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 合宿三日目の朝、今日も雄二くんたちの自転車の練習に付き合う。昨日は自転車で進む感覚をつかんでもらったから、今日はペダルを踏んで実際に走ってもらう予定だ。昨日のとおり、泉田くんは雄二くん、私は茉莉花ちゃんに付き添って走り方を教える。発進と止まるときはフォローに入って、雄二くんたちが自力で走れるようになったら手を離して伴走する。
 練習を始めて三十分。雄二くんはだいぶ走れるようになったものの、茉莉花ちゃんはフラつきが多く、車体が大きく傾いたときには即座にフォローに入る。気をつけないと茉莉花ちゃんが怪我をしてしまいそうだ。

「やっぱり、自転車怖い」

 地に足をつけ、茉莉花ちゃんが言った。目は涙で潤んでいる。茉莉花ちゃんの視線に合わせて座り、顔をのぞきこむ。

「前を向いて走ってごらん」
「でも……」
「茉莉花ちゃんが下を向いているから自転車がフラつきやすいんだ。自転車のこと、もっと信じてあげて」

 茉莉花ちゃんのフラつきの原因は「自転車が傾いて怪我をする」という無意識の恐怖によるものだろう。それによって下を向いているみたいだけど、なおさら安定しないし危ない。ここはもっと、前を見るように意識するべきだ。

「……うん」

 茉莉花ちゃんがこくりとうなずいてハンドルを握る。ハンドルの空いている所をつかんで、発進の補助に入る。
 茉莉花ちゃんの練習に付き合いながら、昨日のことを思い出す。

『自転車教えてた時のオマエ、結構いい顔してたぜ』

 昨日の休憩中、雄二くんたちに自転車の乗り方を教えていたことを伝えると、荒北くんはそんなことを言った。
 あの後、そんなに変な顔してたかなって聞いたら、「そんなんじゃねーよ」って笑われた。荒北くんにしては妙に引っかかる言い方で、もう少し詳しく話を聞こうとしたら休憩時間が終わってしまった。あの時荒北くんはなにを思って私にあんな言葉を言ったのだろう。何度も考えているけれど、答えは全く見つからない。


 茉莉花ちゃんたちがだいぶ自転車に乗れるようになった頃、みんなに声をかける。

「じゃ、ここで休憩にしようか」

 茉莉花ちゃんたちがきょとんとする。予想通りの反応に、私は顔がほころんで後ろ手に隠していたものをぱっと見せた。
 右手にはバスケット、左手にはレジャーシート。

「じゃーん! サンドイッチ作ってきました! 一緒に食べよう」
「わぁ~!」

 三人とも喜んでくれた。よかった、早起きして作った甲斐があった。
 野原の上にレジャーシートを広げ、四人で座る。三人とも「おいしい」と言いながらサンドイッチを食べて、あっという間に残り四個になった。
 ハムレタスサンドを食べ終わった雄二くんが泉田くんに視線を向ける。

「おにーちゃんは将来プロレスラーになるの?」
「なりませんっ」
「えー、もったいないー!」
「ボク、自転車に乗るって言ったじゃないですか!」

 泉田くんがちょっぴり顔を赤らめて怒る。雄二くんは泉田くんのことが相当お気に入りみたいだ。

「そういえば、前から気になっていたんですけどさんの将来の夢は何ですか? 三年生になると進路指導もありますし、さんがどういう道に進むか是非参考にしたいです」
「私は……えっと……」
「おねーちゃんはどうせにーちゃんのお嫁さんだろー」
「なっ! なんて失礼なことを!」

 雄二くんの言葉に泉田くんが赤面する。私は視線を左右に動かして安全確認。右よし、左よし。ついでに後ろもよし。よかった、荒北くんはいないみたいだ。
 最近気がついたんだけど、荒北くんには結構ヤキモチ屋なところがあるから、こんな場面を見て誤解でもされたら大変だ。
 泉田くんがコホンと咳払いをする。

「もしかして、進路はまだ……」
「えへへ……実はまだ。自分でもなにがやりたいのかよくわからなくて……。雄二くんと茉莉花ちゃんは?」
「オレは警察官」
「私はケーキ屋」

