夢の跡

 車から降りるとすでに大勢の観客たちがいた。ここにいれば、スプリントリザルトが決まる瞬間を間近で見ることができる。人気の観戦スポットであることはわかっていたけれど、思っていたよりも人が多い。

「あ、ハコガクだ」

 私たちの着ているTシャツやジャージを見た観客たちが後ろに下がり、道を空けてくれた。頭を下げて後輩たちを連れて沿道に立つ。ずっと遠くまで見える見通しのいい平坦道で、いつもより長く選手の背中を見送ることができそうだ。
 箱学の選手たちが来るのを待っている間、がやがやと周囲の声が聞こえてきた。

「今年はどうなるんだろうな」
「ハコガクの優勝で決まりだろ」
「ひょっとしたら総北や京都伏見が勝つかもしれないぜ?」
「ないない! 言っとくけどハコガクは毎年インハイで優勝してるんだぜ? 今年は総北とかよく粘ってる方だと思うけど、王者には勝てないって」

 一部の人たちは総北や京都伏見が勝つかもしれないって思っているものの、ここにいる大半の人たちは箱学が勝つって信じているようだ。
 私も、箱学の勝利を信じてる。真っ先に見えるのは箱根学園のジャージでありますように。祈るような思いでまだ誰もいない道の先を見つめていると、携帯電話で誰かと話していた男性が叫んだ。

「ハコガクの二番がスプリントリザルト前で落ちたってよ!」

 荒北くんが……!? 箱学二番と聞いて頭の中が急激に真っ白になる。

「ハコガクがひとり欠けるなんて珍しいな」
「まだ序盤だぜ? 大丈夫なのかよ」
「荒北さんが!?」
「メカトラにでも遭ったのかな……」

 男性の声を聞いて、観客や後輩たちも動揺している。
 荒北くんになにかあったのならば、今ここで突っ立っている場合じゃない。

さん、どこに行くんスか!?」
「荒北くんのところ!」

 行き先を尋ねた後輩にそう叫んで走る。
 荒北くんはこんなところでリタイアなんかしちゃダメだ。なにかあったのなら早く助けないと……!
 走りながら、少し前の出来事を思い出す。


 あれは、今年の春の日のことだ。とうに完全下校時間を迎えてすっかり暗くなってしまった夜、今日も荒北くんの自主練習に付き合っていた。
 荒北くんを待っている間、街灯の光に照らされている夜桜を見上げていると、遠くから自転車の音が聞こえてきた。荒北くんが、息を切らしながら自転車で坂を登る。ようやく坂を登り終えた途端、地に足をつけた。荒北くんのもとに駆け寄って、彼の自転車のハンドルについているサイクルコンピューターをのぞきこむ。

「前よりも速くなったね。これなら明日のトーナメント決勝も余裕で勝てると思う」

 明日、インハイ出場メンバーの座を賭けたB組のトーナメント決勝戦が行われる。荒北くんはもともと、去年の秋から福富くんのエースアシストとして数々の実績を残してきたから実力には申し分ないけれど、他の部員もインハイ出場を目指して短い間に目まぐるしいほどの成長を遂げた。インハイメンバーの座を確実につかみとるためには少しでも多くの練習をする必要があったのだ。

「明日勝てば、ようやくインハイに出られるんだな……」

 自転車から降りた荒北くんがよろけそうになったので体を支える。

「大丈夫?」
「疲れた……。、少しの間だけ背ェ貸せ」

 そう言って荒北くんはその場に座り込んでしまった。荒北くんに背中を向け、地べたに腰を下ろすと荒北くんが私の背中によりかかった。背中から伝わる温かい感触に、異性であることを強く意識してしまう。
 荒北くんが落ち着くのを待ちながら、座ったまま夜空を見上げる。夜桜で縁取られた満天の星はとてもきれいで、なんだか吸い込まれてしまいそうだ。

