62.5

 部活動の時間が終わり、しんと静まり返った箱根学園自転車競技部部室。そこで事は起こっていた。
 荒北が床に手をつけ、土下座をしている。土下座をしている先には、パイプ椅子に悠然と座る福富。部室にいるのはこの二人だけだ。もしこの状況の中、運悪く部室のドアを開けた第三者が現れたら、絶句するかそっとドアを閉めるかの二択の行動を取るだろう。
 一見荒北が土下座をするほど悪いことをしたかのように見えるこの光景。だが実はそうではなく……

「福チャンのビアンキ……オレに譲ってくれないか?」

 顔を伏せたまま、荒北は言った。
 今荒北が乗っている自転車のビアンキは、元は福富の所有物で、とあるレースを機に部活引退時まで借りる約束をしていた。約束を交わした当初は、約束通り時が来れば返すつもりだったが……夜の自主練習の時や、多くのレースで乗ってきたもはや「相棒」とも言える存在。三年生に進級した今になって、手放したくないと思った。
 まだ部活引退まで四ヶ月ほど先の話だが、こういう話は早い方がいい。そう思った荒北は部活終わりの時間を狙って、福富に談判をしているわけだ。

「もちろんタダでとは言わねェ。あの自転車、いくらぐらいで譲ってくれる?」

 自転車の値段はピンからキリまであるが、ロードレーサーの家系の福富が中学時代から愛用していた自転車だからそれなりの値がするのだろう。この後どうやって親と交渉するか頭を悩ませながら、荒北は苦しげに言った。

「金はいらん。お前にやる」

 福富の思ってもみなかった言葉に、荒北が顔を上げる。

「でも福チャン、あれ結構金かかってンだろっ」
「だがいい。今のオレにはジャイアントがある。……それに、あれはパーツが古い。だから金など気にするな、あれはお前の物だ」
「ありがとう福チャンっ!」

 荒北は立ち上がり、涙ぐんで福富の両手を取る。上下にブンブンと振るものの、鉄仮面の表情は変わらない。

「この借りはいつか絶対に返す!」

 心配事がなくなり、すっかり心穏やかになった荒北は福富の手を離し、踵を翻す。
 ……そういえば、福富にもうひとつなにか大事なことを言っていないような……。少しだけ考えを巡らせてみるが、なにも思い出せない。すぐに思い出せないということは、それほど大事なことでもないのだろう。
 浮ついた気持ちでドアノブに触れると、ふとのことを思い出した。

「あっ――」

 荒北が硬直する。
 ――そうだ。大事なことを思い出した。
 あの日の病院の出来事から、とどうなったのか福富には言っていないままだ――!

「どうした、荒北」
「あの……福チャン。のことなんだけど……」

 ギギギギギ……という効果音がぴったりな速度で福富の方を振り向く。

『……これから、どうするつもりだ?』
の目が覚めたら真っ先に謝る。……もう二度と、コイツの手を離さない』

 病院でに対する思いを福富に打ち明けた荒北は、あれからに自分の気持ちを伝え、両思いであることを確認した。今は自転車部の活動に専念したいこと、そのために割く時間がないことが理由で恋人関係にはなっていないが……。福富にはなにかと世話になった。なのに、その後どうなったかを説明するのをすっかり忘れて、今になってやっと気がついた。
 ……でもよ、と荒北は思う。でも、まだとは恋人関係になったわけじゃない。中途半端な経過報告をされても、福富は「そうか」と言うだけじゃないだろうか……。
 さっきまで表情に変化のなかった鉄仮面は急に険しい顔をして、

「まさかお前……になにかしたのか!? 泣かせるような真似をしたらオレが許さんっ!」

 目をくわっと見開き、荒北の胸ぐらをつかむ。力強くつかまれていて、荒北の足のつま先が宙に浮いている。

「待った福チャン!! なんか誤解してる!!」


 なんとか福富を宥めた荒北は、素直に今のとの関係を説明した。

「ったく。オレがのこと泣かせるわけねーだろ。たぶん」
「…………」

 福富の眉根が寄る。荒北は慌てて、

「いや、オレ口悪いし。最近は気ィつけてるけど、知らないうちにのこと傷つけてんじゃねーかとかそういうのだよ」
「言葉使いには気をつけろ」
「りょーかい。……というわけで、とはそういう関係だから」

 の話をしたらなんだか照れくさくなってきてしまった。荒北は踵を翻し、今度こそ部室を出ようとすると――

「待て。はやらん」

 ドアノブに手をかけようとした荒北が再び静止し、顔色が真っ青になる。
 これは……もしかして。福富はのことが好きなのだろうか――!?
 あれは忘れもしない、去年のインハイの二日目。レースが終わった後、テント裏で福富と、二人が抱擁する光景を見てしまった。の好意は荒北に向けられていることがわかったが、福富自身の気持ちはまだわからない。幼なじみによくありがちな「小さい頃から好きだったんだ」というのはよくある展開だし、かつての病院の時は「オレものことが好きなんだ」とは言える雰囲気ではなかったから、もしかしたら今日までその気持ちを胸に秘めていたのかもしれない。

「もしかして福チャン……のことを……」

 おそるおそる福富に振り返る荒北。
 もし、福富がのことを好きだと言えば……荒北とと福富の三角関係になってしまう――!

