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 現代文の授業中、先生に気づかれないように少しだけ後ろを振り返る。
 二年の時から変わらず、私の後ろは荒北くんの席だ。授業中時々寝息が聞こえる席は今は空席で、これで三日目になる。……荒北くん、大丈夫かな。
 荒北くんは今日は風邪でお休みだ。休みの前、荒北くんと最後に話をしたのが「あのこと」だったから余計に気になる。私も荒北くんも悪いことを言ったわけじゃないけれど、後味の悪い話の終わり方だったからだ。
 お見舞いに行ければいいんだけど……。あいにく荒北くんは男子寮に住んでいて、異性の私が入れる場所じゃない。お見舞いには行けないし、歯がゆい気持ちで日々を過ごすことしかできない。
 今も風邪でつらそうにしているのかな……。荒北くんの席から窓の外に視線を移し、ゆっくりと流れる雲をぼんやりと見つめた。


「納得いかねェッッ!!」

 四日前、パイプ椅子に座った荒北くんが腕を組み、天井を仰いで言った。
 ついさっきまでインハイメンバー最後の六人目を決める会議が行われ、そこに福富くん、荒北くん、東堂くん、新開くん、そして私の五人が参加していた。
 選抜レース決勝で黒田くんに勝ち、見事優勝した真波くん。真波くんを最後の六人目のメンバーにするということに私を含めみんなが賛成するものの、荒北くん一人だけが反対していた。

「……。お前も真波を推すのか」

 ふたりきりの会議室。荒北くんは眉根を寄せて私に聞いた。

「黒田くんに勝ったのなら、インハイに出る実力が伴っている証拠だと思うよ」

 黒田くんは実力があるクライマーだ。荒北くんは真波くんが勝ったのはたまたまだって言うけれど、私にはそう思えない。運がいいだけでは優勝はできない。多くのレースを見てきた私にとって、それは絶対とも言えることだった。
 私の言葉に、荒北くんの眉根がさらに寄る。

「よく考えろ。インハイメンバーの貴重な一枠。その一枠がレースの勝敗を大きく左右するんだぞ。大して経験もないアイツに……お前は自分の夢を託せるのか」

 真剣に尋ねる荒北くんに、もう一度自分に問いかける。
 みんなが待ち望んだ、年に一度の大会の結果を大きく左右する貴重な一人。その中に真波くんを選ぶということ。
 たしかに荒北くんが言いたいこともわかる。荒北くんや、他のみんなはインハイ出場を目指して日々大変な練習をこなしている。現に荒北くんは一年の頃に自転車を始めて、地道な努力を重ねてようやくここまで来た。なのにそれを、レースの参加経験もないし、実力がはっきりとわからない真波くんをインハイメンバーにするというのだ。反対するのも無理はない。
 それでも私は真波くんのことを応援したい。かつて足利峠の登坂で真波くんは大きく広がる翼を見せてくれた。あの背中を見たら、インハイの大事な場面になったとき、大役を果たしてくれそうな……そんな気がするのだ。

「託せるよ。山岳ステージに入ったとき、真波くんは他の誰にも負けないと思う」

 荒北くんと視線が交わる。しばらくして、荒北くんが先に目をそらした。

「……買いかぶりすぎだ」

 荒北くんが席を立つ。

「なんか寒気がするから今日は帰る。自主練はまた今度な」
「う、うん……」

 微妙な空気の中、荒北くんが先に部屋を出て、一人ぽつんと取り残されてしまった。


 部活前、荒北くんは今日も風邪で休みだということを伝えると、福富くんはわずかに眉根を寄せた。隣にいた東堂くんはあきれた顔をしている。

「またか」
「うん……」
「いっつも炭酸飲料やら肉やら食ってばかりいるからだ。そんなんじゃ風邪の免疫がつかないのはもちろん……」

 話を遮るように携帯の着信音が鳴った。発信源は東堂くんのポケットだ。

「はっ、巻ちゃんから電話だっ! もしもし、巻ちゃん!」

 邪魔にならない位置に移動する東堂くんの背中を見送って、福富くんを見る。いつの間にか福富くんは腕を組んで考え事をしていた。荒北くんのこと、心配なのかな。

「心配?」
「いや、オレが考えているのは違うことだ。……。お前が見舞いに行けば、荒北は喜ぶかもしれん」
「えっ」

 いきなりどうしたんだろう福富くんは。

「問題は寮だが、寮長の許可を取ればお前も中に入れるだろう」
「ちょ、ちょっと待って!」

 私が止める前に福富くんは背を向けて携帯を取り出し、寮長らしき人に電話をする。二、三言言っただけですぐに電話が終わり、私に視線を戻した。

「寮長の許可はもらった。突然ですまないが、今から荒北の見舞いに行ってきてくれ」
「ほ、本当に待って福富くんっ! いきなりそんなことを言われても……!」

 福富くんのオーダーは好きな男の子の家に今すぐ行ってこいと言ってるようなものだ! 心の準備もできていないのに急にそんなことを言われても困る……!
 福富くんはぽっと顔を赤らめて、

