前、仕事で箱根学園の自転車部……って言っても、トラックレースに出場している女の子たちの方なんだけど、臨時コーチの手伝いに行ったんだ。そこで前に会った女の子がいて、お礼の手紙もらっちゃった」

 茉莉花ちゃん――金井茉莉花ちゃんは、私が高校三年生の頃に合宿で出会った女の子だ。その年に開催されたインターハイ自転車ロードレースを見て、茉莉花ちゃんとその時一緒にいた雄二くんは自転車の世界に興味を持った。数年後、彼らは箱根学園に入学し、雄二くんは自転車部で今年のインハイメンバー有力候補、茉莉花ちゃんはトラックレースのエースの一人になった。

「箱学、か。たしか二、三年前からトラックレースにも出るようになったんだろ」
「今までロードレース一本だったからね。しかも前は男子のみだったけれど、新たに女子部もできたみたい」

 トラックレースって言ったらピンとこない人がいるかもしれないけれど、競輪と言えばわかるだろう。大きな楕円形のコースを、ピストバイクと呼ばれる特殊な自転車に乗って猛スピードで走っていく。心から勝利を欲してペダルを踏んだ人だけが優勝を勝ち取ることができる、一発真剣勝負の自転車レースだ。
 箱根学園の自転車部は創設した頃からロードレースのみに出場していたけれど、自転車レースの文化が国内に浸透してきたおかげでトラックレースにも挑みたいという人が増えたこと、また、女の子でも自転車レースで頑張りたいという子が増えてきて、三年前に箱根学園は自転車部の門戸を広げた。新しい取り組みに自転車雑誌で記事になって、それを見た時には大変驚いた記憶がある。

「箱学楽しみだなぁ。大きく変わってたりして」

 靖友くんを見ると――彼は珍しくぼうっとしていた。

「どうしたの、靖友くん?」
「いや、なんでもねェ」

 深く頬づえをついて、窓を見る靖友くん。私も倣って窓を見ると、車窓に映る景色の緑がだんだん増えてきた。緑が増えてきたのは、自然豊かな箱根湯本に近づいてきた証拠だ。

 大学卒業後、私は実業団のスタッフになった。実業団といえば、全国や世界にあるレースに出場して優勝を狙うことがメインだけど、実はそれ以外のこともやっている。子どもから高齢者の方までを対象にした自転車教室やジュニア選手の育成など、内容は幅広い。私の仕事はインストラクターがメインで自転車教室では講師役を務めることが多いけれど、レースがあるときはサポートにまわったり、コーチの手伝いをしたり、色んな仕事をやっている。
 時々つらいこともあるけれど、自転車に携われる仕事ができることを誇りに思っている。一人一人の選手が時に壁にぶつかったり、時に乗り越えたり。だんだん成長していく選手の姿を見るのは、何年経っても飽きないのだ。
 誰にも言ったことがないけれど、時々こう思うときがある。靖友くんの成長を見ている時が一番楽しかったなって。
 こう言ったら変に思われちゃうかもしれないけれど、他の人のことを決して見下しているわけじゃない。あの時日に日に伸びていく靖友くんを間近で見ることができてよかったって、心の底から思ってるんだ――。

「この前井上が言ってたぜ。うわさのエースメイカー様に会いたいって。に頼る前にもっと練習しろって言って断ってやったけど」
「あはは……」

 靖友くんの言葉に苦笑する。「エースメイカー」それは、誰かがつけた私の二つ名だ。
 選手が自覚していない才能に気づき、アドバイスをして実力を伸ばす……なんて言ったらカッコよく聞こえるけど、私は選手を見て思ったことをそのまま言ってるだけだ。それに、誰がどんなにいいアドバイスをしたって、それを活かすか活かさないかは選手自身だ。だからそんな二つ名はおこがましいような気がするけれど、みんながもっと速くなってくれるのはうれしいし、今ではちょっとだけ胸を張って受け止められるようになった。

 靖友くんは大学卒業後、研究職に就いた。研究職に就きたいって言われた時はびっくりしちゃったけれど、後でなんとなく納得した。靖友くんは努力家だ。コツコツ続ければいずれ成果が出る研究職は、靖友くんにとって天職だったのかもしれない。
 靖友くんは研究職に就いたけれど、自転車をやめたわけじゃない。地元のショップチームに所属し、休日はレースに出ている。飢えた野獣の名は今も健在だ。
 福富くんや新開くん、東堂くんたちとは今日の夜に行われる東堂くん主催の飲み会で再会する予定だ。みんな、元気にしてるかな。

『箱根湯本、箱根湯本』

 電車内にアナウンスが流れた時、靖友くんと一緒に電車を降りる。駅から出ると、久しぶりの箱根は街並みが大きく変わっていた。近くにショッピングモールができてるし、都会でよく見かけるコーヒーチェーン店が新しくできてるし。遠くを見れば、いくつもの山が連なっている。
 山を見て思う。私はこの町に帰ってきたんだ。

