41.5

 レース終了後、撤収作業が始まるテント地帯の外れで、秩父緑高校の武蔵川芯は一人木陰で休んでいた。
 今日のレースを振り返っている最中、武蔵川の視界にアクエリのペットボトルが入る。

「エッエッエッ。今日は惜しかったのぅ」
「待宮」

 武蔵川にアクエリを差し出したのは先日知り合ったばかりの広島呉南の待宮栄吉。彼とは意気投合して、連絡先を交換した仲だ。待宮からアクエリを受け取って一口飲む。カラカラに渇いていた喉が一瞬で潤った。

「今日こそは東堂に勝てると思ったんだけどなぁ。アイツには勝てなかったし、アイツまたオレの名前を忘れやがった」
「鳥頭なんか、そいつ」
「いいや違う。前に東堂が言ってたよ。ロードレースは結果が全てだ。結果がダメでも努力は認めてくれと言うのは運動会の理論だと。だからアイツはオレの名前を覚えない。たとえ自分より一つ下の順位のヤツでも、アイツにとってはどうでもいいことなんだ」
「まるで自分がずっと勝ち続けるような言い分じゃのう!」

 ――東堂尽八。箱根学園の二年のクライマー。今年のインハイでは彼が出場することはなかったが、ヒルクライムレースでは度々優勝し、今春からは千葉にある総北高校のクライマー、「頂上の蜘蛛男(ピークスパイダー)」の異名を持つ巻島裕介と一位の表彰台を奪い合っている。少々口うるさいところはあるが整った顔に、お手製のグッズを持参しては彼を応援する女性ファンも少なくない。
 待宮は東堂と一言も言葉を交わしたことはない。だが、周囲の話を聞けばわかる。彼も福富と同じだ。不動の地位にあぐらをかいて座って、自分より下の者を見下しているのだ。
 そんなヤツが、ある日突然思いもしなかった誰かに負けたらどうなるのか。東堂の顔は青ざめ、東堂に愛想をつかしたファンたちは彼から離れていくのだろう。あの澄ました顔が絶望の色に変わると思うと――たまらなくぞくぞくする!

「これからオレはレースには参加しないで受験勉強に専念する。オマエは来年もあるんだよな。箱学に勝つのは大変だと思うけど、頑張れよ」
「エェ、任せろ。武蔵川クンの仇は絶対に討つけんのぅ」

 待宮の顔は、自信に満ち溢れている。
 呉南も強豪校ではあるが、バケモノ揃いの箱学に比べればまだまだ選手層は薄い。インハイで毎年優勝している箱学に一体どうやって勝つ気なのか……。武蔵川は怪訝な顔をして、待宮を見つめていた。


 武蔵川と別れ、呉南のテントに向かって歩いている最中、行く先に水色のジャージの選手二人の後ろ姿を見つけた。
 ……あれは、箱学。待宮が舌打ちをしたのと同時、箱根学園の選手の一人が、ボトルをたくさん持った他校の部員とぶつかった。部員の持っていたボトルが地面に転がっていく。
 尻もちをついて痛みに声を上げたのは他校の方なのに。肩をぶつけた箱根学園は腕をさすってこう言った。

「気ィつけろよ。オレたちを誰だと思ってるんだ!」
「す、すみません……」

 怒鳴るだけ怒鳴って、ボトルを拾わずに去っていく。
 ……虫唾が走る。昔の自分なら真っ先にケンカを吹っ掛けているところだが、ケンカをしたら即退部だ。それに、箱学にはもっとひどい方法で仕返しをしようと思っている。ここでケンカをしては全ての計画が台無しになってしまう。

「大丈夫か」
「あ、ありがとうございます……」

 四方に転がったボトルを拾い集め、他校の部員にまとめて渡す。他校の部員は最後にもう一度お礼を言って、小走りで去っていった。
 部員が去った後、箱学が消えた方角を見ながら待宮は思う。
 来年は箱根でインハイが開催されるという。もし、地元開催のインハイで総合優勝を獲られたりしたら……箱学は今の呉南と同じ苦しみを味わうだろう。
 インハイまであと約半年。たった半年なのに、インハイが来る日がとても待ち遠しい。
 来年のインハイでは箱学に絶対勝つ。そして……がら空きになった王者の椅子に、呉南が座るのだ。

 ◆

「で、この前雑貨屋で見つけたクッションがすっごいかわいかったんだけど~」

 昼休み、屋上で私は響子の話を聞きながらお弁当を食べていた。彼女の話に相づちを打ちながら聞くものの、あまり頭には入ってこない。

『でもオレはここで立ち止まりたくない。だから自主練には来るな、オレの近くに来るな。これ以上、悩ませるな……!』

 あの時受けた傷は一晩泣いたくらいでは簡単に治らなくて、こうしている今も胸がずきずきと痛む。
 早く気持ちを切り替えて、日々を過ごせるようにならなきゃ。頭ではわかっているのに、胸の痛みは今日になっても治まらない。

