栄光のサクリファイス 97.5話

 私立箱根学園男子寮食堂。混雑する時間を過ぎた食堂は空いたテーブルで談笑をするグループ、離れた席で読書や勉強をする人、頬づえをついて怠惰にテレビを見ている人など行動は様々だ。その食堂の隅っこの席で、荒北靖友は腕組みをしてテーブルの上に置かれた菓子をじっと見つめている。かわいらしいラッピング袋の中には三枚のクッキーが入っている。リボンをほどき封を開けた状態で、どういうわけかにらめっこをして早一分が経った。

『これ、昨日響子と一緒に料理教室に行って作ったチョコクッキー。ちょっとしかないけど、よかったら食べて』

 今日の昼休み、人気が少なくなった教室では顔を赤らめてクッキーを差し出した。荒北もつられて顔が赤くなって、震えた手でクッキーを受け取る。最近は友達に連れられて料理教室に行くことが多いらしい。そういえば、アイツにこういうのもらうの初めてだっけ。だいぶ早めのバレンタインチョコを受け取った気分で、浮き立ちながら寮に帰り、食堂に持ってきた。食べるのはもったいないが、食べずに腐らしてしまうのは問題外だ。今日の晩飯を食べたら、一枚ずつゆっくり味わおう。……そう思っていたのだが。

「こういうとき、紅茶が一番合うのか? それともコーヒーか?」

 誰ともなく一人ごちる。食べる寸前で、クッキーと一緒に食べる飲み物のことについて考えた。せっかく彼女が手作りした菓子をいただくのだから、できればそれに合う飲み物とおいしくいただきたい。やはり、定番の紅茶だろうか? しかし荒北はどちらかといえば紅茶よりコーヒー派だ。コーヒーならば食堂にあるコーヒーメーカーで無料のものが飲めるし、それがいいだろう。……だが、一番好きなベプシと合わせるのも捨てがたい。いやはや牛乳もいいぞ。
 あれこれ考えているうちに、荒北の前に二人の男が現れた。自転車部のレギュラーメンバーでおなじみ東堂尽八と新開隼人だ。

「どうした、荒北? 女子の差し入れに戸惑っているのか?」

 「お前は女子人気がないからな、悩むのも仕方ない!」開口一番、失礼なことを言って東堂が高く笑う。一年の頃から変わらないやり取りに、荒北もまたお約束の反応でキッとにらんだ。

「女子人気なんていらねーよンなモン。本当に好きなヤツと同じ気持ちにならなきゃ意味ねーだろ、んなの」
「そ、それもそうだが……。最近その手の話題になると妙に頑なになるな」

 いまだにと荒北が交際していることを知らない東堂は首をかしげる。コイツにだけは絶対に教えない……! 荒北が心の中で強く思った。
 ふと新開を見ると、モグモグと口を動かしてなにかを咀嚼している。テーブルの上のクッキーを見ると、枚数が一枚減っている。消えたクッキーの行方は決まっている。新開の口の中だ! 悟った荒北が新開の胸ぐらをつかむ。

「テメーなに食ってんだ新開!! 今口に入れてるものすぐに吐け!!」
「そんなことしたら尽八に怒られちまう」

 片目を瞑りウインクする新開。その様子だと、全部食べてしまったのだろう。眉間に青筋を立てた荒北が乱暴に新開の胸ぐらを離す。

「人の食い物勝手に食うんじゃねーヨ!!」
「ごはん食べ終わってからその菓子じーっと見つめてたしさ。クッキー嫌いなのかと思った」
「嫌いだったらテメーに押し付けるかゴミ箱に捨てらぁ! くっそ貴重な一枚食いやがって……」

 なにかを噛み砕く音が聞こえて、東堂の方を見ると彼もまた口を動かしている。

「……む、これはうまいな。ちょっと生地を焼きすぎた感はあるが、作り手の愛情がこもっている。ホットミルクと一緒に食べたいクッキーだな」

 止める前にクッキーを食べ終えて、頼んでもいない感想を言う。荒北が東堂と残り一枚になったクッキーの袋を交互に見て困惑する。

「あ、あ……」
「どうした? 夕食の食い過ぎで腹でも壊したか?」
「テメェら……。せっかく人が味わって食おうとしてたものを横から奪いやがってェ……」

 うつむいた荒北の周囲から負のオーラが漂う。危険な予感を察知した東堂と新開が一歩後ずさるが、時既に遅し。

「テメーら表出ろ!! 一発ぶん殴ってやんよ!!」

 東堂と新開、続いて荒北が食堂を飛び出して廊下を走る。突然の事態に、その場にいた寮生は皆呆然としていた。


 ――数分後。荒北が食堂に戻り、元いた席につく。夕食の時間をとうに過ぎた食堂は先ほどよりも人気が少なくなっていた。

「くっそ、アイツらぜってー許さねー。明日会ったらもう一回ぶん殴ってやる」

 舌打ちをして、テーブルの上に置いてあるクッキーを見る。さっきの騒ぎで荒北の所有物であることがわかったのか、クッキーは誰にも触れられないまま一枚だけ残っている。……今度こそ、誰かに横取りされる前に食べてしまおう。戻るついでに買ってきたベプシをテーブルの上に置いて、クッキーの袋に手を伸ばす。クッキーを取ろうとして、やめた。今になってラッピング袋がかわいいことに気がついた。携帯を取り出し、一枚写真を撮る。できたての写真を見ると、猫のラッピング袋がきれいに撮れていた。……たぶん、このラッピング袋は荒北の趣味に合わせてが自分で用意したものなのだろう。その細かい気遣いがうれしくて、クッキーを食べるのがもったいなくなる。

