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 カレーを食べ終わった後、織田くんの姿を捜して外に出ると、彼は近くにいた。昨日の休憩場所と同じ所で、空を仰いでぼーっとしている。

「織田くん」
「……さん」

 織田くんは空を見るのをやめて、私に視線を向けた。

「なにかあった?」
「……朝、自転車に乗ってみました。腰や手が痛いし、怖いし、抵抗がありますけど……さんの言うとおり、風が気持ちよかったです」

 織田くんがぽつりぽつりと語る。

「なんで後藤教頭はこんなスポーツを目の敵にするんでしょうか……」
「織田くん……」

 自転車に乗ったことで、自転車の楽しさに気づいたのだろうか。それならとってもいいなって思う。教頭の使いで自転車部に入部したとしても、自転車の魅力に気づいてもらえたのならそれはうれしいことだ。
 茉莉花ちゃんや雄二くんだけじゃない。織田くんにも、もっともっと自転車のことを好きになってもらいたい。

「やっぱり今の、忘れてください」

 織田くんが私に背中を向けて歩き出す。

「ボクは偵察のためにここに来たんです。同じ仲間だとか、変な勘違いはしないでください」

 振り向いてピシャリと言うと、いつもの織田くんに戻って、颯爽と歩いて去ってしまった。

「……素直じゃないなぁ」


 合宿最終日の朝。今日は昨日に引き続き、雄二くんたちの自転車の練習に付き合う。二日前から合わせて短い時間だったけれど、雄二くんたちは私や泉田くんの補助なしで自転車に乗れるようになった。
 本当はもっと、ハンドルさばきのコツとか、自転車のマナーとか、教えたいことがいっぱいあったんだけど、ここにいられるのは今日までだ。教えきれなかったことはご両親やこれから出会う学校の先生に託して、今日は限られた時間でできる限りのことを教えていく。

「茉莉花、頑張れーっ!!」

 雄二くんが手をハの字にして叫ぶ。
 私と雄二くん、泉田くんから離れた所にいるのは自転車に乗った茉莉花ちゃん。百メートルほど離れた距離を、自転車に乗ってここまで走る。それが私と泉田くんで決めた雄二くんたちの最終試験だ。
 雄二くんは難なくクリアした。あとは茉莉花ちゃんだけだ。
 時々、私の教え方が悪いのかなって思うことがあるくらい、茉莉花ちゃんは自転車になかなか慣れなくて、茉莉花ちゃんも時々投げ出しそうになったけれど。茉莉花ちゃんに自転車に乗る楽しさを知ってもらいたくて、できる限りのアドバイスをしてここまで来た。
 茉莉花ちゃんならここまで来ることができるはず。そう信じて祈るように手を組む。
 みんなが息を呑む中、茉莉花ちゃんがペダルを回して前に進む。少しフラつきはあるけども、ゴールに向かってまっすぐに進んでいく――

「あっ――」

 泉田くんが声を上げたと同時、それに気がついた。茉莉花ちゃんの進む先には大きな石があって、タイヤの側面が当たった。車体が大きくフラつく。

「茉莉花っ」

 雄二くんが叫ぶ。茉莉花ちゃんの顔色は蒼白に変わったけれど――すぐに表情を引き締めて、ハンドルを力強くつかみ体勢を立て直す。
 そのままペダルを回し、ゴールに近づく。
 チョークで書いたアスファルトの上を、自転車が通る。

「やりましたね、茉莉花さんっ!」
「茉莉花よく頑張った!」

 泉田くんと雄二くんが手を合わせて喜ぶ。

「おめでとう茉莉花ちゃんっ」

 茉莉花ちゃんに駆け寄り、自転車に乗っていることを忘れてぎゅっと抱きしめる。
 茉莉花ちゃんの体から離れると、子ども特有の愛らしい大きな瞳と目が合った。

「ありがとうお姉ちゃん。お姉ちゃんが教えてくれなかったら私、自転車に乗れなかったかもしれない」

 涙で潤んだ目でニコッと笑う。茉莉花ちゃんの笑顔、初めて見たかもしれない。たまらずもう一度抱きしめる。

「二人とも、自転車に乗れるようになってよかったです」

 つぶやいた泉田くんの目も涙で潤んでいる。腕時計に視線を落とすと、もうすぐ朝食の時間。お別れの時間が近づいてきた。
 茉莉花ちゃんから離れ、泉田くんに目配せをする。泉田くんが私の隣に並び、目の前には茉莉花ちゃんと雄二くんの二人。息を吸って、吐いて……。三日前に突発的に始まった、小さな自転車教室の幕を下ろす。