「あたし、この前彼氏と別れたんだ」
「えーなんで!? オリンピック有望の水泳男子だって言ってたじゃん!」
「恋愛禁止なのに付き合ってるのが顧問にバレちゃったらしくて……あーあ、いい男だったのになー。っていうかさ、夢のために恋愛しないなんて古すぎない?」
「そうかなぁ。オリンピック目指してるんだったら彼女とデートしてる時間なんてないでしょ。なにも捨てないであれもこれもって無理だと思うよ」
「そういうモンかなぁ」
「そういうモン。むしろ、両立してやるって言うヤツは信じられない。いつかきっとボロが出るよ」
「前に雑誌で見た記憶があるんだけど、女子陸上の桜庭かなえ。せっかくいい線行ってたのに、芸能人と不倫して記録が落ちたんだってさ。やっぱり両立は無理なんかねぇ」
「そう思うと私ら普通でよかったわー」

 けたけたと呑気に笑う三人組の女子の会話に、いつの間にか耳をそばだててしまった。
 ……そうだ。荒北くんのスランプの原因はやはり私にあった。思いどおりにいかないこの感情は、夢に向かうには大きな足枷になる。
 だから、もしものことなんて考えちゃいけない。もし、荒北くんが思い直して自主練を手伝ってくれと言ったとしても。もう一度彼の足を引っ張ることに変わりはないのだから――。
 そう決心した時、響子が私の顔をのぞきこんでいた。驚いて声を上げそうになる。

?」
「な、なに響子」
「アンタ最近元気ないけど……大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと部活で頑張りすぎただけ。最近トレーニングレースが多くてさ、結構体力使うんだ」
「……そう?」

 もっともらしい理由に納得したのか、響子が次の話題を喋り始める。なるべく荒北くんのことは考えないようにして、さっきよりも真剣に響子の話を聞いた。

 ◆

 部室の更衣室で、ベンチに座りタオルを被った荒北が携帯電話の画面を見つめる。画面に表示されているのはかつて野球部でバッテリーを組んでいた南雲のアドレス帳。削除の項目にカーソルを合わせ、ボタンに指を添えている。
 このボタンを押してしまえば、自分の足にまとわりついていたしがらみは全部消える。あの日謝りたいと思い、インハイ最終日で奇跡的に再会を果たした。その奇跡を、自らの手で断とうとしている。
 ここでアドレス帳を消せば、南雲とは二度と言葉を交わすことができないだろう。
 ――本当に消していいのか? ここまできて荒北は迷い、頭を深く垂れていた。

 あの日、レース中に落車して無様に倒れた時。夢を諦めたくない。そのためには何だって犠牲にしてみせる。そう決心した荒北は、のことを拒んだ。
 肘を壊した時のつらさは、過去を乗り越えた今でも覚えている。あの時と同じ繰り返しをするわけにはいかない。覚悟を固めた荒北は、再びボタンに親指を添える。

「あばよ」

 思えば、南雲とは再会するべきではなかったのだ。謝ったところで、過去を消すことはできないのだから――。

「荒北さん?」

 声のした方を見ると、いつの間にかドアを開けて更衣室に入ってきた泉田。荒北は急いで携帯をしまい、泉田を見やる。

「なんだ、泉田か」
「今日のレース、久々に一位でしたね。おめでとうございます」
「ここで結果出さなきゃインハイで走れねェからな。当然の結果だ」

 吐き捨てるように言う荒北。実際にここに至るまでにのことを突き放した。あんなことを言っておいて、結果を出さないわけにはいかない。

「荒北さんはどうやってスランプを乗り越えたんですか? 参考までに聞かせて頂きたいです」

「なんでオレが教えなきゃいけねーんだ」と言いそうになって口をつぐむ。
 泉田も最近スランプで記録が伸び悩んでいるのだという。自分とは違い一時のスランプのようだが、同じ苦しみを味わっている後輩を無下にするわけにはいかない。

「……捨てることだ」
「えっ」
「余計な思いを捨てることだ。最近つまんないことで悩んでた。忘れてた過去にいまさら悩んだり、相手がどう思ってンのかいらねェこと考えたりするようになって……。でもそれは、前に進むにはいらないことだ。遠回りした後にオレはやっと気がついた」

 泉田は言葉を失っている。
 ――泉田にはわからない話だ。荒北が思い目を伏せようとした時、

「たしかに速くなるには捨てることも必要です。でも、今の荒北さんの話を聞いているとなんだか……逃げているようにしか思えません」

 荒北が眉根を寄せて顔を上げる。心を射抜くような言葉を言った泉田は平然としている。

「だったら、どうしろっつうんだ」

 オマエは故障も、こんな思いをしたこともないからそんなことが言えるんだ。荒北が泉田をにらみつける。

「ご、ゴメンなさい。出過ぎたことを言いました」

 泉田は慌てて謝罪すると、ロッカーからタオルを取って逃げるように更衣室を出ていった。
 なに後輩に当たってんだ、オレは……。荒北は自己嫌悪に陥って、手に取ったタオルに顔をうずめた。