29.5

 ――暑い。
 照りつける太陽の日差しが強くてつらい。
 ケージに差しているボトルは二本とも割れていて中身はからっぽだ。ボトルを受け取る時にぶつけたのか、今となっては原因がわからない。
 暑い。暑い。暑い。
 喉がカラカラで、頭がぼうっとする。このままじゃ途中で脱落してしまうだろう。
 それは嫌だ。■■の夢をかなえるために、死ぬほど練習した。どんなにムカつくことがあっても一線を越えないように踏みとどまった。
 入部当時は全然信用されなかったが、今では周囲から期待されるようになった。なのにこんなささいなことで、せっかく手に届きそうだった優勝を逃してしまう!
 暑い。暑い。暑い。
 恥を忍んで、福富にボトルを分けてもらおう。
 前方を走る福富に、「ボトルを分けてくれ」と声をかける。

「それはできない。オレにはやることがある」

 福富がペダルを踏んで先に行く。
 そこまでして優勝が欲しいか! 箱学は昨日ステージ優勝獲ったじゃろ!
 そう叫びたがったが先に力尽きた。自転車が傾いて、無様に横転する。女性客の悲鳴が聞こえた。
 最後に視界に映ったのは、知らない男の顔。

「おい! おい、大丈夫か!?」

 水をくれ。カラカラになって死にそうなんじゃ。
 せっかくここまで来たのにワシ、モッてないのぅ。


「――はぁっ、はぁっ……!」

 喉の渇きを覚えてベッドから飛び起きる。
 待宮栄吉はベッドの脇に常備してあるミネラルウォーターを一本手に取って、一気に飲んだ。
 喉の渇きを潤して大きなため息をつく。また、インハイの夢を見た。どうせ見るのならインハイ最終日で表彰台に登る夢がいいのだが、いつも夢に見るのは忘れもしないあの日のことだ。

「……最悪じゃ」

 この嫌な夢はどうすれば見ないで済むのだろう。

 ◆

 自転車に乗って走ろうとしたら、通り雨が降った。福富寿一は寮の軒下で、段差に座って雨がやむのを待っていた。
 思えば子どもの頃から自転車に乗ってばっかりで、こうしてぼうっと過ごすのはこれが初めてだ。何の生産性もない無駄な時間。だが、今の福富にはそれが心地よく思えた。


 あれは福富が十二歳の頃だった。尊敬する兄が久しぶりに実家に帰ってきて、福富の部屋に訪れていた。
 福富の部屋の一角には、トロフィーが並べられた棚がある。

「寿一はすごいなぁ。またオレがいない間にトロフィーが増えてる」

 兄が棚を見ては感嘆の声を上げる。

「もうお前に教えることはなさそうだな。寿一は充分に強い」
「いいや。まだまだ兄貴には及ばない。この前なんかイタリアのレースでステージ優勝獲ったじゃないか」
「あれはたまたま運がよかっただけさ」

 そんなに謙遜しなくてもいいのに。兄には謙遜癖がある。

「寿一に教えることはもうないけど、あとお前に必要なものは負けたときの痛みを知ることだな」
「敗者が得るものなどなにもない」
「寿一は厳しいなぁ。……ロードレースは自分との戦いでもある。心から勝利を欲した者のみが勝利を勝ち取ることができる。負ける痛みを知っているヤツは、どんな状況になっても最後まであがくんだ。そういうヤツが時々勝利をかっさらうからいつも油断できない」

 負けた経験はあまりないが、勝利にこだわる気持ちは人一倍ある。兄の言葉は、福富の心には響かない。

「ちょっと、寿一には難しかったかな。まぁ、無理もないか。同年代のヤツでお前と互角に戦えるヤツが一人もいないからな。……早くお前のライバルが見つかるといいんだけどな。そればっかりは運に頼るしかないな」

 あぁ、そうか。あの時兄貴が言っていたのはそういうことだったのか。
 あの時オレはとっさに手を伸ばして、金城を落車させた。兄貴の言っていることがようやく理解できたのは今になってからだ。
 ――オレには、自転車に乗る資格がない。


 雨を見ている最中、子どもの頃を思い出した。福富が我に返った後も、ザーと雨が降りしきる。
 雨の音に混じって、寮のドアが開く音がした。

「げっ、雨降ってんじゃねェか」

 荒北が寮に戻り傘を取りに行こうとするが、軒下でぼうっとしている福富に気がついた。

「なにやってんだよ福チャン。日なたぼっこっていう天気でもないだろ」
「そうだな。……だが、意外に心が落ち着くものだ」
「そうかァ? 雨なんてうぜーしダリィし、オレは嫌いだけどな」

 荒北があぐらをかいて福富の隣に座る。雨が嫌いと言いながら、居座る気満々のようだ。
 荒北と共に、雨を眺める。

「昨日、榛名主将と話をした。予定どおり、オレを主将にするそうだ」
「ハッ、よかったじゃねェか」
「オレはそうは思えない」
「……まさか、部活を辞めるなんて言うんじゃねェだろうな?」
「それはない。退部するのはただの逃げだ。だが、このまま主将になる気にもなれない」
「じゃあどうすんだ」
「荒北。お前だったらどうする」
「質問に質問で返すなヨ」
「お前の意見が聞きたい」

 荒北が眉間にしわを寄せて真剣に考える。

「……ま、謝るしかないんじゃナァイ。頭丸刈りにして、菓子折り持って、殴られるの覚悟で相手のところに行く。じゃねェと、いつまでもケリつかねェだろ」
「お前らしいやり方だな。勇気がいるが、悪くない方法だ」

 福富がすっと立ち上がる。

「じゃあ、早速坊主にするか」
「ま、待て福チャン! 福チャンに坊主は似合わねーよっ! 東堂もダサいって反対するはずだ!」
「そうか……?」
「悪いこたぁ言わねェ! せめて髪短くする程度に留めとけ!」

 そんなに坊主が似合わないと思われてるのか、荒北に大反対されてしまった。
 やはり、己のしたことにちゃんと向き合わなければならないのだろう。たとえ罵詈雑言を浴びせられたとしても、ロードレーサーとしてやってはならないことをしたのだから仕方ない。
 だが、すっきりした。荒北と話してようやく己のやるべきことが見えてきた。

「意外と、他人に相談することで答えが見つかるものだな」

 福富が荒北の横顔を見る。荒北は空を見上げて、なにか思い詰めたような顔をしていた。

「なぁ、福チャン。福チャンってと――」
「おーいフクー! この前フクが買った雑誌を借りたいのだがー!」

 突然降ってきた声に、荒北と福富が同時に振り返り、顔を上げる。東堂が二階の自室の窓から顔を出して、福富を呼んでいた。

「……やっぱなんでもねェ。ほら、早くしねェと東堂うっせぇぞ」
「あぁ」

 荒北の言葉が聞き取れなかった福富は、何の疑問を持つことなく寮に入り、東堂のもとに向かった。
 福富を見送った荒北は、険しい表情をして立ち上がる。
 ――福チャンってと付き合ってんのか。
 そう聞こうとしたが、東堂の邪魔が入ってよかったと思う。二人が付き合ってようがそうじゃなかろうが、そんなのはどうだっていいことだ。今はただ、上に行くことだけを考えていればいい。たとえ福富とが恋仲になったとしても、余計なことは荒北には不要だ。