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 延々とまっすぐに続くアスファルトの上をひたすら走っている。
 前には荒北くんが歩いていて、もう一歩踏み出して手を伸ばせば触れそうな距離。でも、なぜか荒北くんに追いつくことができない。まるで荒北くんとは違う世界にいるみたいだ。

「荒北くんっ」

 たまらず大声で呼び止める。荒北くんが立ち止まり振り返った。

「お前は進路どうするんだ?」
「なにも決まってない……」
「これから先、どうするのかちゃんと考えとけよ」

 荒北くんが踵を翻す。私は焦り――

「考えてるよっ! 考えているけれど……いきなりそんなことを言われても」

 大声で言って、力なくうつむく。こんなこと、荒北くんに言っても答えは見つからないってわかっているけれど……!

 家の近くの小学校に入学して、卒業すれば中学校に入学して……一時期は転校もしたけれど、「近くの学校に通う」という受け身な姿勢で学生生活を送ってきた。でも、大学から先はそうすることができない。適当な大学に通うにしても、適当な職に就くにしても、なにかを選択する必要がある。
 美容師になりたいという友達。弁護士になると意気込んでいた頭のいいクラスメイト。将来はプロのロードレーサーになるであろう幼なじみ。洋南大に行くと言っていた荒北くん――。
 私は一体どんな道に進んだらいいのだろう。今まで受け身で人生を過ごしてきた私に、将来の夢はって聞かれても困る。このまま、みんなとの距離が広がって、箱根学園を卒業したときにはみんなと離ればなれになっちゃうんじゃないかって思って……。

「私には見つかりそうにないよ……」

 自分の足元をじっと見つめる。
 せめて、荒北くんが「洋南大に来いよ」って言ってくれたら楽なのに。でも、まっすぐな荒北くんは逃げの選択を許してくれないだろう。私も楽だって思うけれどそれは嫌だ。今の悩みから目を背ける結果になる。
 荒北くんの誕生日に桜通りを一緒に歩いた夜。彼は大学に入ったら自転車に乗るかわからないって言ってたけれど、きっとまた自転車に乗るのだろう。そこで彼にふさわしい女の子が現れて……荒北くんも、私の手の届かないところに消えてしまって。なにも見えない未来に、ひどく不安になる。
 後ろ向きな妄想が広がると、ぎゅっと腕をつかまれた感触に我に返る。

「それはが気づかないだけだ。ちゃんと周りを見りゃ、案外簡単に見つかる」
「でも……もしそれが、本当は自分に合わないことだとしたら?」

 小さい頃の夢を大人になるまで持っていて、その職業に就いた途端理想と現実の差に打ちのめされるのはよくある話だ。自分自身で決めた道に、後になって後悔することもあるかもしれない。

「そん時はオレが骨を拾ってやるよ。言っただろ? 離さないって。だからお前はなにも心配するな。今はただ、やみくもに走れ」

 荒北くんが背中に回りこみ、力強く背中を押す。
 私は荒北くんの言葉を信じて、この先なにがあるかわからない、延々と続くアスファルトの上を走った。


 昨日は不思議な夢を見た。目が覚めた時には夢だったんだってちょっとがっかりしたけれど、夢の中の荒北くんに励まされて元気が出た。
 まだ焦る気持ちはあるけれど、これから周囲のことに目をこらして自分のやりたいことを見つけていこう。もし、それがなかなか見つからなくても、後から自分に合わないことだって気づいたとしても。荒北くんが隣にいるからきっと大丈夫。
 まずは目の前のことを頑張ろう。そう思い、今日の部活を頑張ろうと思った矢先――

「荒北さん。あなたは自転車のコントロール力は部の中で一番ですが、他のメンバーに比べて筋力が劣っています」

 織田くんが眼鏡のブリッジをくいっと押し上げて、一周走り終えたばかりの荒北くんに言った。雲行きが怪しくなるのを感じて、冷や汗をかきながら二人の会話を見守る。

「悪かったな。どうせオレは泉田みたいにムキムキじゃねーよ」
「そこでです。ボクが作ったパワーバーを食べてみてください」

 織田くんが紙皿に載せた手作りのパワーバーをずいっと荒北くんに差し出す。

「いらねーよ。自転車乗ってないときに食うなんて新開じゃあるまいし」
「レース中になにかあったら困りますし、今回は通常時に試食してもらいたいんです。さぁ、食べてみてください」

 さらにずいっと紙皿が差し出される。荒北くんは面倒くさそうに目を眇めて、

「わーったよ! 食べりゃあいいんだろ食べりゃあ!」

 パワーバーの端をつかんで、一気に半分を口に入れて咀嚼する。二、三回かんだ時に荒北くんの表情が変わり――

「!!?」

 声にならない悲鳴を上げて、どさっと地面に倒れた。

「荒北くんっ!?」

 すぐに荒北くんの近くに駆けつけ、彼の体を揺さぶる。気絶しているのか小さいうめき声すら聞こえなかった。

「織田くん……。そのパワーバーになにが入っているの……?」
「これには、牛肉、エビ、イカ、サバ、そば……筋肉増強に効果のある様々な食べ物を粉末状にした物が、普通のパワーバーの材料と一緒に入っているんです」
「味見したの?」
「いいえ。これ一個作るのも一苦労なので味見はしていません。それに、まずかったとしても良薬は口に苦しって言うじゃないですか」

