62

 入学式から一週間後。今日は新しい後輩と顔合わせの日だ。
 今年も多くの新入生が自転車部に入ってきた。自転車雑誌のサイクルタイムでよく見かける名前の人や、高校に入ってからロードバイクに乗り始めたという自転車初心者。色んな経歴の人が集まっているけれど、これからこの部でどんな成長を見せてくれるのだろうか。
 もしかしたら、荒北くんみたいに急成長する人だっているかもしれない。そう思うと、期待で胸が高なってきた。

 部室に入ると、遠くの位置で荒北くんと黒田くんが談笑している。
 黒田くんは去年泉田くんと同じ時期に入部してきた自転車部の部員だ。部活の先輩後輩といえば、新開くんと泉田くんのような関係を連想するけれど、荒北くんと黒田くんはちょっと違う。時々口喧嘩をするものの、黒田くんは荒北くんのことを慕っているような気がする。
 ああいう上下関係も、上を目指す彼らにとってまた必要なことなのだろう。微笑ましく思いながら見ていると……

「黒田なんだその絵! オメー美術はダメダメなんだなァ!」
「返せっ!! オレにだって苦手なことのひとつやふたつあるんだよ!」

 黒田くんが荒北くんから取り上げようとしているのは一枚の紙。その紙に描かれているのは四足歩行の……ダメだ、私にもわからない。去年の夏に巻島くんにプレゼントしてもらったお面。あれと近いものを感じる。
 ……きょ、今日はたまたま黒田くんをからかっているだけで、いつも周囲から怖がられている荒北くんも、後輩には慕われているのだ。

「荒北さーん、ベプシ買ってきました!」
「お、サンキュ。……って、おいこれベプシじゃなくてコーラじゃねェか!」
「す、すみませーん!! 今すぐ買い直してきます!」

 松本くんが慌てて部室を出る。今日は頼んでいたものと違うものを買ってきた後輩を怒鳴っているけど、いつもは後輩から慕われているのだ。

「荒北さん、お昼休みの時、校舎裏でノラスケと遊んでましたよね? にゃーにゃーとか言ってませんでした?」
「遊んでねーし言ってねーっつの!!」

 葉山くんに指摘された荒北くんの顔が真っ赤になる。…………今はなにも考えないでおこう。
 荒北くんのことはさておき、私もそろそろ後輩が欲しい。
 自転車部に後輩は何人もいるけれど、そういうのじゃなくて「マネージャーの仕事を引き継げる」後輩が欲しい。
 現在自転車部のマネージャーは私一人だけ。二年前にはマネージャーが何人かいたという話だが、卒業と同時にその座は空き、新開くんに誘われたことがきっかけで私はその位置に入って……。今思えば、よく一人でやってきたなって思うほどの仕事量だ。
 合宿のときはOBや有志の人たちが助けてくれるし、レースのときは出場しない部員が手伝ってくれる。全部の仕事を一人でやってきたわけじゃないけれど、このまま私がこの部を引退したらその後の自転車部が心配になる。
 自転車部のマネージャー希望者がいないわけじゃない。いないわけじゃないけれど、入部試験や面接に落ちて結果なかなか入らないという話を監督から聞いたことがある。
 このままマネージャーは私一人だけなのかなぁ。試験のやり方を変えるとかして、そろそろ人を増やした方がいいと思うんだけど……。

「どうした、靖友たちを見て」
「新開くん……。私も今年で引退だし、そろそろ後任が欲しいなぁって思って」
「……うん? 、寿一からなにも聞いてないのか?」
「え?」
「今日にも新しい後輩ができるんだぜ」


「一年C組、真波山岳っていいます。これからよろしくお願いします」

 顔合わせでにっこりと笑みを浮かべた真波くんが頭を下げる。これで自己紹介をしていない新入部員はあと一人だけになる。
 真波くんの隣にいるのは、ひょろっとした体躯のメガネの男の子。身長は東堂くんと同じくらいで、運動部より吹奏楽部で部長をやっていそうなイメージの外見の人だ。

「一年B組、織田真司。自転車部マネージャーとして部を支えます。よろしくお願いします」

 新開くんの言ってたことは本当だった……! まじまじと織田くんを見る。
 織田くんは三ツ星ホテルの従業員のように、完璧な角度で一礼した。自己紹介で期待できそうな後輩だと感じたのか、小さな歓声がわく。

「オマエよりしっかりしてそうだな」

 隣にいる荒北くんが小声で言った。

「そうだね」

 言い返す言葉も見当たらないくらい、私も織田くんには期待を感じた。これでようやく安心して部活ができそうだ。

「……しかし、あのメガネなんでこんな部に入ったんだろうな。スポーツやるってガタイじゃねェし」
「さぁ……」


 それから数日後のことだ。織田くんとペアを組んでマネージャーの仕事をこなしてきたけれど、彼の物覚えは想像以上にいい。
 物覚えもいいけれど、手際もいい。普段私が一人でやったら一時間かかるような仕事を、彼はうまく段取りを組んで短時間で済ませてしまうのだ。