「なぁ、。インハイにはなにが見れるんだろうな」
「うーん……。きれいな景色とか?」
「レース中にのんびり景色見てる余裕なんてねェだろ」
「って言われてもなぁ。そんなことくらいしかわからないや」

 自転車部のマネージャーである私は、選手が見たものを想像することはできるけれど、同じものを見ることができない。福富くんや東堂くんあたりだったら、荒北くんの求めている答えをくれるだろうか。他の人が言いそうな答えを考えていると、背中がさらに重くなった。荒北くんが空を仰いでいるようだ。

「インハイが待ち遠しいなァ」

 インターハイまであと少し。明日の決勝で勝つであろう荒北くんは、これからインハイに向けてさらに忙しくなるはずだ。
 インターハイに参加した荒北くんの目にはなにが映るのだろう。荒北くんがインターハイで全力を尽くせるように、私もできるかぎりのことがしたい。

「待ち遠しいね」

 荒北くんに負けじと背中を反らして空を仰いで、未来のことを思い描いた。


 人の間を縫いながら走っていると、遠くに荒北くんを見つけた。自転車から降りた荒北くんはスタッフの人となにかを話して、車に向かって歩き出した。

「荒北くんっ!!」

 大声で名前を呼ぶと、振り向いた荒北くんは驚いた顔をしていた。

!? テメーなんでこんなとこにいんだよ!?」
「荒北くんが落ちたって聞いて、いてもたってもいられなくなって……!」

 膝をついて、息を整えながら荒北くんを見上げる。慌てて駆けつけてきたのに、荒北くんは落ち着いている。

「ここでリタイアしてよかったの……?」
「福チャンたちのお荷物になるくらいだったら全力で引いて走ってリタイアした方がマシだ」
「でも、そしたらインハイに荒北くんの記録は残らないんだよ!?」

 自然と声が荒がってしまい、気まずくなってうつむく。
 この三日間、荒北くんはチームにまったく貢献しなかったわけじゃない。初日はゴール前まで福富くんを引いて、結果は同着三位に終わったものの他校に勝利を譲らなかった。二日目は京都伏見の一年の御堂筋くんに何度も追い込まれながら、坂が苦手な新開くんや泉田くんを引き、後に前を走る福富くんたちと合流した。
 けれど、今年は総北や京都伏見に予想以上に追い詰められてしまい、荒北くんが表彰台に立ったことはまだ一回もない。
 ここに来る少し前に、スプリントリザルトが決まった瞬間の放送を聞いた。最終日のスプリントリザルトをとったのは新開くんだった。
 スプリントリザルト前に荒北くんがいるということは、ここで失速したのだろう。荒北くんはスプリントリザルトという輝かしい名誉には目も暮れず、最後まで全力で走って福富くんたちに後を託した。エースアシストとしての役目を十分に果たしたことはわかっているけれど、それでも彼に素直に「お疲れさま」とは言えない。だって、あんなにインハイに行きたがってたのに。インハイに出ることを夢見て、たくさん自転車に乗ってきたのに。
 言った後で、時間差ですっかり熱くなってしまった頭が冷えた。こんなことを言っても、いまさら引き返して走るわけにはいかない。荒北くんに怒鳴られても仕方がないだろう――しかし荒北くんは真剣な顔をして、私にこう言った。

「なぁ、。少し前にインハイでなにが見れるんだろうなっていう話したこと、覚えてるか?」
「覚えてるけど……」
「さっきやっとわかったぜ。インハイ最終日の先頭は、すっげぇ気持ちいい」

 荒北くんが、目を細めて笑う。
 全力で走りきったからだろうか、初めて少年みたいに無邪気に笑う顔を見て心臓が強く鼓動を打つ。
 途中でリタイアしてしまったけれど、荒北くんは最後まで走りきったようだ。荒北くんが満足しているのならば、これ以上とやかく言う必要はない。荒北くんの言葉を聞いてようやく安心した。

