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合宿二日目。朝早く目が覚めた私は外に出て、施設の周りをぐるりと散歩していた。
一般利用客向けのコースの近くにまで行くと、泉田くんと二人の子どもの姿が見えた。
「わー、筋肉ムキムキだー」
「こらっ! 変なところ触らないでください!」
幼稚園生くらいの子どもだろうか。泉田くんの身長の半分にも満たない男の子が、彼によじ登って腕や胸をぺたぺたと触っている。
その一方で、距離を置いて二人のやりとりをじーっと見ている女の子がいた。
「アブゥゥゥ! アンディには触らないでぇー!」
「あの……もしもし?」
泉田くんの口から艶めいた声が出たところで、私は助け舟に出た。泉田くんと子ども二人が驚いて私を見る。
「さん……! おはようございます」
「おにーちゃん、コイツ誰? にーちゃんのカノジョ?」
「違いますっ! 部活の先輩です! あと、コイツって言い方はやめてください!」
泉田くんが男の子を体から引き剥がし、地面に下ろす。
「こんな所でなにやってるの?」
「実は、朝早く起きたので自主練をしようと思ったら、この辺に住んでいるという子どもに捕まってしまって……。ほら、君たちの名前は?」
「オレは雄二。ねーちゃんよろしくな」
「私は茉莉花……」
「雄二くんに茉莉花ちゃんだね。私は。よろしくね」
膝を折って座り、雄二くんたち二人にそれぞれ目を合わせてあいさつする。雄二くんはニカッと笑ってくれたけれど、茉莉花ちゃんはそっぽを向いた。
ふと、初めて会った時の荒北くんを思い出した。あの時の荒北くんは、私があいさつをすると同じようにそっけない態度で返した。一年前の話だけど、遠い昔のように懐かしく感じる。
「それでこの子たち、ボクに自転車の乗り方を教えてほしいって言うんです」
「お兄ちゃん。私は雄二くんの付き添いで、自転車に乗りたいわけじゃない」
「なに言ってんだよ茉莉花。そのままじゃ一生自転車乗れないだろー」
「私は別にいいもん……」
唇を尖らせる茉莉花ちゃん。
「お家の人に教えてもらいなさいって言ったら、雄二くんがボクの体に触ってきて……」
「うちの親仕事で忙しくてさー。おじいちゃん足腰よえーし、誰も教えてくれる人いないんだよ。だからいいだろ、な、な?」
なるほど、素直に引き下がってくれそうにもないしこれは困った状況だ。
「泉田くんは朝練を優先したい?」
「ボクは……二人に、自転車の乗り方を教えたいと思います。けど、一人で二人の面倒を見るのはちょっと……」
「じゃあ、泉田くんは雄二くんに自転車の乗り方を教える。私は茉莉花ちゃんに教える。これでどう?」
「でも、そしたらさんが」
「私は別にいいよ。暇だし」
茉莉花ちゃんに視線を合わすと、彼女は足元に視線を落とした。
「私はいい。だって、自転車になんか乗らなくたって生きていけるでしょう?」
「茉莉花」
雄二くんの眉根が寄る。
今の茉莉花ちゃんの言葉を聞いて、黙っているわけにはいかない。
「生きていけるけど、それはもったいないことだと思うな」
茉莉花ちゃんが顔を上げ、私を見る。
「……なんで?」
「自転車ってすごい乗り物なんだよ。自分の足ひとつで遠い所にまで行けちゃうし、走っていると風が気持ちいいの。そんな乗り物に乗らないなんてもったいないと思うな」
本当に、もったいないと思う。
たしかに、茉莉花ちゃんの言うとおり自転車に乗らなくたって生きていける。車や電車、現代に移動手段は山ほどあるし、今時は自転車に乗れなくたって不便に思うことはあまりないだろう。
でも私は、自転車に乗れるようになった方がいいと思う。風が気持ちよくて、遠い所に行けて。福富くんをはじめとして、新開くんや荒北くん、みんなに出会って。もし自転車に乗れなかったら、自転車のことが好きになっていなかったら、今の私はなかったと思う。
自転車に乗れるようになって初めて見えるものがあるということを、茉莉花ちゃんにも知ってほしい。
「お姉ちゃんがそう言うんだったら……ちょっとだけ、やってみる」
茉莉花ちゃんが小さな声で言った。私は破顔して、彼女に手を差し伸べる。
「よろしくね、茉莉花ちゃん」
茉莉花ちゃんの小さな手が、私の手をぎゅっと握る。
「じゃあ決まりですね。二人とも自転車は?」
「あっち。青いのがオレで、赤いのが茉莉花」
雄二くんの指さした方向には二台の自転車があった。補助輪はない子ども用の自転車で、すぐに教えることができそうだ。
雄二くんたちが自転車を取りに行っている間、小さい頃のことを思い出す。
私が自転車に乗れるようになったのは福富くんのおかげで、たしかあの時は……。
「……お姉ちゃん、本当にこれでいいの……?」
遠く離れた茉莉花ちゃんがサドルに跨ったまま振り向く。
「いいんだよー。そのままもう少し続けて」
茉莉花ちゃんが前を向いて地面を蹴り、数秒の間だけ前に進む。
傍から見たら滑稽な光景かもしれないけれど、実はこれが自転車に早く慣れるいい方法なのだ。