「箱根学園行きのバス、もうすぐ出るみたいだぜ」

 靖友くんと一緒にバスに乗る。今日は飲み会の前に、母校に少しだけ顔を出す予定だ。


 バスから降りて数年ぶりの母校を見上げる。――私立箱根学園。久しぶりに訪れた母校は校舎は変わらないものの、周辺には見たことのない建物がいくつも建っていた。

「あれなんだろう」

 靖友くんにもわかるように、体育館並の広さがある大きな建物を指さす。

「あれ、競輪場じゃね? いくらかかったんだか」
「あら、あなたたち」

 後ろから声をかけられて反射的に振り返る。懐かしい、教頭先生だ。「こんにちは」靖友くんと二人で、どこかぎこちないあいさつをする。

「自転車部は今日休みなのよ。部員が二人いるから部室には入れるけど……」
「今日は少しだけ見学しに来ただけなんで」
「そう? なにもないけどゆっくりしてってちょうだい」
「佐々部先生! 早川先生がお見えになりました」

 駆けつけてきた女の先生が、教頭先生を呼ぶ。

「今行くわ。じゃあ、またね」

 教頭先生が女の先生と一緒に校舎に向かって歩いていく。
 数年ぶりにここに来たんだけど、教頭先生が私と靖友くんのことを覚えていてくれたなんてうれしい。……でもあれ……?

「教頭先生の名字って後藤じゃなかったっけ?」

 靖友くんに聞くと、彼は苦い顔をした。

、知らなかったのか?」
「えっ?」
「後藤のヤツ、オレたちが卒業した後結婚したんだよ。オレが中学の時、野球部の顧問だったヤツと」
「そうなの!? それってすごい偶然だね! どこで出会ったのかなぁ」
「オレが聞きてーよ」

 靖友くんと教頭先生の話をしながら歩いていると、部室までの道のりはあっという間だった。

「失礼します」

 小声で言って部室のドアを開けて中に入る。教頭先生が言っていた人たちは今どこかに出かけているのか、中は無人だった。

「部室、ちょっときれいになってる。壁の色が明るくなったし、ローラー台とか新しいものに変わってるし」
「高校ン時はあんまり気にしなかったけど、今見ると豪華な施設だよな。ショップなんてローラー少なくて毎回交代制だっつーの」
「あはは……。でも、懐かしいなぁ。よくここで練習やってたっけ」
「まさか自主練手伝うって言った次の週に、部室の鍵持ってくるなんて思わなかった。……けど、のおかげでオレは、インハイに出ることができた」
「私は大したことはしてないよ。インハイに行けたのは靖友くんの力だよ」

 靖友くんと二人で笑って部室を見渡す。ゴムとオイルが混じった独特の匂い、目を閉じればよみがえる部員たちの姿……。あの時過ごした日々は、今になっても鮮明に思い出せる。

 あまり長居しているのも悪いので、一通り見学した後靖友くんと一緒に部室を出た。携帯を取り出して今の時間を確認する。

「まだ時間あるね。ちょっと早いけど、東堂庵行く? さっき連絡がきたんだけど、福富くんと新開くんが駅に着いちゃったんだって」
「いいや、まだいいだろ。それより先に、寄りたい所があるんだ」


 靖友くんと一緒に、数年ぶりにこの道を訪れる。
 数年ぶりのサイクリングロードは桜の季節で、アスファルトと豊かな緑の景色に華やかなピンクのアクセントを加えている。自転車道の隣にある土手の向こうにはゆっくりと川が流れている。
 この道は全く変わっていない――。ここに来て改めて神奈川に帰ってきたんだと実感する。
 靖友くんと手をつないでサイクリングロードを歩く。時折吹く風が体にあたって気持ちいい。

 しばらく歩くと、川を一望できる見晴らしのいい場所に着いた。夕日が水平線に沈みかけて、辺りを橙色に染めている。
 ここは、私にとって一番の思い出の場所だ。靖友くんが初めて心の内を明かしてくれた場所。何年経っても思い出が色褪せることはない。
 二人でフェンスに手をついて夕日を眺める。
 高校を卒業してから多くの時間が流れた。大学生になって、社会人になって。子どもから大人になるまでの間、色んなことを覚えた。
 深い愛し方を覚えて靖友くんと何度も体を重ねたこともあれば、破局寸前のケンカだってしたこともある。
 色んなことがたくさんあったけれど、心が折れそうな日にはお互いに支え合って――今もこうして私は、靖友くんと一緒にいる。
 ――もっと、靖友くんと一緒にいたい。変わらない景色を見てそう思うものの、それをうまく表す言葉が見当たらない。

「なぁ、

 穏やかな風が吹く。靖友くんの優しげな声色に、風でなびく髪を抑えて振り返る。

「オレと、結婚してくれ」

 不意打ちの言葉に、頬に涙が伝う。
 思い出の場所で、女の子なら誰しもが夢焦がれるであろう言葉を言ってくれた。……靖友くんらしい。ここに来る途中やけにそわそわしてたけれど、それはきっと、今この瞬間のことを思い浮かべて緊張していたのだろう。
 もちろん、私の答えは……

「うん」

 涙がぼろぼろと零れ落ちる。
 私はこれからも、靖友くんと一緒に生きていく。