「三日間の間、よく頑張ったね。本当はもっと教えたいことがたくさんあったんだけど……私たち、ここにいるのは今日までなんだ。交通ルールとか、細かいテクニックとか、教えきれなかった分は周りの大人たちに教わってほしい」

 雄二くんと茉莉花ちゃんがまっすぐに私を見つめる。これでもうお別れだと思うと名残惜しい。私の教え方がうまかったら、もっともっとたくさんのことが教えられたのにな。

「雄二くんと茉莉花さんといた三日間、大変でしたけど楽しかったです。またどこかでお会いしましょう」
「ありがとうな、おにーちゃんにおねーちゃん」
「……ありがとう」
「またね」

 涙が出そうになるのをぐっとこらえて、去っていく二人の背中を見つめる。自転車に乗って走る背中はだんだん小さくなり、やがて見えなくなってしまった。

「……行っちゃいましたね」
「短い間だったけれど、自転車に乗れるようになってよかった」

 朝の短い時間で本当によくやったと思う。中でも、

「茉莉花ちゃん、自転車好きになってくれたかな?」
「なったと思います。嫌いだったら、最後のテストであんなに走ることはできません」
「……そっか。それならいいな」

 泉田くんの言葉に心が晴れて、明るい気持ちで前を見る。今ここには、私と泉田くんの二人しかいない。さっきまで子ども二人を相手にしていたのが嘘のようだ。

「昨日、ユキに聞いたんですけど、自転車に乗れない子どもって結構いるらしいですよ。先生役の教え方が悪かったり、茉莉花さんのように最初から自転車を怖がったり……。そう思うと、雄二くんたちは自転車に乗れるようになってよかったです。将来、ロードレーサーになっちゃったりして」
「…………」
「……さん?」

 泉田くんが私の顔をのぞきこむ。

「いいね、そういうの……。そういう人が増えたらもっといい!」

 やっと大事な物を見つけた。泉田くんはきょとんとしたけれど、私の考えていることにすぐに気づいたのか破顔する。

「見つけましたね、将来の夢」


 午前のレース終了後、荒北くんの姿を捜す。新開くんの情報によれば、自販機にベプシを買いに行ったという。今朝ようやく見つけたことについて報告したくて、走って姿を捜す。
 屋内の階段の踊り場でやっと荒北くんを見つけた。息を切らして、階段の下から呼び止める。

「荒北くんっ!」
「ど、どうした。なにかあったのか?」

 ベプシを片手に持ち、私を見下ろした荒北くんは驚いている。なにか勘違いしているみたいだけど、訂正する余裕もなくてそのまま続ける。

「将来の夢やっと見つけたっ! 私、自転車のインストラクターになって、多くの人に自転車の楽しさを伝えたい!」

 ロードレーサーの家系の幼なじみがきっかけで自転車に乗るようになった。箱根学園に転入してから、自転車を通じて多くの人に出会った。
 私にとってもはや切り離すことができない自転車。そんな自転車を、私のものだけにするのはもったいない。あの日、自転車に乗らなくてもいいと言っていた茉莉花ちゃん。織田くんや後藤教頭、まだ見ぬ誰かにも……自転車の楽しさを知ってほしい。

「三日間の間、茉莉花ちゃんたちに自転車の乗り方を教えて気づいたんだ! 茉莉花ちゃんが自転車に乗れるようになった時、ようやく自転車のことを好きになったもらえた時……すっごくうれしかった! 福富くんや荒北くんみたいに自転車にうまく乗れないし、自分で自転車を楽しむ時間も欲しいけれど……私は、自転車の楽しさを教えられる人になりたい! だから――」

 荒北くんとはしばらくの間、違う道を歩くことになっちゃうけれど。それでも荒北くんは、私の隣にいてくれる――?
 言おうとして、やめた。距離が近すぎてたまに忘れちゃうけれど、今の私は荒北くんの彼女じゃない。この台詞はずっと後に言うべき台詞だ。
 私の話を黙って聞いていた荒北くん。階段を下りて、つかつかと歩いて私に近づいてくる。

「よく見つけたな。らしい選択だと思うぜ」

 頭をぐしゃぐしゃになでられる。乱れた髪を押さえながら目を開けると、荒北くんと目が合った。

「そうと決まったら、立ち止まってる場合じゃないな」
「……うん!」

 これからは夢に向かって努力をしながら、あと残り三ヶ月を切ったインハイに向かってひた走る。
 もしかしたら、私が見つけた夢は思っていたものと違うと後から思い知らされるかもしれないけれど……。それでも私は前に進みたい。インハイに向かってひたむきに練習を続ける荒北くんのように――つらい現実に直面しても、まっすぐにこの道を歩んでいきたい。