無防備な白雪姫

 ベッドの上で正座して、枕の近くに置いてあるものを見下ろす。
 アイドルやアニメが特別好きというわけでもないからこんなものは買わないだろうなとは思っていたけれど、ついに買ってしまった……。
 私の身長近くある細長いクッションには、ベッドに横になって、困ったように笑っている真波くんの全身がプリントされている。そう、私が買ったのは真波くんの抱き枕だ。

 これは真波ファンクラブでこっそり売られているもので、自転車部のマネージャーであり隠れ真波くんファンでもある私は、これを知った時買わずにはいられなかった。
 この事は真波くんはもちろん、部活のみんなには秘密だ。もし私が真波くんの抱き枕を買ったことを知られたら、色々と大騒ぎになるだろう。

 ちょっと照れくさいけれど幸せだなぁ。
 抱き枕を見て今日の夜寝る時のことを想像していると、玄関のチャイムが鳴った。急いで部屋を出て、玄関のドアを開けると……

「こんにちはー、さん」
「ま、真波くん!?」

 私の家を訪ねてきたのは制服姿の真波くんだった。
 真波くんはビニール袋を持っていて、なんだかおいしそうな香りがする。

「なんでうちに……? というか、今日学校あったっけ?」

 今日は振替休日で、学校も部活もないはずだ。もしかして私の勘違いで本当は学校があったのだろうか……?
 だが、私の疑問はすぐに解消された。

「補習の帰り、自転車で走ってたらおいしそうなたい焼き屋を見つけたんです。一個買おうとしたらたくさんオマケしてくれたんで、お裾分けに来ました」
「そうだったんだ……」

 真波くんが制服姿なのは補習だったからだ。今日は本当に休みだということを知って、ほっと胸を撫で下ろすのもつかの間……。

「じゃあお邪魔しますね」
「えっ?」

 私の家に来るのはこれで二回目のはずなのに、親友の家に上がるようなノリで真波くんが家の中に入っていく。
 真波くんの行き先は私の部屋で、今の私の部屋の中には――

「真波くん、ちょっと待って!」

 慌てて止めるも、時すでに遅し。私の部屋の中に入った真波くんが足を止める。
 真波くんの視線の先には抱き枕がある。終わった……。なにもかもが終わってしまった……。

「この抱き枕、オレそっくりですねぇ」

 抱き枕を見て、のほほんと笑う真波くん。
 予想外の言葉に、大きくコケそうになるのをぐっとこらえる。……って、そうじゃなくて!

「いやいや、これは真波くんだよ!?」
「あ、思い出した。――真波よ、たまには女子にファンサすることも大事だ。東堂さんにそう言われて、ファンクラブの人たちにベッドでくつろいでいる写真を何枚も撮られたんですよねぇ」
「なんだ、覚えてるじゃん……」

 真波くんはどこまで天然なのだろう。自分の置かれている状況も忘れて、困惑してしまう。

「でもまさか、さんがオレの抱き枕買うなんてびっくりしました」

 にこにこ笑う真波くんを見て、背中に冷たい汗がつたう。
 真波くんは笑っているけれど、気持ち悪いなんて思われてたらどうしよう……。そう思ったらごまかさずにはいられない。

「実は東堂くんの抱き枕もあるんだ!! 抱き枕って、実際どんなものなのか興味がわいちゃって!!」

 紙袋の中から、未開封のビニール袋に入った東堂くんの抱き枕を真波くんに見せびらかす。
 実はこれは私のものじゃなくて、友達にお使いを頼まれてついでに買ってきたものだ。

「ふーん。そうなんだぁ」

 真波くんは全く興味なさそうな反応をして、ベッドにぽすんと腰かける。

「真波くん?」
さんもこっちに来て」

 よくわからないまま真波くんの隣に座ると、真波くんはなぜか、ベッドに寝転がってしまった。

さんの布団、ふかふかで気持ちいいですねぇ」

 猫のようにくつろいでいるところ申し訳ないけれど、いまいち事態が呑み込めない。
 呆然としている私に気づいた真波くんが、不思議そうに目を瞬いた。

「寝ないんですか?」
「ね、寝るって、まだ眠くないし……」

 このままだと埒が明かないし、勇気を出して聞いてみよう。

「ねぇ、これからなにするの……?」
「なにって、さんに添い寝しようと思って」
「えっ!?」

 そ、添い寝!? めちゃくちゃ意味がわからない!!

