36.5

 水をくれ。カラカラになって死にそうなんじゃ。
 せっかくここまで来たのにワシ、モッてないのぅ。

「――はぁっ、はぁっ……!」

 喉の渇きを覚えてベッドから飛び起きる。
 また今日も、この夢を見た――。


 夏休み明けの始業式。久しぶりに学校に行くと、校舎の壁に一枚の垂れ幕があった。垂れ幕には「バレー部インハイ優勝」と書かれている。
 ボトルが割れる事故さえなければ、自転車部の垂れ幕も一緒に並んでいたはずなのに。昨日見た夢のことを思い出して、待宮は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 垂れ幕から目を背け、校庭の隅にある自転車部部室に向かう。
 部室に行くと、井尾谷と町田が長椅子に座って一緒に雑誌を読んでいた。待宮に気づいた井尾谷が顔を上げる。

「なんや。朝からエロ本読んどるのか」
「ちがうわい。なんで町田と一緒にエロ本読まなきゃいかんのじゃ。あいにくワシたちが読んでるのは全年齢向けの純粋なスポーツ雑誌じゃ」

 井尾谷が雑誌を閉じて、サイクルタイムの名前が書かれた表紙を待宮に見せる。

「それ地味に高いじゃろ。お前らも物好きじゃのう」
「敵校の選手のことも載ってるし、案外敵の情報を調べるにはうってつけなんじゃ。どうじゃミヤ、お前も読んでみないか?」
「朝練までまだ時間があるしそうしようかのぅ」

 井尾谷から雑誌を受け取って、パラパラとページをめくる。
 最新のロードバイクの広告、今月号の特集である全国の実業団の実生活に迫ったインタビュー、秋から冬にかけて行われる予定のロードレースの紹介……。その中で、とあるページに目が留まった。
 忘れもしない、水色と青のサイクルジャージに金髪の男。福富寿一が記者からのインタビューに答えている記事だ。
 あの時、福富がボトルを分けてくれれば――。
 福富が写ったページを、ぐしゃぐしゃに握りつぶす。ぼんやりとした後悔が一瞬にして大きな憎悪に変わった。
 憎い。憎い。憎い。
 他校のトラブルを見てみぬフリをして、優勝を勝ち取った箱学が憎い。
 勝つことがさも当たり前のように、悠々にインタビューを受けている箱学が憎い。
 あの時福富がボトルを分けてくれれば、ワシはステージ優勝を獲れたのに。
 箱学さえいなければ――今頃は違う道を歩いていたのに。

「ミヤ……」

 心配した井尾谷が待宮に声をかける。だが、井尾谷の声は待宮には届かない。
 待宮が雑誌を床に叩きつけ、サイクルタイムの表紙を踏みにじる。

「ハコガク。お前らは絶対に潰すけんのぅ」

 待宮が雑誌を踏み潰したまま、一人つぶやく。
 この恨みは雪辱を果たさない限り、消えることはないだろう。


 それから待宮は打倒箱学を目指し、部活の練習に励むようになった。
 しかし、二週間経った今も、待宮の走りは以前と変わらない。インハイ前にもあんなに必死に練習したのだ。ただ練習量を増やしただけでは前と同じだ。もっと自分を追い込むために――決定的ななにかが必要だ。
 だが、これからどうすればいいのだろう。敵校のリサーチもさんざんやった、どうすれば速くなるのか研究もした! これ以上、なにをすればいいのだろうか――。
 待宮が思い悩んだ時、サイクルジャージのポケットに入れていた携帯が振動した。携帯を確認すると一通のメール。待宮が中学の頃から付き合っている彼女――佳奈からのメールだ。

『差し入れ持ってきたんやけど、これからそっち行ってもいい?』

 ――あぁ、そうだ。捨てるものがあったじゃないか。
 同時に待宮の脳裏によぎるのは佳奈と過ごした日々。だが、本気で優勝を狙うのならばこんなものは捨てるべきだ。
 本当にそれでいいんじゃろうか? 心のどこかにある良心が、待宮をとがめる。
 その良心とやらにこう言ってやろう。なにかを捨てなければなにかを得ることはできない。女にうつつを抜かしている男が、強豪校に打ち勝って勝利を得ることなどありえない!
 待宮は箱学に勝つために、大切なものを切り捨てる決意をした――。

 ◆

「また今日も荒北に勝った」

 得意気に笑う平野をキッとにらむ荒北。

「オレはなぁ、練習のときは本気出さないって決めてんだよ」
「そのわりには息切らしてペダル踏んでたけどぉ」
「ちっ」

 荒北の大きな舌打ちに怯んだ平野が逃げるように去っていく。

「……クソムカつく」

 階段の段差に座り、ベプシを一気に飲む。
 快晴続きの今日、学年別のトレーニングレースが行われた。最近の不調を挽回しようと全力でペダルを踏んだが、結果は平野に馬鹿にされるほどの順位。自分自身に憤りを感じた荒北は深くため息をついた。
 最近、思うように走れない。練習の成績は伸びず、レースに出場してもほとんど二桁の順位に入る。このままでは福富のエースアシストを務めることができないどころか、インハイメンバーになれない可能性だってあるだろう。そう思うと荒北の苦悩は深くなっていった。

 二学期の頭に、福富からあることを告げられた。

「これからオレは来年のインターハイに向けて最強のチームを作る。前にも話したが、折を見てお前にはオレのエースアシストという役割を任せ、レースに出場させようと思う。今のうちに力をつけておけ」
「任せろ福チャン」