「荒北はまっすぐなヤツだ。その、最悪の事態にはならないと思うが……もし襲われそうになったりしたら、大声でオレの名前を呼べ」
「…………はい」

 変な気を遣った幼なじみのせいで、荒北くんの部屋に行くことになってしまった……。


 なんだかんだで荒北くんの部屋の前に来てしまった。ここに来る前に、学校の近くのコンビニに寄ってレトルトのおかゆやスポーツドリンク、風邪にいい物を買ってきた。あとは部屋のドアをノックするのみだ。
 部屋のドアに手の甲を当てようとすると、

「あの鉄仮面ッッ! いきなり電話したかと思えばがここに来るだぁぁ!? オレの部屋の散らかり具合知ってんだろっ! 急いで片付けるハメになったじゃナァイ!」

 部屋の中から荒北くんの怒声とドタバタとした物音が聞こえてきた。部屋のあっちこっちに行ってはどこかに物をしまっているような、そんな物音。手をひっこめて、ドアに背をつけて待つ。しばらくして静かになったところで、一息ついてドアをノックした。

「どうぞォ」
「……失礼します」

 ドアを開けて中に入ると、ミニテーブルの先にあるクッションの上にちょこんと座っている荒北くん。今すぐ外に連れ出しても平気な格好の私服を着ている。荒北くんはわざとらしく、

「なんで来たんだヨ」
「流れでつい……。私もここに来るとは思わなかったんだけど、福富くんが話を聞いてくれなくて、いつの間にかこうなっちゃって……」
「なんだそりゃ。っていうかオレ、風邪ひいてるンだけど。うつっぞ」
「その時はその時だよ。私に風邪がうつったことで荒北くんが治るんだったらそれでいいし」
「あっそう……」
「…………」
「…………」
「……茶、飲む?」
「飲む……」

 荒北くんはどこからか用意した紙コップを二人分並べて、ペットボトルのお茶を注いでいく。
 ……いまさらだけど緊張してきた。荒北くんの部屋に入るのは今回が初めてで、胸に手を当てなくてもわかるくらい心臓がドキドキしている。
 こっそり周囲を見渡す。荒北くんの部屋は一言で言えば簡素だ。部屋の中にあるのは本棚、ベッド、勉強机と今私と荒北くんの間を挟んでいる折りたたみ式のミニテーブルのみ。男子寮の部屋ってみんなこういうものなのかな。右にはクローゼットがある。おそらく荒北くんはさっきここに物をしまっていたのだろう。
 シンプルだけど、まっすぐな荒北くんらしいお部屋。……意識したら心臓の鼓動が早くなってきた。

「いい部屋だね」
「そ、そォ?」
「うん。男の子の部屋に入ったのは福富くん以来だけど、荒北くんらしい部屋だと思うよ。たしか、福富くんの部屋は自転車のポスターが貼ってあって……」

 ここで私は自分の過ちにようやく気がついた。
 緊張のあまり、ぽろっと幼なじみの部屋に入ったことを言ってしまった。荒北くんはというと……無表情を貫いているつもりみたいだけど、表情がこわばっている。あぁ、どうやって修復しよう……!

「……そうだよな。と福チャンは幼なじみなんだし、オレが初めてってワケじゃないよな……」
「まっ、待って! 最後に福富くんの部屋に入ったのは小学生の時でっ!」
「福チャンがうらやましい。オレも幼なじみになりたかった」

 荒北くんがすっかり弱気になり、クッションの上で体育座りをする。
 どうしようもない状況に天井を仰ぐ。……福富くん。私がお見舞いに行ったら荒北くんが喜ぶって言ってくれたけれど……逆にぽろっと出た言葉で彼の心を傷つけてしまいました……。

「あの、荒北くん」
「飲み物切れたしベプシ買ってくる。……あ、部屋の中絶対にジロジロ見んなよっ」

 私が買ってこようかと言う前に荒北くんは立ち上がり、部屋を出ていってしまった。
 ドアの閉まる音がして、部屋に一人取り残される。