「したいんでしょう? オレとこういうこと」
「えっ、いや、そんなつもりは……」
「それとも、そっちの方がいいんですか?」

 ベッドの隅に追いやった抱き枕を見ながら言う真波くん。

「そんなわけじゃないけど……」

 どうして、こんな展開になってしまったのだろう。
 しぶしぶ私もベッドで仰向けになると、真波くんが横向きになった。

「不思議ですねぇ。添い寝しているだけなのに、ちょっと緊張します」
「ね、ねぇ、真波くんは嫌じゃないの?」
「嫌って?」

 まっすぐな瞳で見つめられたまま尋ねられて、心臓がドキンと跳ねる。

「真波くんの抱き枕を持っていたこととか、今こうして私と一緒に寝ていることとか色々……」
「あぁ。最初はびっくりしましたけど、今は大丈夫ですよ。それより、悩んでいるならもっと早く言ってくれればいいのに」
「えっ?」
「最近、なかなか眠れなくて困ってるからオレの抱き枕買ったんですよね?」

 いや、そんなわけでは全くないんだけど……。
 だけど真波くんは今の回答に自信を持っているようだ。ここで本当のことを話したらそれこそややこしい展開になってしまいそうだし、悩んだ末に私は話を合わせることにした。

「う、うん……。まぁ、そんなところかなぁ」
「あはは、やっぱり? よく色んな人に言われるんですよね。お前が気持ちよさそうに寝ているところを見るとオレも眠くなるって。そうかなぁ?」
「そうなんじゃないかな……」

 色々と誤解してくれたおかげで助かった……。おかげで真波くんには嫌われずに済んだけど、今度はまた別の問題が起きている。
 真波くんの顔、近い! いつもよりも断然近いから、どうしても意識してしまう。
 ワイシャツの少し開いた胸元からは素肌がのぞいているし、半袖のシャツからは、ほどよく引き締まった二の腕が露わになっている。
 やっぱり、真波くんはカッコいいなぁ。前に真波くんから聞いた話、何度かアイドルにスカウトされたことがあるらしい。きっぱり「興味ないです」って言って断っちゃったらしいけれど……。
 もしかしたらアイドルになっていたかもしれない男の子と、こうして同じベッドにいるだなんて。
 頬を緩ませていると、真波くんと視線がぶつかった。

「そんなに見られると照れちゃうなぁ」
「ご、ごめん!」

 自分から見ておいてなんだけど、急に恥ずかしくなって視線をそらす。
 はしたない女だって思われたらどうしよう……。

「添い寝ってなんかいいですね。オレ、子どもの頃は身体が弱かったから、いつも自分の部屋で過ごしてたんです」
「えっ……?」
「だから、部屋で過ごすのはあんまり好きじゃないんですけど、こういうのだったらたまにはいいかな」

 真波くんは照れくさそうに笑っている。
 真波くんが子どもの頃病弱だったなんて今初めて知った……。
 私の知っている真波くんはいつも学校や部活をサボって行くほどの坂好きで、子どもの頃身体が弱かった彼がうまく想像できない。

「真波くん……」

 もしかしたらあんまりいい思い出じゃないかもしれないのに、それでも私にこっそり教えてくれたことがとても嬉しかった。
 さっきまであんなに色々考えてたのに、真波くんの幼少期の話を聞いた途端雑念はきれいさっぱり消え失せてしまった。
 もっと、真波くんのことが知りたい。体の向きを横に変えて、声をかけようとすると……真波くんは眠っていた。
 寝るの早っ!! けど、気持ちよさそうな寝顔を見ていると、起こすのもためらってしまう。
 真波くんの寝顔を見ていたら、なんだか私も眠くなってきたような……。
 だんだん重たくなる目蓋に抗うことができず、気がついた時には私も眠ってしまった。

 ◆

 かすかに香る花のにおいに目を覚ます。あれ? ここは……。
 オレが目を覚ますと、すぐそばにはさんがいた。オレが近くにいるのに、さんはすやすやと眠っている。
 ベッドから起き上がってここまでの経緯を思い出す。ここはさんの部屋か……。
 花のにおいの正体は、シーツに使われている柔軟剤みたいだ。柔軟剤のにおいってあんまり好きじゃないんだけど、この香りは好きかも。
 そういえば今は何時なんだろう。部屋にある掛け時計を見ると、もうすぐ五時になろうとしている。
 坂に登りに行きたいし、そろそろさんちから出よう。

さん。起きてください」
「むにゃ、あともうちょっと……」

 声をかけたものの、さんは曖昧な返事をして夢の世界に戻ってしまった。

「もう」

 もう一度声をかけようとして、ふとあることに気がついた。
 すべすべの肌に艶のある髪の毛、唇はふっくらとしていてまつげが長い。女の子の体って男と全然違うんだなぁ。
 今までさんとは長い時間を過ごしてきたはずなのに、今になってそのことに気がついた。
 ……あれ? なんか、ちょっとドキドキしてきたような。
 よくわからない動悸に、胸を手で押さえながら、さんの体をさらに観察する。