「織田くんってすごいね。まさかこんなに仕事ができるなんて思わなかったよ」

 仕事が一段落した時、織田くんに向かって言った。こんなに仕事ができる後輩を持ってうれしいし、褒めるつもりで言ったのだが……

「先輩の仕事の効率が悪いだけです」
「……ん?」

 一瞬、耳が悪くなったのかと思って聞き返す。

「先輩の仕事の効率が悪いんです」

 今度はきっぱりと言われた。頭の中で雷鳴が響く。織田くんにこんなことを言われるのはもちろん初めてだ!
 い、今はたまたま機嫌が悪いだけなのかもしれない。別の話を振ってみよう。

「織田くんはなんで自転車部に入ったの? 自転車が好きとか……」
「自転車には何の関心もありません」

 またしても冷たく言い放った。さっきまでは温厚な子だったのに、いきなり態度が一変した。私、織田くんを怒らせるようなことなにかしたかなぁ……?

「福富主将からなにも聞いていないんですか? ボク、後藤教頭の親戚で……この部活には偵察のために入部しました」


「福富くんっ!」

 部活が終わり、人気がなくなった頃部室に駆け込み、一人でいる福富くんに声をかけた。彼は椅子に座り、新入部員の書類に目を通している最中だった。
 福富くんが顔を上げる。いつもと変わらない表情に見えるけれど、その表情の中に疲労の色が見えた。

「大丈夫……?」

 織田くんのことを問い詰めるつもりだったけれど、福富くんのそんな顔を見たら、それよりも先に心配になった。

「大丈夫だ。……さっきまで教頭がここに来ていてな。監督と一緒に話をしていた」

 福富くんが眉間を指で押さえる。察するにあまりいい話ではなかったのだろう。

「あの……織田くんから聞いたんだけど。織田くんが教頭先生のスパイだって」
「言うのが遅くなってすまん。織田はそのとおりだ」

 せっかく新しい後輩ができたと思ったら、教頭先生から遣わされた偵察役の人だったなんて。福富くんの口から直接聞くまでは信じまいと思っていたけれど、やっぱり本当だったんだ。

。この部は、オレの父が創設者ということは知っているな」
「……うん」
「父が作り、兄が盛り上げ、そして今オレがここにいる。たとえ上からなにを言われようとも、オレは父たちの意志を受け継ぎ、この部を守り通したい。織田の相手は大変だと思うが、これも教頭の理解を得るためだ。協力してほしい」
「もちろん協力する。むしろ、それなら自転車に興味のない織田くんに、これから自転車のことを好きになってもらうまでだよ」

 福富くんが微笑する。最近の福富くんは少しだけ表情豊かになった。

「ところで、その。……荒北とは、うまくやっているのか?」

 ほんのりと顔を赤らめて聞かれた。

「荒北くんとはうまく……」

 やっているよ、と言いかけて口をつぐむ。
 部活上での関係のことを聞かれていると思って普通に答えそうになったけれど、それにしては福富くんの様子がおかしい。もしかして福富くんになにか勘づかれたのだろうか。
 福富くんを見ると、なにも答えない私に気まずくなって足元に視線を落としている。その反応を見て、本当に色恋沙汰絡みの質問なのだと確信する。たとえ福富くんでも本当のことを言うわけにはいかないし、ここは――

「ううん。荒北くんとは――」
「――はっ!! すまない!! オレとしたことが、荒北はそう思っていてもお前の気持ちが一致するとは限らないことを全く考えていなかった! 今のは忘れてくれ!!」

 説明口調の言い訳をして席を立つ福富くん。そのまま彼が逃げようとするのを服の裾をつかんで引き止める。

「待って福富くんっ!! なにか勘違いしてる!!」


「……そうか。そういうことだったのか……」

 私の話を聞いた福富くんが安堵する。
 前に私が病室で眠っている時、荒北くんから私が好きだという話を聞いたという。あれ以来荒北くんから話を聞く機会がなく、私と荒北くんの様子を見る限り仲直りしたのだろうと思っていたが、やっぱりその末が気になって私に聞いたという。……なんだ、荒北くんが既に喋ってたんだ。

「別にオレは、部の雰囲気さえ乱さなければお前たちが交際しても文句は言わん」
「そういう理由で付き合わないわけじゃないよ。私にとっても、荒北くんにとっても……今はインハイが大事だから」
「……そうか」

 まさか、幼なじみと恋の話をする日が来るとは思わなかった。くすぐったくて、恥ずかしくて……おかしいたとえだけど、まるでお父さんに自分の恋人を紹介しているみたいだ。

「まさか、お前が荒北を気に入るとはな。喜ばしいことだが……複雑だな」
「……福富くん?」
「何とたとえたらいいのか……娘を嫁に出す親父の気分、というか」
「親父って」

 私はたまらず笑った。福富くんも私と同じこと考えてたんだ。

「……そろそろ帰るか」
「うん」

 福富くんと一緒に席を立つ。
 教頭先生や織田くんの件で新たな壁が立ちはだかってしまったけれど、立ち止まっている暇はない。三ヶ月後にはインハイが待っているのだ。