「オレは先に救護テントで休む。福チャンたちのことは任せた」
「ひとりで大丈夫? 私もついていこうか……?」

 私がそういう言うと、荒北くんが目を眇めた。さっきまでは無邪気に笑っていたのに、私の言葉が相当気に障ったのかいつもどおりの荒北くんに戻ってしまった。

「マネージャーの仕事放棄してんじゃねーよ」
「で、でも……」
「まだレースは終わってねェんだ。オレの代わりに、テメーがレースの結末を見届けろ」

 荒北くんはずるい。そんなことを言われたらここで荒北くんと別れるしかないじゃないか……。
 でも、荒北くんの言うとおりだ。まだレースは終わっていない。荒北くんの苦労をねぎらうのは、レースが終わった後にするべきことだ……。

「わかったよ。荒北くんの分まで見届けてくるから」

 胸に手を添えて誓うと、荒北くんが不敵に笑った。

「わかったんならさっさと行け」

 荒北くんに見送られながら、さっきいた場所に向かって走り出す。


 その後、後輩たちと合流した私は車に乗って、福富くんたちよりも一足先にゴールに向かった。
 そして、レース終盤。ここに来るまでに色んなことがあったのだろう――先頭を走る真波くんと総北高校の小野田くんふたりがゴール前で競い合う。

「いっけー真波!」
「頑張れ小野田!」
「小野田くん頑張って!」
「負けるな箱学!」
「真波くん、頑張って!」

 箱学、総北、それぞれを応援する声が飛び交う。
 ゴールまであと20メートル、15メートル、10メートル、そして――
 祈るような気持ちでゴールを見る。
 最初にゴールラインを踏んだのは、総北の小野田くんだった。


 表彰式が終わった後、ぼうっとしながら色んな学校の仮設テントが並ぶ通り道を歩く。

「今日はすっげー戦いだった」
「来年こそは絶対に優勝するぞ!」

 色んな学校の色んな選手の声が、自然と耳に入ってくる。
 箱学が、負けてしまった……。ゴールの瞬間を目にした時、鈍器で頭を殴られたような気分だった。
 最後まで互角の勝負で、たった数センチで勝負がついてしまった。一番にゴールラインを通過した総北の選手は両手をあげて空を仰ぎ、最後まで奮戦した真波くんは頭を垂れた――。
 救護テントにいた荒北くんは、レースの結末を聞いてなにを思ったのだろう。少し前まで荒北くんにもう一度会いたい気持ちでいっぱいだったのに、今になると誰と会っても気まずくなりそうで、誰かといることを避けてしまう。
 インハイで頑張ったのは荒北くんだけじゃない。福富くんも、東堂くんも、新開くんも、泉田くんも、真波くんも、インハイに出られなかった部活の人たちも、インハイの優勝を目指してひたすら自転車に乗って走ってきた。
 今年の総北や京都伏見はたしかに強かった。レースの結果に文句があるわけじゃないけれど、今まで一緒に過ごしてきた時間のことを思い出すと、今にも涙が溢れてしまいそうだ……。
 ぼうっとしながら歩いていると、誰かにぶつかってしまった。

「ごっ、ごめんなさい!」
「こっちこそゴメン……って、なんだ、か」

 ぶつかったのは新開くんだった。私に気づいた新開くんがにっこりと笑う。

「こんなところ歩いてどうしたんだ?」
「ちょっと、気分が優れなくて……」

 少し気を抜くと涙がこぼれてしまいそうで、新開くんから目をそらす。

「まぁ、そういうときもあるよな。そういえばは、靖友に会ったのかい?」
「えっ? 荒北くん?」
「靖友、救護テントで休んでたけどついさっきこっちに来たみたいだぜ。一声かけたら喜ぶんじゃないか?」
「荒北くんにかぎって、そんなことはないって」