「父さんと呼ぶなっ!!」
「呼んでねェよ!!」

 言うまでわからなかったギリギリの冗談に、後頭部の血管がブチ切れそうになる。どうしてこの鉄仮面にはまれに不思議チャンスイッチが入ってしまうのだろうか。

「娘を下の名前で呼ぶなっ! どうせふたりきりのときにはこっそり下の名前で呼んでいるのだろう!」
「むぐっ……!」

 荒北の顔がひきつる。全くもってそのとおりだ。とふたりきりのとき、荒北はのことを下の名前で呼んでいる。

「娘はやらん。もし、嫁にもらうというのならオレを倒せ」
「なんでだよ……っていうか結婚前提の話なのかよ……。…………まぁ、結婚してやらなくもないけど……」

 後半は誰にも聞き取れない音量でつぶやいた荒北。福富はそれには触れず、

の親は今遠い所にいる。今はオレがの親代わりのようなものだ。だから、お前はオレを倒さなければならん。本当にアイツを嫁にもらいたいのなら、オレに勝て」
「…………」

 荒北が口を一文字に結ぶ。
 今の彼の頭の中には、福富に負けるまいと思う熱い心ではなく、こんな話するんじゃなかったと後悔の念が渦巻いていた。


 十五戦目。折れそうになる心をなんとか保ちながら、机の上に肘をつけて、福富と手を重ねてがっちり握る。
 部の備品であるスタートシグナルを使い、青ランプが灯り音が鳴ったところで腕相撲開始。

「ぐっ――!!」
「…………」

 荒北が歯を剥き出しにし、手に力を入れるものの、表情の変わらない福富に押され手の甲が傾く。
 ――ぱたんっ!
 荒北の手が机につき、十五戦目は無勝十五敗となった。

「なんでだよ!! 福チャン腕相撲強すぎじゃねーかっ!!」

 ついに耐えられなくなった荒北が机の上を両手で叩き、福富に抗議する。
 腕相撲をしている成り行きはこうだ。荒北がなにで勝負をするのかと聞いたところ、福富は即座に「腕相撲」と答えた。反射的に「なんでだよ」といつものノリツッコミをしてしまいそうになるが、あることを思い出して口をつぐむ。たしか、中学生の頃南雲からこう聞いたことがある。

『もし、なにか勝負事を挑まれたら勝負方法は腕相撲にするといいよ。野球部の人の腕って、筋肉があるから有利なんだ。特に、靖友の腕ならなおさらね』

 福富がなにを思って腕相撲と言ったかは知らないが、相手は小さい頃から自転車に乗ってきただけの人間。ブランクはあるものの、小さい頃からボールを投げてきた自分の腕力にはかなわないだろう。このゲーム、勝機がある。

「やってやるよ、福チャン」

 こうして安請け合いしたものの、実際やってみると、なぜか福富の方が強かった。

「当たり前だ。オレは強い」
「なぁ福チャン……。ストラックアウトとか、原チャのコーナー攻めとか別の勝負にしねェ?」
「さりげなく自分が得意な勝負にするな」
「ちっ。もうこの勝負やめにしよーぜ。腕が痛くならァ」

 荒北がパイプ椅子から立ち上がり、そそくさと帰ろうとすると

「全くダメだな。そんなことではを守れないぞ」

 聞き捨てならない言葉が聞こえた。荒北は眉根を寄せ、福富に鋭い視線を向ける。

「もう一戦やるぞ。オレがアイツを守れること、証明してやんよ」

 パイプ椅子を乱暴に引いては座り、机に肘をついて、福富に向かって手を差し出す荒北。
 福富は無言で荒北の手をつかみ、空いた手でスタートシグナルのスイッチを押す。スタートを告げる機械音が鳴り、十六戦目が始まった。


「また負けたァッッ!!」

 悔しげな声とともに、力尽きた荒北がばたりと床に倒れる。
 腕相撲三十戦目は無勝三十敗に終わった。途中で福富が疲れた隙を突いて力を入れるという策を思いついたものの、福富が疲れるよりも先に荒北がバテてしまった。
 視界がぼやけてくる。いけない、まだ一勝もしていないというのに、このままではと自分の仲を認めてもらえない――。
 焦る荒北をよそに、部室のドアが開く音が聞こえた。

「お疲れ様、福富くん……と……えぇっ!? 荒北くんっ!?」

 聞きなじみのある声。自分のもとに駆けつけたと思うと、そっと後頭部を支えられての顔が近づく。後頭部には柔らかい感触。ぼんやりとする意識の中、膝枕されていることを理解した。

「福富くん、なんでこんなことを……」
「冗談が過ぎてしまった」
「冗談ってなに!? あーもうっ、話は後でたっぷり聞かせてもらうから! 大丈夫、荒北くん……?」

 が泣きそうな目で荒北を見る。

「大丈夫じゃねェよ……。あぁ、眠たくなってきた」
「保健室、連れていった方がいい?」
「いや、いい……。ちょっとだけ眠りゃ、すぐによくなる……」

 の顔や、部室の天井がどんどんぼやけてくる。
 さっき福富は冗談だと言っていたが、本当に冗談なのだろうか。に言ったのは建前で、本当は腕相撲で勝負がつかなかったことにより今の関係を認めないつもりなんじゃないだろうか……。次の日、再戦を申し込んだら認めてくれるだろうか。そんなことを考えながら荒北の意識は遠ざかっていった。


「はぁ……」

 放課後、校舎近くの階段の段差にて、制服姿の荒北が深くため息をついた。

「どうしたの? 荒北くん」

 ジャージ姿のが荒北の隣に座る。荒北は膝に顔をうずめて、

「昨日、嫌な夢見た……。福チャンに勝てない夢」
「えっ」
「オレ、今日から鍛えることにするワ」

 疑問符を浮かべるをよそに、荒北は自分の手のひらを見つめた。