「……一年ぐらい、持てばいいのに」

 そうしたら、大切に飾った後でゆっくり味わうことができるのに。柄にもないことを言って、携帯を閉じてクッキーを見る。ただの手作り菓子なのに、こんなにも余計なことを考えて食べるのをためらってしまうのはのことが好きな証拠なのだろう。
 ……今度こそクッキーを食べるぞ。そう思った時だった。

「荒北。こんな所でどうした?」

 近頃自分は妙についてない。そう思わせるぐらい、タイミング悪く福富が荒北の目の前に現れた。

「福チャン……。いや、たまにはゆっくりしようと思って」

 まさか、の手作り菓子を食べようとして躊躇してたなんて言えるはずがない。正直に言った日には、鉄仮面の福富も腹を抱えて大笑いするだろう、たぶん。さて、どうはぐらかしたものか……。荒北が困っていると、福富がテーブルの上に置いてあるクッキーに気がつく。

「うまそうなクッキーだな。食べないのか?」
「えっ」
「オレが代わりに食ってやろう」

 「待て福チャン!」荒北が止めるよりも早く、福富がクッキーに手を伸ばし口の中に入れる。もぐもぐもぐもぐ……。「これはうまい」いつもの口癖と似たような台詞を言ってクッキーを食べ終える福富。何気に荒北を見ると、彼は滝のような涙を流していた。

「ど、どうした荒北っ!?」
「それ、オレが楽しみにしていたクッキー……」
「す、すまん!! 悪気はなかったんだ!!」

 「お前がそんなにクッキーが好きだとは思わなかった!! 今から急いで駅前のクッキーを買ってこよう!!」なにかを勘違いした福富が、床に伏せて土下座する。荒北は涙を流しながら、首を左右に振った。

「違う……。違うんだよ福チャン……。それ、の手作りクッキー」
「はっ……!」

 顔を上げた福富の顔色が蒼白になる。オレは、荒北が楽しみにしていたの手作りクッキーを食べてしまったのか!? 袋を見ると、中は空。どうやら自分が食べたのが最後の一枚だったのだろう。

「今すぐに電話する!! アイツにクッキーをもう一度焼いてもらおう!!」
「いやいや、そこまでしなくていいからァ!」

 携帯を開く福富を止めて涙を拭う荒北。東堂や新開だったら一発ぶん殴っているところだが、盟友の福富を殴るわけにはいかない。己の心に無理やり整理をつけて、寂しそうに笑う。

「オレが悪かったんだ。早く食えばこんなことにはならなかったのに。もったいぶってて、気がつけば色んなヤツに盗られちまった」

 荒北の脳裏に浮かぶは待宮の姿。『ワシは今度こそ大きなレースで優勝を取る。強くなったワシが口説けばちゃんなんてイチコロじゃろ』二学期が始まってあまり日も経たない頃、唐突に箱学を訪れた待宮は荒北にそう宣言をした。を待宮にも誰にも渡すわけにはいかない。今回の事件はこれにつながる教訓なのだと思い、次は気をつけようと一人うんうんとうなずく。
 やけに素直な荒北に、困惑した福富が一言述べる。

「……元気を出せ、荒北。今度オレがクッキーを作ってやる」
「いや、いらねーよ」


「ねぇ、荒北くん。そういえばこの前あげたクッキーおいしかった?」

 の問いに荒北の心臓が跳ねる。遠回りをしてを家まで送ることが日課になった帰り道、ついに恐れていたことを聞かれてしまい荒北が考えあぐねる。悩んだ末に、正直に話すことにした。

「……新開たちに食べられて、一枚も食ってない」
「えっ」
「飲み物なににしようか迷ってたら横取りされて。気がつけば何もなくなってた……」

 ずーんと沈む荒北に、が額に汗を浮かべて考え込む。次のお料理教室はお菓子じゃないし、家にオーブンないから同じものは作れないなぁ。落ち込んでいる荒北を見て、代替案はないか考える。

「……荒北くんの好きな食べ物ってなに?」
「ア?」
「今度家に来たとき、それ作ってあげるよ」

 苦笑する彼女に、なにを作ってほしいか急いでリクエストを考える。肉料理全般が好きだが、それだけでは彼女を困らせてしまうだろう。

「……唐揚げ」
「揚げ物用のお鍋ないし。できれば、違うもので……」
「じゃあ、厚焼き卵」
「わかった。今度来たとき、それ作ってあげるね」

 楽しみにしていたクッキーを食べることができなかったが、彼女に好物を作ってもらう約束をした。……まァ、と一緒にメシ食えるしいいか。ようやく気分が晴れて、顔を赤らめたまま前を向く。「楽しみにしてる」ぽつりと言った言葉に、は「うん」と笑って答えた。