 涙を隠そうとしていたことも忘れて慌てて否定する。新開くんは時々、変なことを言っては私と荒北くんをくっつけようとしている。別に荒北くんのことを異性として意識していないわけじゃないけれど、インハイを目指して頑張っている彼に余計なことは考えてほしくない。荒北くんのためを思ってわざとひた隠しにしている感情がいつか新開くんに暴かれてしまいそうで内心怖かった。
 そこまで考えてふと思う。インハイは残念な結果になってしまったものの、終わってしまったことに変わりはない。いまさら新開くんの前で気のないフリをして、一体何の意味があるのだろうか。

「おめさんはそう思ってても、やっこさんはそうじゃないかもしれないぜ?」

 新開くんが片目をつむる。
 インハイには負けてしまったけれど、荒北くんは私に会いたいと思ってくれているだろうか。新開くんと話をしたら、急に荒北くんに会いたくなってしまった。

「会えるかどうかわからないけれど、とりあえず捜してみるよ」
「あぁ。そうするといい」

 新開くんと別れた後、宛てはないけれど道に沿って進みながら荒北くんの姿を捜す。
 荒北くんの姿を捜しているうちに湖の前まで来てしまったけれど、こんなところに荒北くんはいるのだろうか。引き返そうとすると、遠くから見覚えのある人が歩いてきた。

「うん? キミ、もしかしてハコガクの……」
「マネージャーですけどなにか……?」

 男の人――呉南工業高校の待宮くんから声をかけられるとは思わなかった。面識はないはずだけど一度どこかで言葉を交わしたのだろうか。
 待宮くんは今朝、レースが始まる前に福富くんたちに宣戦布告をして、レースが始まった後も集団を利用して先頭を走っている福富くんたちに迫りつつあった。後からやってきた荒北くんが待宮くんに追いついてからは、なにがあったのかはわからないけれど勢いが落ちて、最後には完走したみたいだけど……そんな人がなぜ私なんかに声をかけたのだろう。少し考えても心当たりが見つからない。

「キミが荒北の彼女か。アイツにはもったいないえぇ女じゃのぅ」
「わっ、私、荒北くんの彼女じゃないです!」

 どうして荒北くんの彼女だなんて思われてしまったのだろう! つい大声で否定してしまったけれど、待宮くんはけらけらと笑っている。

「さっき荒北から聞いたんじゃ。マネージャーには特に世話になったって。あの話ぶりを見たら、誰だって彼女だと思うに違いないワ」

 荒北くんは一体、待宮くんとどんな話をしたのだろう……。

「あ、あの、私、荒北くんとは別になんともなくて……!」

 誤解を解こうとすると、待宮くんが私の肩に手を添えた。

「ワシにも付き合ってたオンナがいたんじゃが、ここに来る途中で突き放してしまってのぅ。ワシはもう無理じゃが、キミと荒北はここまで来たんじゃ。荒北のこと、大切にしい」

「じゃあの」寂しく笑った待宮くんが去っていく。そのまま立ち去る気にもなれず、少しずつ小さくなっていく待宮くんの後ろ姿を見つめた。
 ここに来るまでに待宮くんも大変な思いをしたのだろう。一時は大番狂わせを予感させた広島は、表彰台に登れるような結果を残すことはできなかったけれど、今の話を聞いて待宮くんの歩んできた道になにがあったのか詮索してしまう。
 感傷に浸ってしまいそうになるけれど、今は荒北くんに会いに行かなきゃ。おそらくこの先に荒北くんがいるのだろう。奥に進むと、湖が間近に見える場所にあるベンチに、ベプシを片手にひとり座っている荒北くんを見つけた。

「荒北くん」
。よくここがわかったな」
「隣、いい?」
「あぁ」

 荒北くんの隣に座って湖を見渡す。
 湖の向こうに見える夕日は今にも水平線に沈みそうで、夕日の光を受けた水面がきらきらと輝いている。荒北くんは残り少ないベプシを一気に飲み干した。

「レースの後に飲んでるなんて珍しいね」
「さっき待宮と飲んでたんだよ。おごってやるって約束だったからな」
「レース中に仲良くなったの?」
「そんなんじゃねェよ。けど、あの時のアイツは昔のオレに似てたんだ」

