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 朝、家を出ると隣の家のドアが開く音が聞こえた。

「あ、さん。おはようございます」
「おはよう真波くん」

 大きなボストンバッグを携えた真波くんとあいさつを交わし、一緒に学校へ向かう。
 まさか、去年この時期に真波くんに会った時は一年後に同じ自転車部の仲間になるなんて思わなかったな。
 今日から去年行った所と同じCSCにて三泊四日の合宿が行われる。今回は高校生活最後の、インハイを三ヶ月前に控えた合宿となる。四日間、みんなの役に立てるようにマネージャーの仕事を頑張らなきゃ。


 バスに揺られ、二時間ほど経った頃。黒田くんが水性マジックを手にして、隣で口を開けて寝ている荒北くんのまぶたに目を描こうとしている。

「黒田くん……。やめた方がいいんじゃないかな……?」

 荒北くんを起こさないように気を遣いながら、そっと黒田くんに言った。荒北くんがイタズラに気がついたら最後、怒り狂う光景が容易に想像できる。

「塔一郎が去年、荒北さんに同じことされたんですよね。だからオレ、敵を討つためにやるんです。止めないでください」

 そういえばそんなこともあったっけ……。なら仕方ないねと心の中で納得すると、黒田くんがマジックのふたを開ける。
 荒北くんの目は細いからそんなに手間がかからなかったのだろう。すぐに目を閉じても起きているように見える落書きが完成した。シュッと細長いまぶたの線に、一点のつぶらな黒い瞳。荒北くんそっくりで、口を手で押さえて笑った。隣にいる泉田くんも、笑い声を上げないように頑張って口を閉じている。
 私の前の席にいた福富くんが立ち上がり、後ろにいる私たちに振り返る。

「そろそろCSCに着く。現地に着いたら二十分後には練習開始だ。各自、速やかに準備するように。荒北もそろそろ起き……ぶふっ!!」

 福富くんのレアな顔が見れた。荒北くんはゆっくりと目を開けて、

「な、なんだヨ福チャン……。顔見て笑われるとかすっげー傷つくんだけど」
「すっ、すまん……」

 謝ったかと思いきや、荒北くんから視線を外し肩を震わせて再び笑い始めた。己のまぶたの落書きにまだ気がついていない荒北くんは困惑している。
 その後、CSCに着いて監督に笑われた荒北くんは東堂くんから手鏡をひったくり、大きな悲鳴を上げた。

「おいコラ東堂ォ! これ描いたのオメーだろォ!?」
「断じて違うぞ!!」


さーん! 自転車の調整手伝ってくれるー?」
「はいはーい!」
「誰か買い物袋部屋まで運ぶの手伝ってくれるー?」
「はーい!」

 慌ただしく建物の中や外を行ったり来たりして、OBのサポートに入ったり補給品を用意する。携帯食料や飲料が入った買い物袋を両手に持って歩いていると――

「きゃっ」

 つるんと廊下の床に滑って転び、片方の買い物袋の中身をぶちまけてしまった。

「なにやってんだ、

 たまたまそこを通りかかった荒北くんと目が合う。

「歩いてたら転んじゃって……」
「しょうがねーなァ」

 荒北くんがしゃがんで床に落ちた物を拾い集め、買い物袋の中に戻していく。

「あっ、ありがとう」
「っせ。礼なんていらねーよ」

 私も自分の近くに落ちている物から拾っていって、すぐに元通りになった。
 買い物袋は荒北くんが持っている。受け取ろうと手を伸ばすと、荒北くんは袋を持ったまま立ち上がる。

「……荒北くん?」
「別に、ボトル取りに行くついでだし。気にすんな」

 オレが片方持ってってやるよと言いたいのだろう。うれしいけれど、荒北くんは今練習の真っ最中だ。こんなことで時間を割いてもらうわけにはいかない。

「いいよ、私一人で運べるし。返して?」
「ヤダ」
「でも……」
「普段はこんなメンドクセーことしないけど。だったらたまには手ェ貸してやるよ。だから黙って貸せ」
「……うん」

 二人で廊下を歩く。新開くんや泉田くん、私の仕事を手伝ってくれる人はたくさんいるけれど、荒北くんが手伝ってくれるのは珍しいことだ。

「ありがとう」
「だから礼なんていいっつってんだろ」

 荒北くんの頬が赤く染まっている。去年よりだいぶ優しくなったけれど、相変わらず不器用な彼にたまらず笑ってしまった。


 合宿一日目は無事に終わり、空に夜の帳が下りる。練習は終わって自由時間になったけれど、今日もまた荒北くんに付き合って外で自主練習の手伝いをしていた。
 自主練習が終わり、へとへとになった荒北くんが階段の段差に座る。私も隣に座って真っ暗になったコースを見渡した。

「インハイまで、あともうちょっとだな」

 指を折って数える。六、七、八……。インハイまであと三ヶ月しかない。

「そうだね。こんなに迫ってるなんて、実感わかないや」
「……なぁ、。インハイにはなにが見れるんだろうな」
「インハイ? そうだね……」

 選手になったつもりでインハイで見られる景色を想像する。平坦地で見られる海の美しい景色。山岳地で見られる自然溢れる山の景色。全国から人が集まった大勢の観客の歓声に、気持ちのいい風。

「きれいな景色……とか?」
「レース中に景色楽しんでる暇なんてないだろバァカ」
「…………」

 自分なりに考えたつもりなのにバカにされた……。むっとしていると、荒北くんが小さく笑う。

「オレさ、ああいう大舞台に立つの初めてなんだ。野球やってた時は大きな大会の前に肘壊しちまったし。……オレ……うまくやれんのかな」

 荒北くんが自分の足元に視線を落として言った。
 この表情には既視感がある。お祭りの夜、荒北くんが南雲くんの話をしてくれた時と同じ、自信のない表情だ。
 今の私には、そんな荒北くんにはっきりと言えることがある。

「大丈夫だよ。荒北くんは世界一のエースアシストだもん。私が保証する」

 一年の間に荒北くんはぐんと成長した。一番近くで荒北くんを見てきた私にはちゃんとわかるし、世界中のエースアシストにも絶対に負けないと胸を張って言える。
 荒北くんと目が合うと、頭をぐしゃぐしゃになでられた。

「照れくさいことすらっと言ってんじゃねーよ」
「だって、本当のことだし……」

 手ぐしで乱れてしまった髪型を直す。

「……なんか、お前と話しているとなんでもかんでも喋っちまうんだよな。意外にカウンセラーとか向いてるんじゃねェか」
「そうかなぁ?」
「腹減った。そろそろメシ食いに行くぞ」
「うん」

 荒北くんと二人で立ち上がり、宿泊所に戻る。
 三ヶ月後のインターハイ。そこで荒北くんはどんな景色を目にするのだろう。