53.5

「あーヒリヒリする」
「ゴメンゴメン……」

 校庭を歩く荒北と南雲の顔には、それぞれ互いを殴った跡が残っている。

「たしか、土曜日でも白鳥先生いたと思うんだよね」
「白鳥ってたしか……」

 荒北が記憶を巡らせると、すぐに苦い顔をした。白鳥とは、保険医の名前だ。恰幅のいい中年女性で、見た目と同じく性格は豪放。

「アイツ……なんか苦手なんだよな。っていうか南雲、お前危ないだろ」
「なんで?」
「だってお前……」

 荒北が言いかけて口をつぐむ。南雲がこれから先どうなるかを想像しただけで鳥肌が立ち、ぞっとしたからだ。
 白鳥は美少年に弱い。自分はどうやら対象外のようだが、顔立ちのいい南雲には妙に態度がよく、自分が怪我した時と南雲が怪我した時とで態度に雲泥の差があるのだ。

「なに言ってるのさ。白鳥先生はいい先生だよ?」

 真実に気がついていないのか、明るく笑い飛ばす南雲。荒北は口を一文字に結び、昇降口から校内に入る。
 二年ぶりの母校は天井が低く感じ、箱根学園と比べると市立そのものの古臭さがあった。
 懐かしい気持ちで南雲と一緒に廊下を歩いていると、野球のユニフォームを着た少年とすれ違う。

「こんにちはー!」
「こんにちは」

 元気のいいあいさつに満面の笑みであいさつを返す南雲。荒北も小声で「ちわ」とあいさつする。荒北が後ろを振り返ると、少年の通った道に帽子が落ちていることに気がついた。

「帽子、落ちてンぞ」
「わっ、ありがとうございます」

 荒北が帽子を拾い、少年に差し出す。少年は慌てて受け取り、帽子を被って一礼する。
 踵を翻し走って去る少年の背中に、荒北は釘付けになった。――ユニフォームに書いてある背番号は「1」。中学生の時、荒北が着ていたユニフォームと同じ背番号だった。

「靖友……」

 南雲が、眉尻を下げて荒北に声をかける。

「なんだよ。お前に悪いことしたのは謝るけど、もう野球に戻る気はないからな」
「わかってるよ。今の君には、ちゃんとした夢があるからね」

 子どもの頃に抱いていた夢は胸の奥にしまって、再び保健室に向かう。

「保健室ってたしかこっちだったような……」
「おいおい……」
「あ、あったあった。ここだよ」

 保健室の表札がある部屋のドアをノックして入る南雲。荒北も続けて入ると、中には

「……お、南雲に荒北じゃねぇか」
「げっ」

 保健室の中にいたのは、美少年好きの白鳥ではなく――野球部顧問の佐々部がいた。思いもよらない人物との遭遇に、荒北が言葉を失う。

「佐々部先生、お久しぶりです」
「お、お久しぶりです……」
「あぁ……って、なんだその顔はっ!? まさか荒北、南雲を巻き込んでケンカしたんじゃ――」
「違うっつーの! ……じゃなくて、違います」
「今までのケジメをつけるために、仲直りのケンカをしました」

 毅然とした態度の南雲に、佐々部は南雲の顔をまじまじと見る。

「……そうか」

 佐々部がワーキングチェアから立ち上がる。

「お前ら、怪我の手当てが終わったら部室に来い。今日は白鳥先生はいないが、そこら辺にある物適当に使っていいからな」

 言うだけ言って、佐々部は保健室を去っていった。佐々部の後ろ姿を見送った荒北が苦々しい顔をする。

「……なぁ、南雲。オレ用事思い出した……」
「なに言ってんのさ。ほら、手当てするからそこに座って」

 救急箱を手にした南雲が、さっきまで佐々部が座っていた椅子に座るように促す。もはや逃げられそうにない。観念した荒北は借りてきた猫のようにおとなしく椅子に座った。


 気乗りしない気持ちのまま、野球部の部室に向かう。グランドの隅に建物はあった。箱根学園の自転車部部室には劣るが、強豪校というだけあって部室はそれなりに広々としている。三年以上も足を踏み入れなかった部室に心臓の音が大きくなるのを感じながら、南雲の後ろに続いて部室に入る。
 久しぶりの部室は、懐かしかった。男臭いにおいに、薄暗い照明。ホワイトボードには「県大会優勝!!」と大きくガサツな文字で書かれていて、壁に立てかけられたバッドや床に落ちているボール。なにもかもが、あの頃と変わらない姿を保っていて懐かしい。
 佐々部に勧められて、荒北と南雲はパイプ椅子に座る。佐々部がテーブルの上に紙コップを置き、やかんからお茶を注いでくれた。