 空のベプシを両手に持った荒北くんが遠い目をする。

「インハイ、終わっちゃったね。まさか、箱学が負けるだなんて……」

 言った後でしまったという。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。言った後で訂正するわけにもいかず、自分から話を振っておいて黙ってしまう。

「真波に言いてェことは山ほどあっけど、今年の総北は強かった。悔しいけど、全然納得いかねェわけじゃねぇよ」

 つらいのは荒北くんの方なのに、彼は前を向いたまま笑っている。

「ここまですっげー長かった」
「まさか、リーゼント頭で入部してきた荒北くんがインハイに出るだなんてあの時は思いもしなかっただろうな」

 当時のことを思い出したらおもわず笑ってしまった。「笑うんじゃねーヨ」荒北くんが肘で私の肘をつく。今のはちょっぴり恋人同士みたいだなと思ってしまった。

「前々から疑問に思ってたんだけど、なんで荒北くんって自転車部に入ったの?」

 荒北くんは一年の頃学校をしょっちゅうサボっては原付を乗り回していたという。それがある日の晩や日中に、福富くんのロードバイクに勝手に乗ろうとしては転び、その後なにを思ったのかリーゼント頭で自転車部に入ってきた。当初は不良が自転車部に入ってきたって大騒ぎになってたっけ。
 大まかな流れは知っているけれど、荒北くんが自転車に乗ろうとした肝心のきっかけをいまだに知らない。
 こんなことを聞いたら荒北くんは気を損ねてしまうだろうか。だが、荒北くんは私に教えてくれた。

「中学の頃、オレは野球をやっていた。一年の頃には新人賞を獲って、夏にある県大会で華々しくデビューしようと意気込んでた矢先に肘を壊した。その後、野球肘の後遺症で前のようにボールが投げられなくなったオレは、野球をやめて途方に暮れていた」

 初めて聞く話に言葉が見つからずに黙り込んでしまう。荒北くんは寂しそうに笑っている。

「高校は野球部のない箱学を選んだけど、一年の頃のオレはあいからず昔のことを蒸し返しちゃあ他人にやつあたりしていた。そんな時、福チャンと会ったんだ。オレの乗っていた原付と福チャンの乗っている自転車のどっちが速いか勝負することになって、戦った結果オレは負けた。後は、お前も知ってのとおりだ」
「まさか、野球やってたなんて思いもしなかった」

 荒北くんにそんな過去があっただなんて……。もっと気の利いた言葉をかけたいのに、口から出たのはありきたりな言葉だった。

「挫折したオレがどこまで行けるのかもう一度試してみたい。そうして、ここまで来たんだ」

 夕日を見つめる荒北くんの横顔を見て、昔のことを思い出す。
 夜、ひとり自主練習をしている荒北くんを見かけた。面倒くさがり屋なはずなのになぜそこまで練習に打ち込むのか理由を聞いてみたら、彼はインハイに行くためだと答えた。それを聞いて私は練習を手伝うと言い出したんだけど、その時から私は荒北くんのことが好きだったのかもしれない。

「今思うとオマエも相当物好きだよな。部活の時間はとっくに終わったっつーのにオレの面倒みたりして」
「だって、夜ひとりで練習してるんだもん。あんなところ見たら放っておけないよ」
「ま、オマエがいなきゃここまで来れなかったけどよ。……ありがとよ」

 荒北くんに素直にお礼を言われたのは今が初めてだ。うれしいけれど同時に、忘れていたことを思い出した。
 荒北くんとこうやって一緒にいられるのも今日で最後だ。一応、冬に行われる追い出しファンライドで正式に引退という形になるけれど、受験は部活の都合などお構いなしだ。明日から部活は後輩に任せて受験勉強に専念しなければならない。
 明日が来る前に私は、荒北くんに言わなきゃいけないことがある。