 あの時、胸を張って約束をしたのに。実力は落ちる一方で、一番力になりたいと思う友のアシストは今秋になってから一度も務めたことがない。

「……くっそ」

 頭を抱える荒北。
 なぜ、思うようにうまくいかないのだろう。に対するモヤモヤが消えたと思ったら、今度は自転車のスランプに悩まされて。底が尽きない悩みに、あの時と同じ既視感がする。野球肘の後遺症に気づき、それでも球威が戻ると信じて練習に励んでいたあの日。あの日と今は、状況がとても似ている。
 考えに沈んだ時、風景とは別の異物が視界に飛び込んできた。チョコレート味のパワーバー。これを差し出すのは一人しかいない。

「……新開」
「食う?」

 パワーバーを口にくわえた新開はにこやかにそう言った。

「いらねーよ」

 新開の手を払いのけ、立ち上がる荒北。ポケットに手を突っ込んで歩き、その場を離れる。荒北の背中を新開は視線で追った。

(靖友……大丈夫かな)

 荒北の悩みを知らない新開は、黙って荒北の背中を見送ることしかできなかった。

 ◆

 談話室にて、監督と福富がソファに相対して座る。
 監督の片手には、自転車部の部員である荒北のデータが記された資料。険しい顔をして資料に目を通していた。

「なぁ、福富。来年のインハイはお前と荒北、東堂、新開をメンバーに考えてるって言ってたな」
「はい」
「荒北は外した方がいいんじゃないのか?」

 福富の目が見開く。監督は表情を変えずに続けた。

「最近の荒北の成績、お前も知ってるだろう。前はあんなに成績が伸びていたのに、今では落ちる一方だ。……練習に手を抜いている可能性は?」
「最近のアイツは、手を抜いているようには思えません」

 もともと荒北は大会に出たときに実力を発揮するタイプだが、自分の不調に気づいているのか練習中にも本気の姿を見せるようになった。だが、荒北がどんなに頑張っても結果が出ない。
 それに追い打ちをかけるように、監督が決定的な一言を言い放った。

「一年の頃自転車初心者だったヤツには厳しかったか……」
「監督。アイツは今まで好調に伸びた分、停滞期に入っているだけです。アイツが終わりだと決めつけないでください」

 冷静な福富にしては珍しく、監督に対して物申した。しかし、監督の目はさらに鋭くなる。

「福富。仮に今の荒北がお前を引いて、レースで優勝する見込みはあるのか」
「……ありません……」
「自転車部にどれだけの団体が出資しているかはお前もよくわかっているだろう。もし、インハイで優勝することができなければ、それだけでいくつかのスポンサーは離れる」

 箱根学園自転車競技部はOBやOGの支援、スポンサーの協力のもとに成り立っている。
 もし、監督の言うとおりの結果になってしまえば、後に残った後輩が、経費に制限がかかった苦しい環境下で部活動をすることになる。インハイで敗れるということは、選手だけの問題では収まらない。福富はそれを一年の頃から周囲に言い聞かされていた。

「先が見込めないヤツは、きっぱり切り捨てるべきだ」

 福富がうつむき、膝の上に置いた拳を握りしめる。
 来年、金城に最強のチームを作ると約束した彼は今、選択を迫られている。
 成長を期待していた友を切り捨て、新たな代役を用意するか。
 どっちに転ぶかわからない未来を不安に思いながら、友を信じるか――

「少しだけ時間をください。アイツは必ず這い上がってきます」

 福富の言葉に、監督は虚を衝かれる。
 常にはっきりとした決断をする福富が、意外にも保留を申し出た。福富にとって荒北は最強のチームに欠かせない一員なのだろう。

「エースアシストは他の役割と違って、長い時間をかけて信頼関係を築く必要がある。代役を用意するとしたら時間が必要だ。決断は早めにしろ」

 監督が資料を机に置く。福富は立ち上がり、深く頭を下げて談話室を後にした。

「おぉ、フク。ここにいるとは珍しいな」

 談話室前でばったり東堂と会ってしまった。福富が物憂げな表情を浮かべていることに気がつき、東堂の顔がこわばる。

「どうした?」
「監督が……荒北をインハイメンバーから外せと」
「なっ……!」
「最近の荒北の不調。監督の目に留まったようだ」

 東堂が唇を結ぶ。東堂も言葉を失うか……。福富がそう思った時、

「……まぁ、アイツは美的感覚のカケラもない元自転車初心者だからな! オレのように天から三物が与えられたのなら話は別だが、アイツは普通の人間だ。停滞期もスランプもあるだろうさ」

 ワッハッハと笑う東堂。今のは東堂なりの気遣いであることを福富は知っている。

「どうせ自己流のフォームが身について、それがどこかに響いているのだろう。登坂のときはオレが、直線のときは新開あたりに頼って……とりあえずオレたちで、アイツのフォームで悪い所を徹底的に指摘してやる。それを矯正すれば、成績も伸びるはずだ」

 こういうとき、自分とは違った見方から意見を述べる東堂はとても頼りになる。――だが、

(アイツの走りには何の問題もない。だからこそ、それが問題だ)

 一体彼のなにが、自身の足を鈍らせているのだろうか。福富は考えを巡らせるが、答えを見つけることはできなかった。