「ま、これでも飲めよ」

 南雲が紙コップを両手に持って、ふーふーと息を吹きかけながらお茶を飲む。そういえばコイツ、猫舌なんだっけ。バッテリーの懐かしい癖を思いながら荒北は茶を啜る。

「失礼しまーす」

 野球部のユニフォームを着た少年が部室に入ってきた。南雲を見つけると顔を輝かせて、

「あ、南雲先輩! こんにちは」
「こんにちは」
「実は今ちょっと行き詰まってて……。よかったらセカンド送球のコツ、教えてください」
「うん。いいよ」

 南雲がパイプ椅子から立ち上がる。それに荒北は冷や汗を浮かべた。

「ちょ、ちょっと待てよ南雲っ」
「ゴメン靖友。ボク、行ってくるね」

 南雲がにこやかに笑って部室を出る。しんと静まり返った部室に、荒北は心の中で頭を抱えた。
 佐々部とふたりきりになるなんて思わなかった。考えを巡らせてみるものの、今この場にふさわしい話題が見つからない。
 この重苦しい沈黙を先に破ったのは佐々部だった。

「南雲は卒業後もコーチでちょくちょくここに来てくれてるんだが……お前は、初めてだよな」
「……はい」
「気持ちに、整理がついたんだな」

 佐々部の言葉に、荒北は膝元に置いた拳を握る。


 佐々部は野球部の顧問であり、荒北が中学時代を過ごすにあたって一番記憶に残っている先生だった。

「荒北、なんだその格好は」

 中三の春。荒北が階段を下りている最中、佐々部に呼び止められた。振り返った荒北の姿は、ワックスで固めたリーゼントの頭にシャツを出して着崩した制服。腰にはシルバーのアクセサリーをいくつも着けていて、不良そのものの格好だった。
 荒北が無視して通りすぎようとすると、佐々部が前に立ちはだかる。

「ウッゼ。どけよ」
「先生に対しては敬語を使え。あと、今すぐその服装を直せ。じゃないとここは通さな――」
「先公ヅラしてんじゃねーよっ!! 肘の故障に気づかなかったくせに、いまさら余計な口出しすんなっ!!」

 佐々部が怯んだ隙に、荒北が横を通って走る。

「待て、荒北っ!!」

 後ろから佐々部の怒声が聞こえるものの、荒北は止まらずに走った。
 佐々部の言うことなんて知るか。アイツも、バカの中の一人だったんだ。

 佐々部は卒業式の日まで、根気よく荒北に声をかけ続けた。だが、荒北はその声に一度も耳を傾けることなく。卒業するまで、己のことを心配していた佐々部の気持ちに気づくことはなかった。


「すみません……」
「あぁ? なにが?」
「オレ、佐々部先生にひどいことしました……。オレが野球部辞めてから、あんなに声をかけてくれたのに……オレは、先生の言葉を聞こうともしないで何度も素通りして……」

 どうしてオレは、といい、南雲といい、傷つけた後で大事なことに気がつくのだろう。
 自分の愚かさが嫌になって、膝元に置いた拳が震える。
 当時、自分は孤独だと思っていた。非行を重ねる本当の不良にはなる勇気がなくて、かといって元の場所に戻る気もさらさらない。オレの気持ちなど誰も理解してくれないのだと思っては途方に暮れていた。
 だが、いたじゃないか。南雲や佐々部。自分が見てみぬフリをしていただけで、どうしようもない自分のことを気にかけてくれる人がいたことにいまさら気がつく。

「なに言ってんだ、お前。高校に入ってそんなに弱っちいヤツになったのか?」

 佐々部の大きな手が、荒北の頭をわしゃわしゃとなでる。

「教師ってのは気持ちのすれ違いで生徒に恨まれることは日常茶飯事なんだよ。……でも、ありがとな」

 見上げた荒北の目に映ったのは佐々部の優しい笑顔。その顔に泣きそうになって、慌てて涙をこらえる。

「わざわざ、南雲やオレにそれを伝えるためだけに学校まで来たのか?」
「いいえ。オレは自分の気持ちの整理をつけるために、今日ここまで来ました」

 震えた拳を握り、佐々部を強く見据える荒北。佐々部は椅子に座り直し、次の荒北の言葉を待った。
 アイツと会ったのは、去年の春の時だったっけな。懐かしい記憶をさかのぼって、荒北は静かに口を開く。

「今年の春に、あるヤツに出会って。南雲とどこか似ているそいつがきっかけで、振り返らないと決めた野球部のことを思い出すようになったんです。そいつのことを深く知って、スランプに陥ったあの日……走れなくなることが怖くなったオレは、アイツのことを突き放しました」

「今思えば、昔やってたことと同じ繰り返しだった」と添える荒北。

「ある日アイツは、オレを庇って怪我をして。もし取り返しのつかないことが起こったらと思うとすごく怖かった。今までアイツから逃げていたオレは、アイツに向き合おうとして……まずは自分の過去を、見つめなおすことにしたんです」