「荒北くんに聞いてほしいことがあるの」

 膝に置いた拳を自然とにぎりしめてしまう。
 誰かに告白をするなんて初めての経験だけど、失敗を恐れてなにもせずにはいられない。できれば、この先もずっと荒北くんと一緒にいたい。それに、荒北くんは素直じゃないから、私から切り出すのが一番てっとり早いだろう。

「私、荒北くんのことが――」
「バカ、先に言うんじゃねーよ」

 せっかく一世一代の告白をするつもりだったのに、寸前のところで荒北くんに止められてしまった。
 時間差で心臓がばくばくと鼓動を打っている。今のセリフ、後でもう一度同じ機会が訪れたとしても同じように言うことはできないだろう。
 言葉を遮った荒北くんが私に向き直る。真剣な表情を目にした時、またトクンと心臓の音が鳴った。

「オレは、オメーのことが好きだ。部活を引退した後もオメーと一緒にいたいと思ってる。はオレのことどう思っているんだ?」
「私も、荒北くんのことが好き」

 ずっと一緒にいたから自信がなかったわけじゃないけれど、荒北くんの口から本当のことを聞いて幸せな気持ちになる。私、荒北くんと両思いだったんだ……。

。目ェ閉じろ」
「なんで……?」
「いいから早く」

 疑問符を浮かべながら目を閉じると、唇に柔らかい感触がした。
 長い口づけの後、唇が離れて目を開けると、荒北くんと目が合ってしまった。

「インハイ終わるまで待ったんだしいいだろ、このくらい」

 顔を真っ赤にした荒北くんが手で口元を隠して私から目をそらす。

「おーい荒北ー! ちゃーん!」

 後ろから聞こえた東堂くんの声に体が震えてしまう。もしかしてさっきの見られてしまっただろうか……!?
 慌てて振り返ると、東堂くんは私たちに向かって大きく手を振っている。あの様子を見るかぎりじゃ私と荒北くんがキスをしたところは見ていないようだ。

「こんなところで油売ってないで撤収作業手伝ってくれー!」
「わぁったよー!」

 私の代わりに、荒北くんが大声で返事をしてくれた。

「オレは先に戻っているからなー!」

 宣言どおり東堂くんが去っていく。いきなり大声で呼ばれたからびっくりしてしまった……。

「ダリィけどそろそろ行くか」

 荒北くんがベンチから立ち上がる。続いて私もベンチから立ち上がると、荒北くんに手をにぎられた。動揺のあまり手と荒北くんの顔を交互に見てしまう。

「誰かに見られちゃうかもしれないよ?」
「別にいいだろ。カレカノになったんだし。それに、あんまりこそこそしてっと誰かにとられるかもしんねーしなァ」
「そんなことはないと思うけど……」

 私より荒北くんの方が心配だ。荒北くんは東堂くんや新開くんのように女の子から絶大な人気があるわけじゃないけれど、色んなレースで数多くの功績を残してきた。それに、荒北くんは怖い人のように見えるけれど人一倍優しいし、なんだか放っておけない。そんな荒北くんの魅力に気づく人が私以外にいつ現れてもおかしくはないはずだ。
 私も荒北くんをとられたくない。そう思う一心で、つないだ手をぎゅっとにぎる。

「じゃあ、行こうぜ」

 荒北くんと一緒に手をつないで箱学のテントに向かって歩き始める。
 ふと、空を見上げると、茜色の空が黒色に染まりつつある。負けに終わってしまった今日のことは、これからもずっと苦い思い出として記憶の中に残り続けるだろう。それでも、荒北くんの念願の夢が叶ったことに変わりはない。
 つないだ手を離さずにまっすぐに前に進む。

「ねぇ、荒北くん。もう一回だけキスして」

 さっきの唇の感触が忘れられなくて、みんなと合流する前におねだりをしてしまう。
 荒北くんは黙って私の頬に手を添えて――少しの間優しいキスをしてくれた。