 本日二度目のメガネくいっをして自信満々に語る織田くん。純粋に語っているあたり悪気はなさそうだ。

「えっと……織田くんの目的は自転車部の偵察でしょ? わざわざこんなことしなくても……」
「本来の目的は忘れていませんが、自転車部のマネージャーになった以上、部員のマネジメントをする義務があります。ボクはボクのできる範囲で仕事をしながら、部活の中で無駄なことはないかチェックしているんです」

 織田くんがバッグの中をがさごそと漁り、たくさんのパワーバーが入った袋と紙皿の束を取り出した。パワーバーの中にはさっき荒北くんが食べた普通(に見える)のバーから、なにを混ぜたのかわからない黒や赤のバーまで入っている。

さん、これからしばらくマネージャーの仕事一人でお願いします。ボクは今から福富主将にこのパワーバーを食べてもらいますので」
「まっ、待って! そんなことしたら福富くんが」

 倒れちゃう!!
 作った本人を目の前にして正直なことが言えず、言いかけのまま口をつぐむ。

「じゃあ、もったいないのでこのパワーバー全部食べてください」

 パワーバーがたくさん入った袋を突きつけられる。

「……ちなみに、福富くんが食べる予定のってどのパワーバー?」
「手前にある黒いパワーバーです。このパワーバーには黒ごまやのりや」
「わかった。とりあえず福富くんに見せるだけならいいと思うよ……」

 その日、福富くんと東堂くん、新開くん……全ての部員や監督までもが被害に遭い、部活は前代未聞の中止となった。


「はぁ……」
「はぁ……」

 放課後、校舎近くの階段の段差にて、私の発したため息と同時にもう一人分のため息が聞こえた。
 横を見ると、制服姿の東堂くんがいた。東堂くんは私に気づくと、

「どうしたんだいちゃん。悩み事ならこの山神に相談したまえ」
「実は……織田くんのことで悩んでて……」
「あぁ……。仕事ができるヤツだと思っていたら、まさかの料理下手とはな。その上自覚なしだから困ったものだ……」

 この前のパワーバー事件を思い出したのか、東堂くんが身震いをする。
 事件の次の日、織田くんは懲りもせず手作りパワーバーを持ってきた。「慣れれば大丈夫です」と福富くんたちに差し出すところをあの手この手を使って回避し……その日は一日中大変だったなぁ。

「織田くんのことはさておき……東堂くんはなにで悩んでいるの?」
「真波のことについてだ。遅刻は絶えないし、レース前には寝てるし……登坂以外において全くやる気がない!」

 そういえば昨日荒北くんも似たようなことをぼやいていた。時々荒北くんも、部活の練習には手を抜くようになったし、人のことは言えないと思うのだけれど……。彼の目から見ても真波くんは問題児らしい。「オレ、これからアイツのこと不思議チャンって呼ぶわ」とも言ってたっけ。

「やる気がない奴は放っておけばいいと思うのだが……同じクライマーだと思うと、どうしても気になってな」
「部活サボってなにやってンだよ、オメェら」

 東堂くんとの会話に突然の第三者の声。上から降ってきた声に顔を上げるとジャージ姿の荒北くんが目を眇めて立っていた。

「真波の話をしていたのだ」
「あぁ……不思議チャンか」

 荒北くんが私の隣に座る。

「そういえばちゃんは、真波と足利峠を登った時に翼が見えたと言っていたな?」
「翼ァ?」
「うん。足利峠を登り切った日、真波くんが私を引いてくれた時に大きな翼が見えたんだけど……」
「ハンガーノックで幻覚でも見たんだろうよ。オレ、アイツの走るところ何度か見たけどなにも見えなかったぞ」

 東堂くんがニヤリと笑う。

「それはあれだ。心の穢れている者には、その翼は見えないのだよ」
「ハァッッ!?」
「えっ!?」

 東堂くんの言葉に、荒北くんと二人で同時に驚く。

「そういうオマエは見たことあんのかよっ」
「あぁ、もちろん!」

 自信満々に答える東堂くん。東堂くんからそんな話聞いたことないけど本当かなぁ。

「荒北には見えなかったのだなぁ。ふふふ、かわいそうに」

 荒北くんを見ると、信じられないといったような顔で肩をぷるぷると震わせている。

「あーあー! どうせオレは心が穢れてるっつーのっ! フンッッ!!」

 怒ってずかずかと部室のある方角に去っていってしまった。

「……東堂くん。真波くんの翼見たことあるって本当……?」
「そんなの嘘に決まっているではないか! ワッハッハ!!」
「…………」