 自転車に夢中になってからは、気がつけば振り返らなかった過去。
 昔の自分なら、肘を壊したことを周りのせいにするだけで、過去を思い出してもなにもならなかっただろう。だが、色んな痛みを覚えた今の自分なら――目を背けていた過去をもう一度見ることで、これからに向き合うための「答え」が見つかりそうな気がした。

「お前は、昔も今も変わらずにまっすぐだな」

 荒北の成長をたたえるように、佐々部が柔らかく笑む。

「古館のこと、覚えているか?」

 あまり聞きたくなかった名前に荒北は眉根を寄せる。古館のことは忘れもしない。肘の治療が終わって練習を再開した頃、南雲との間に割って入り、荒北が野球を辞めるきっかけとなった言葉を吐いた人物だった。

「荒北の前では大きな口を叩いたそうだが。古館がエースを務めることになった後、『才能のあるヤツには勝てない』ってよく嘆いてたよ」
「そんな……」

 荒北の顔が蒼白になる。

『荒北ァ。自覚ないみたいだから言ってやるけど、お前は終わったんだよ。肘壊してから前みたいな投球できないの気づいてんだろ? お前がもうマウンドに立つことはないんだよ』

 あの時ああ言った古館は、荒北が野球を辞めてさぞかしいい気分になっていたと思っていた。だが、古館なりに苦しんでいたとは。
 一番憎らしく思っていた相手の真実を突きつけられて、荒北は言葉を失う。

「人間って難しいな。色んな人が色んなことを考えて、時にすれ違って後になって後悔する。オレはお前と違って数十年間生きてきたけどよ。いまだにどうすれば生徒全員をいい道に導けるのかわからねぇよ」

 窓の外を見て、本心を晒す佐々部。先生も自分と同じ人なのだ。荒北は思い、佐々部の悲しそうな横顔を見る。

「荒北は今、何のスポーツをやってるんだ?」
「自転車です」
「自転車……?」
「時々街中で見かけるだろ。細いフレームの、カゴがついていない自転車」
「あぁ、あれか」

 左手を皿にして、ポンと手を叩く佐々部。

「下り坂だと、80キロも出るんですよ」
「危なくないのか、それ」
「たしかに危ないですけど……。オレはそれで、もう一度頂上を目指してみたいって思ったんです」

 あの日福富に見せつけられたロードバイクと原付の速さの差。
 どうして、あんなに細いフレームであれほどのスピードが出るのか不思議だった。
 普通の自転車のように乗れるものかと思いきや、案外乗りにくいロードバイク。得体の知れない乗り物になんとしてでも乗りこなしたくて、自転車競技部のドアを叩いてここまで来た。

 もう一度野球をやりたいかと聞かれたら、少し考えた後に「いいえ」と答えるだろう。プロ野球選手は小さい頃の夢だった。部活を辞めた後、野球を見るのも嫌になって、今ではこうして遠い過去に思いを馳せるほどになり……時々、野球部の少年などを見るとほんの少しだけ、切なくなったりもする。
 それら全部をひっくるめて、今はただ自転車に乗りたい。ひたすらに練習を続けて、頂点の先にあるものが見たい。
 未熟で、弱い自分を庇ってくれたのためにも。今度こそこの夢を絶対にかなえたい。

「強くなったな、荒北。腑抜けていたあの頃と違って、顔つきが男らしくなった」

 まるで息子の成長を喜ぶ父のように、佐々部は笑った。

「さっき、春に出会ったヤツがいたと言っていたな。今のお前なら、そいつと向き合えるだろうさ」
「……はい」

 佐々部の言葉に、荒北が力強く答える。
 その時、部室のドアが音を立てて開いた。中に入ってきたのは南雲と、野球部の少年だ。

「靖友ゴメン。あのさ、この子にボールの投げ方教えてくれないかな? ボクじゃうまく教えられなくて……」

 荒北に向かって両手を合わせた南雲が、隣にいる部員をちらりと見る。その顔には見覚えがあった。さっき、廊下ですれ違った背番号1の少年だ。
 中一の頃、自分がその背番号を背負って、中二の夏に手放した番号。荒北を見据える少年には、きらきらとした眼光が宿っていた。

「いいぜ、教えてやるよ。オレのコーチは厳しいからな、覚悟しとけ」

 いつものようにぶっきらぼうに言う荒北に、少年は破顔する。
 少年に手を引かれながら部室を出る荒北。もし、に出会わなければ、ここに来ることは二度となかったかもしれない。
 約束の時間まであと数時間。に会ったら、話したいことがたくさんある。

 ――今度は絶対にを離さない。
 心にそう強く誓って、荒北はまぶしい空を仰いだ。