『自転車に乗れるようになるにはバランスが大事だ。最初はペダルを回さなくていい。ただ地面を蹴って前に進んでみろ』
子どもの頃、なかなか自転車に乗れなかった私に福富くんはこう教えてくれた。当時は半信半疑で練習してたから、このことはよく覚えている。ロードレーサーの家系育ちの福富くんが言ってたし、今の茉莉花ちゃんたちには一番効率的な練習方法だろう。
練習の邪魔になるため、ペダルはあらかじめレンチで外しておいた。二人の様子を見て、いずれはペダルを戻す予定だ。
「雄二くん、あんまり遠くに行かないでくださいっ」
「へへっ、どうだにーちゃん! オレ天才だろう!?」
雄二くんはコーチの泉田くんを翻弄しながら、茉莉花ちゃんと同じように地面を蹴って前に進んでいる。茉莉花ちゃんよりはフラつきがないし、明日あたりには自転車に乗れるようになっているかもしれない。
そういえば今何時だろうと思って腕時計を見ると、朝食の時間まであと少し。もう少しやりたかったけれど、今日はここでお開きだ。
「ゴメン、これから私たち部活があるから今日はここでおしまいにしたいんだけど……」
「じゃあオレたち、明日もこの時間に来るよ。いいよな、茉莉花」
「……うん」
今の練習で自信がついたのか、茉莉花ちゃんの目にはやる気の色が見える。
「じゃあなーマッチョのにいちゃんたち。明日寝坊するなよー」
自転車から降りた雄二くんたちは私たちに手を振ると、自転車を押しながら歩いていく。
「すみません、さん。変なことに巻き込んでしまって……」
「ううん、大丈夫だよ。もしこれで二人が自転車のことを好きになってくれたらうれしいし」
CSCから去っていく二人の背中を見つめる。これで自転車を好きになってくれるのならお安い御用だ。
仕事が一段落した休憩中。外に出ると、織田くんがペットボトルを片手に持ったまま、コースを周回している部員の姿を見つめていた。
いつもは休憩中、本を読んだり、誰かに今足りない物を指摘してはパワーバーを押しつけたり……ともかく、なにかをしているというのに。今日に限ってぼんやりしているなんて珍しい。
「どうしたの、織田くん」
織田くんの隣に並ぶ。織田くんは走る部員を見たまま、
「なんでこの人たちは自転車に乗っているんだろうって思って」
いつものきっぱりした口調とは違う、迷いを含んだ声で言った。
「陸上にサッカーにバスケ。うちの学校に、運動部なんて山ほどあるじゃないですか。なんで自転車なんでしょうか」
「自転車はね、他のスポーツに比べて、才能に大きく左右されないスポーツなんだ。ペダルをひたすら回せば速く走れる。しっかりふんばれば坂を登れる。自分の身体と自転車だけで走るシンプルなスポーツ。みんなはそれに惹かれて走るんじゃないかな」
自分なりの答えを言ってみると、織田くんの表情がさらに曇った。
「ボク……今は仕方なく自転車部にいますが、運動部なんて大っ嫌いです。中学の時、時々運動部の活動の様子を横目で見ていましたが、先輩や顧問がいばりちらしていて、かわいい女の子がいると一部の奴らがへらっとして。がむしゃらに練習すればなんでもできると思っている。そんなバカな運動部が、ボクは大嫌いなんです。ここは、中学の時に比べたらまだまっすぐな方だと思いますが……でも、結果的には同じだ。たかが自転車に、どうして熱くなるのかボクにはわからない」
「……織田くんはさ、ロード乗ったことある?」
「ないです」
「ないなら、一度乗ってみなよ。どうしてみんなが自転車に夢中になるのか、わかるはずだよ」
「……考えておきます」
織田くんが私から背中を向けて去って行く。途中、こちらに向かってくる荒北くんとすれ違ったけれど、織田くんは荒北くんに声をかけることなく去っていってしまった。
「んだよアイツ。無視しやがって」
「色々あったんだ。今はそっとしておいて」
「なんだよ色々って。……ま、いいけどよ」
荒北くんが、さっき織田くんがいた位置に佇むと、片手に持っていたベプシのふたを開ける。
「聞きたいことがあるんだけどよ、朝ガキとなにやってたんだ?」
「自転車の乗り方を教えてて……って、見てたの?」
「朝早く目ェ覚めたから練習しようと思ったら、たちのギャーギャー騒いでいる声が聞こえたんだよ」
「あはは……」
苦笑して朝の出来事を振り返る。二人とも元気のある子どもで、私も泉田くんも相手するのに一苦労だった。
「人に物を教えるのって、思ってたより大変だったけれど楽しかったよ。また明日も教えるんだ」
「明日も仕事あるっつうのに余裕だな」
「こんなことしてる場合じゃないかもしれないけれど……でも、あの子たちには自転車に乗れるようになって、自転車のことを好きになってほしいんだ。少し早起きするだけだし、部活には支障がないようにするよ。だからダメ、かな?」
おそるおそる荒北くんの横顔を見る。
「別にオレはケチつけたいわけじゃねェよ。ただ――」
荒北くんが私を見て、微笑する。
「自転車教えてた時のオマエ、結構いい顔してたぜ」