 子どもらしい将来の夢に顔が緩む。泉田くんも同じことを考えたようで、優しい顔つきになった。

「お姉ちゃんはなにが好きなの?」
「私は……」

 なにが好きなのかと聞かれたら、それはやっぱり――

「自転車、かな」
「じゃあ自転車屋さんになればいいんじゃないかなぁ」

 茉莉花ちゃんの言葉に不意を突かれる。そういえば自転車屋なんて考えたことなかったな。自転車屋、自転車屋……。


 箱根の町中にひっそりと佇む一軒家。一軒家はよく見る普通の一軒家ではなく、屋根に「自転車」と大きく掲げられた看板と、道路に面する壁には玄関の扉ではなくガラス張りの引き戸。荒北くんについては色々考えると脱線してしまうので、遠くに転勤中ということにでもしておこう。
 開店時間を迎えると、引き戸が開いてどっと多くの客が入ってきた。

「おねーちゃん! パンク直してー!」
「はいはーい。三十分待つけど大丈夫? あと、パンク修理代千円なんだけど、子ども銀行のお金を出されても困っちゃうなぁ」
「自転車屋さんや。この自転車ブレーキがきかなくてのぅ。叩いてみたんじゃが、全然直りゃあしない。これはどうしたらいいかねぇ」
「アナログテレビじゃないんですから……。とりあえず、いったん預かりますね」
「おはようちゃん! 美しいオレにぴったりなグローブはあるか!?」
「これなんかいいんじゃないかな? 売れ残りのグローブ……ううん、東堂くんにぴったりなグローブだと思うよ」
「アサジマの昨年度モデルの型番T900のタイヤはあるか?」
「福富くん……。いきなり言われてもこんなお店にはないって……」


「忙しそうだなぁ」

 想像したらげんなりとしてしまった。おまけになにかデジャヴがするなって思ったら、そうだ、マネージャーの仕事と共通している部分がある。
 たしかに好きな自転車に関われていい仕事だなって思うけれど、なぜか惹かれない。……そうだ、この仕事をやって私はなにが楽しいんだろう。役に立ってうれしいって気持ちはあるんだけれど、根本的ななにかが足りない……。

「悪くはないんだけど、いまいちピンとこないっていうか……」
「おねーちゃんもワガママだな。あんまりワガママ言ってると婚期逃すぞ」
「あはは……」

 本当に逃したらどうしよう。

「でも、茉莉花さんの言うとおり、さんには自転車に関する仕事がいいと思います。その方がさんらしいなって思って」
「私らしいか……」

 今も答えの出ない進路のことを思い浮かべ、空を仰ぐ。ロードレーサーや自転車屋以外で自転車に関われる仕事って何だろう。


「天才美形クライマーの東堂と!」
「山大好き、真波山岳。……あと、巻き込まれ系ヒロインさんの」
「「レッツクッキングー!」」

 エプロンを着た東堂くんと真波くんが誰もいない方向に向かって喋り続ける。
 見なかったことにするか、とりあえずツッコんでおくか、迷った末に後者を選ぶことにした。

「あの……もしもし? 巻き込まれ系ヒロインってなに?」
「ならん、ならんよちゃん。マネージャーといえど、時にはギャグについていくノリも必要だ」
「たくさん言いたいことはあるんだけど、その中で一番ツッコみたいことを言うよ? なんで二人ともここにいるの」

 今私たちがいるのは厨房。レストランほどではないにしろ、それなりに広い規模の一室。ここで料理をするのは私とOBの人たちのはずなのに、なぜ東堂くんたちがここにいるのだろう。

「OBの人たちはどこに行ったの?」
「それなら、さっき廊下ですれ違ったぞ。オレたちがちゃんの料理を手伝うって言ったら、それは助かるってとても感謝された」
「いやいやいや……」

 なぜ簡単に引き下がったのか。色々と訳がわからない。
 ちなみに織田くんは置いてきた。織田くんが料理を手伝ったら最後、謎の腹痛で練習が中止になりかねない。彼を厨房に立たせるわけにはいかないのだ……。