 呼吸に合わせて柔らかそうな胸が上下していて、スカートからは太ももがギリギリまでのぞいている。
 なんで、こんなにドキドキするんだろう。女の子に囲まれている時は、こんなことには絶対にならないのに。
 ――純白のそれに、触れずにはいられない。

 手を伸ばしてさんに触れる。オレが最初に触ったのは、さんのほっぺだ。
 さんのほっぺ、赤ちゃんみたいにもっちりしているなぁ。
 そういえばこの前うちのクラスの女子が言ってたっけ。新しいケショウスイとニューエキを買ったとかなんとか。もしかしてさんもなにかつけているのかな?
 女の子の影の努力を称えながら、肌の感触を堪能する。

 ――もっと、さんに触れたい。
 そう思ったオレは、さんを起こさないように、髪の毛を一房手に取った。
 髪の毛もさらさらだなぁ。髪の毛を指にとっては、つかんだまま撫でては離すという動作を繰り返す。やっぱり、男のオレとは全然違うや。

「ダメ、東堂くん……」
「っ――!」

 胸に軽い痛みが走る。
 今、たしかにさんの唇から甘い声が漏れた。
 気になる寝言を残して、さんは相変わらずすやすやと眠っている。
 もしかしてさん、東堂さんのことが好きなのかな……? さんの見ている夢の内容を思い浮かべると、なぜか胸がずきずきと痛んでしまう。
 坂以外なにもいらないはずなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。さんといると、時々自分のことがよくわからなくなる。
 それでも、ひとつだけわかることがある。さんが誰かのものになるのは嫌だ。たとえ相手が東堂さんだったとしても……。

 この気持ちはどうすればいいんだろう。考えていると、ぷっくりした唇が視界に入った。
 キスしたら、オレのことだけ見てくれるかな?
 いつの間にか、身体が熱に浮かされたようにぼんやりとしている。
 オレは、その唇に吸い寄せられるように自分の顔を寄せて、そしてそのままそっと唇を重ねた。
 さんが起きるといけないので、すぐに唇を離す。一瞬の間の口づけだったけれど、極上の感触だった。
 さんの唇、すっげー柔らかい。クセになっちゃいそう……。
 キスした後も、心臓が激しい鼓動を打っている。

 ◆

 唇になにか柔らかいものがあたった気がして目を覚ます。
 目を開けた時、私のすぐそばには真波くんがいた。

「おはようございます、さん」

 ベッドからすでに起き上がっている真波くんはにこにこと笑っていて、なぜか頬がほんのりと赤く染まっている。
 遅れて私もベッドから起き上がった。たしか、真波くんに添い寝してもらった後、そのまま寝ちゃったんだっけ。にしても、変な夢を見たなぁ。
 夢の内容は東堂くんがアイドルになる夢だった。

「オレは巻ちゃんとタッグを組んでアイドルになる!」

 そう言う東堂くんを、自転車部のみんなで止めたんだっけ。
 ここは東堂くんの意思を一番に尊重するべきなのだろうけれど、彼は天性のエースクライマーだ。
 高校を卒業した後もプロになれると思うし、突然の思いつきで彼をアイドルの道に行かせるわけにはいかない。……まぁ、夢でよかったんだけど。
 夢の内容はさておき、もうひとつ気になることがある。さっき、唇に柔らかい感触がしたような。
 まさか真波くん、私が寝ている間にキスを……。

「って、そんなわけないかー」

 近くに本人がいるのも忘れて、声に出して笑い飛ばす。

「そんなわけって?」

 案の定、真波くんに聞き返されてしまった。

「内緒。こっちの話だから気にしないで」
「ふーん。……というわけで、これとこれは没収です」
「あ!」

 いつのまにか、真波くん抱き枕と、東堂くん抱き枕(未開封)を両手に持っている真波くん。

「眠れなくなったらオレが添い寝してあげますから。じゃあ、これから坂に登りに行くんで、失礼しまーす」

 なにか急用でもあるのか、真波くんが慌てて部屋から出ていく。

 ◆

 逃げるようにさんの家を出た後、玄関の前で荒くなった呼吸を整えて唇に触れる。

さんと、キスしちゃった……」

 キスをすればこのもやもやした気持ちが晴れると思ったのに。
 どうやらオレは、さんのことがもっと好きになっちゃったみたいだ。