67.5

 早朝、人目を忍んで外に出た織田は慣れない所作で自転車のサドルに跨がり乗ろうとしていた。部員の練習の様子を何度も見ているのでロードバイクに乗ることはできたが、普通の自転車とは形の変わったハンドルに体が前傾姿勢になり、これがなかなか慣れない。ペダルを踏み、少し進んだ所で自転車が傾いて落車。何度もやっては落車して、自分はなにをやっているんだろうと思った時だった。

「前だけを見ろ。下向いてちゃそいつは乗りこなせねーよ」

 突然の来訪者の声に織田は体を震わせた。ゆっくりと後ろを振り返ると、声をかけたのは荒北だった。こんな時間に朝練でもしようと思ったのか、サイクルジャージを着ている。

「荒北さん……」

 織田が気まずそうに視線を地面に落とす。織田は荒北のことが苦手だ。織田の几帳面な性格と荒北の粗暴な性格は非常に相性が悪く、織田は荒北に苦手意識を持っていた。

「自転車、乗らないのか?」
「整備が充分か見てただけです。決して乗りたかったわけじゃ……」
「ふぅん」

 荒北は階段の段差に腰かけ、織田が乗ろうとしている自転車を気だるそうな目つきで見ている。

「ボクを笑いに来たんですか?」

 自転車を自在に乗りこなせる荒北から見れば、織田はとんだ笑いものだろう。そんな答えにたどり着いた織田は荒北をキッとにらむ。しかし――

「ア? なんで笑わなきゃいけねーんだよ。誰だって最初はそんなモンだろ」

 笑うと思っていた荒北は、当たり前のように言った。意外な反応に、織田は虚を突かれる。

「あぁ、もうメンドクセーなぁ! とっとと固定ローラー持って来いよ。オレが教えてやっから」
「なんで……」
「いいから!」

 荒北が目を眇め、「早くしろ」と付け足して急かす。いつもは素っ気ない態度が多い面倒くさがり屋の荒北はなにを思って自分の練習を手伝おうとしているのか……。織田は不思議に思いながら、ローラーのある用具室に駆け出した。


 固定ローラーで自転車のコツをつかんだ織田は、荒北に強引に連れていかれてコースを周回していた。
 荒北が織田を引いて走る。織田のペースに合わせているのか、ペダリングはいつもの走りより緩やかだ。
 一周目はフラつきが多かったが、何度か周回するにつれて自転車に慣れてきた。喋る余裕のできた織田は荒北の背中に向かって口を開く。

「どうして荒北さんは自転車を始めたんですか? 箱根学園に入学する前は、自転車に関することは一切やっていないと聞きました。箱根学園に入学時は、素行不良で多くの先生を困らせたことも知っています」
「こっそり人のこと調べてんじゃねーよストーカー」
「それがマネージャーとしての役割ですから。部員の力を伸ばすために、ボクは何でもします」
「ケッ」

 織田の前を走る荒北のペダリングが荒々しくなる。なぜ入学当時は不良だった男が更生して自転車に乗っているのだろうか。なんとなく興味が湧いて理由を知りたかったのだが、苛立っている様子を見ると聞くことはできなさそうだ。
 前を向いて、荒北の後を追う。話はこれで終わりだと思ったら、荒北の言葉が続き――

「しょうもない過去のことにとらわれて、目の前にあるモン全てから目をそらしてたある日、福チャンに会った。なりゆきで勝負をすることになって、オレの原付と福チャンの自転車……どっちが先にゴールまで着くか競った」

 風を切りながら淡々と語る荒北。織田はじっと荒北の背中を見つめた。

「こっちは最大速度で走ってるっつうのに、あっちは原付よりも速い。細い車体のくせに、なんであんなに速く走れるのか不思議に思って……。気がつけばオレは自転車部に入っていた」
「その自転車で、あなたはなにを目指してるんですか」
「んなの、インハイに決まってんだろ」

 インターハイ。そういえば入部した時、がこう言っていた。

『夏にインターハイがあるんだ。今年は私にとって最後のインハイで、その日が来るのがとても待ち遠しいの』

 まるでクリスマスを待ち遠しく思う子どものように語っていたことが印象的で、よく覚えている。織田にとってインハイは年に一回、一番の強者を決めるというだけのただの大会。そんな大会のなにが楽しいのだろうか。
 だが、今目の前にいる荒北もと同じ志を持っている。彼らが待ち焦がれるインハイは一体どんな点に惹かれるのだろうか――。

「どうだ、ロードは?」
「風が気持ちいいです。ボク、運動は苦手な方ですが、自転車に乗っていると速く走れそうな気がします」
「……そうか」

 荒北が力強くペダルを回す。

「飛ばすぞ。このままじゃ物足りねェ」
「わっ、ちょっ、待って――!!」

 織田は慌ててギアをアウターに入れて荒北の後を追った。今も心臓は速く鼓動を打っていて、ロードバイクの恐怖は残っている。……だが、子どもの頃、初めて自転車に乗った時もたしかこんな気持ちだったような。はっきりと思い出せない昔の記憶に思いを馳せながら、織田はペダルを回した。