「何人分ものカレーを作るのは大変だろう。このオレと真波が手伝おうと思ってな。ちゃんとフクからの許可ももらったぞ」
「あれ、織田くんいないんですねー。織田くんがどういう料理をするのか見たかったな~」

 のほほんと言う真波くんの言葉に、東堂くんと二人で顔を見合わせる。パワーバー事件当日、真波くんは部活をサボって登坂をしていたため被害には遭っていない。織田くんのパワーバーの恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ。

「嫌な思い出は遥か彼方に置いておこう。……さて、真波、ちゃん。今からカレーを作るぞ!」

 まずは分担してカレーの具を準備するところから始める。たかがそんなのに三人がかりでやるのかと侮る事なかれ、今目の前にあるダンボールの中には五十人分の野菜が用意してある。たしか海軍のカレーは五百人分を一度に作ることができるから、今作るのはそれの十分の一だけど、それでも結構な量だ。
 真波くんがにんじん、東堂くんはじゃがいも、私はひたすらたまねぎを切って準備を進める。

「せっかくだから、五個ぐらい変化球を混ぜてみます?」
「たとえば?」
「複雑なのは難しいから……猫とか」

 真波くんが器用に包丁を動かし、輪型に切ったにんじんを加工していく。すぐに終わり、それをつまんで私に見せてくれる。

「かわいい……!」

 真波くんが作ったのは猫型にカットしたにんじんだった。普通に切ったにんじんの中にこれが入っていることに気がついた人は大層驚きそうだ。

「これがカレーに入ってた人は今日いいことがあるかも」
「すごいなぁ! ……ところで、東堂くんは実家が旅館だからわかるけど、真波くんって料理できるの?」
「できるかどうかわかりませんが、人にはよくおいしいって言われます」
「またまたぁ」
「……ちゃん、真波の料理は本当にうまいのだよ」

 黙々とじゃがいもの皮を剥いていた東堂くんが言った。

「以前、昼に真波とばったり会った時、たまたま自分で作ったというおにぎりを食べたのだが……お世辞抜きでおいしかった」
「やだなぁ東堂さん。そんなこと言っても、なにもあげませんよ」

「えへへ」と真波くんが頭をかくフリをして笑う。……もしかして、この中で一番料理できないのって私だろうか――!?
 旅館の息子の東堂くん。東堂くんからお墨付きをもらった真波くん。一応私も一人暮らしをしているからそれなりに料理はしてるけれど、人様に振る舞えるほどの腕の持ち主かと聞かれたらあまり自信はない。
 ……そういえば荒北くんもそこそこ料理ができる。ここで頑張っておかないと、最近想像した新婚生活のようになりかねないだろう。

「私、たまねぎ切り終わったらじゃがいも剥き手伝うよっ!」
「おう、待ってるぞ」

 真波くんたちに負けてはいられない。涙が出るのをこらえながら、たまねぎをひたすら切った。


 昼食の時間になった。練習を終えた部員や応援に来たOBがぞろぞろと食堂に入り、配膳が終わって食事の時間が始まる。
 あの後、旅館の秘伝レシピがあると言った東堂くんの指導のもとにカレーが完成した。何十人分もあるカレーだけれど、味は大味ではなく、一口食べればほどよい辛さとスパイシーなカレーの風味が広がって、おいしいって言ってもらえるはずの味だ。

「……なんか入ってる」

 ぽつりとつぶやいたのは荒北くん。彼のスプーンの中には猫型のにんじんが入っている。
 荒北くんの正面にいた福富くんと新開くんがカレーをのぞきこむ。

「猫だな」
「ヒュウ。にんじんを猫型にカットしたのか」
「粋なことするじゃねェか」

 荒北くんが一瞬だけ私の方を見た。ゴメン、荒北くん。それ、真波くんが切ったものなんだ……。
 私の心の声は伝わることなく、荒北くんは猫型にんじんをじーっと見つめるとぱくっと食べてしまった。どことなくうれしそうな態度に、東堂くんたちの合作なんだけど……と、一言付け加えたくなる。
 荒北くんから目をそらし、隣にいる織田くんを見る。織田くんは黙々とカレーを食べている。朝から気になってたんだけど、また珍しく心ここにあらずだ。