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 部室の長椅子に座って待っていると、更衣室から制服に着替えた荒北くんが出てきた。

「これで、自主練も終わりなんだな」

 感慨深そうに、部室をくるりと見渡す荒北くん。

「ここまですっげぇ長かった。地に足つけてる時間よりも、自転車に乗っている時間の方が長かった気がする」

 荒北くんの言葉に笑みがこぼれる。
 荒北くんは笑って言ったけれど、インハイに出るために彼は毎日一人で練習をしていた。そんな彼に、長い時間過ごした部室はとてもまぶしいものに見えるのだろう。
 振り返った荒北くんと目が合う。荒北くんは微笑して、

「ありがとな、。お前がいたからここまで来れた」
「私はなにもやってないよ。荒北くん一人の力」
「んなこたぁねェよ。オレは――」

 荒北くんと視線がぶつかる。先に視線をそらしたのは荒北くんだ。

「……なんでもない」

 全てはインハイが終わってからだ。それまで、胸にこみ上げてきた気持ちにはわざと気づかないフリをする。

「そんな頑張り屋さんの荒北くんにこれをあげるよ」

 おどけるように言いながら、ポケットの中をまさぐる。……あったあった。ここで忘れてきたらシャレにならない。

「なんだよ」
「手、出して」

 不思議そうな顔をして手を差し出した荒北くんに、小さな紙の袋を渡す。

「……中、見てもいいか?」
「いいよ」

 袋を開けて、取り出した物はお守り。箱根神社で買ったもので、青い生地の上には「安全祈願」と書かれている。

「遅くなっちゃったけれど誕生日プレゼント。インハイではいつなにが起こるかわからないから、荒北くんにはそれを持っていてほしいなぁ、なんて……」

 大きな事故やトラブルに巻き込まれることなく。荒北くんの見たかった景色が見れるように、頂点にたどり着くように。願いをこめて買った物だ。
 荒北くんの性格を考えたら、喜んでもらえるかどうかわからない。でも、レース中私はそばにいられないから、一時だけでもそれを持っていてほしかった。
 荒北くんはお守りを見つめたまま、なにも言わない。

「……やっぱり、こういうの嫌いだよね。ゴメン、返して」

 手を伸ばしてお守りを取ろうとすると、荒北くんが手を引っ込める。

が一生懸命考えて選んだ物なんだ。うれしくないわけないだろ」

 ぶっきらぼうに言った荒北くんの目が、一瞬だけきらりと光ったような。涙で目が潤んでいる、そんな光り方だった。

「ありがとう。絶対大切にする」

 よかった、プレゼントは気に入ってくれたようだ。

「……じゃ、そろそろ部室を出るか」

 お守りをしまい、荒北くんが先に部室を出る。荒北くんの背中を追いかける前に、部室のドアの前に立って、さっき彼がやっていたように部室全体を見渡す。
 ここでたくさんの時間を過ごしてきた。毎日一生懸命練習をする部員のサポートをしたり、夜には荒北くんの自主練習を手伝ったり。時々行われるミーティングで、みんなと集まって話し合ったり、時にはふざけあったり……。
 引退後もここに来る機会はいくらでもあるかもしれないけれど、今日でこの場所とはお別れだ。
 誰もいない部室に向かって深く頭を下げる。――今まで、お世話になりました。卒業式のように感慨深い気持ちで頭を上げて電気を消し、部室を後にする。
 部室を出ると、空には満天の星が輝いていた。
 空を見上げていた荒北くんが体を翻す。私に向かって拳を突き出し、

「インハイ、絶対勝ちに行くぞ」
「……うん!」

 荒北くんの拳に、自分の拳をコツンと合わせた。

「おーい、荒北ー!」
「げっ、あの声は……!」

 遠くからすごく聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声の主をはっきりと悟った荒北くんがげんなりとした顔をする。
 こちらに向かって走ってくるのは東堂くんと福富くんと新開くんの三人。ちなみにさっき荒北くんの名前を呼んだのは東堂くんだ。

「まさか、お前たちがここにいたとはな!」
「べ、別にオレたちはなにもしてねェよ。た、たまたま、忘れ物を取りに行ったらと会ったんだ」
「ん? じっとしていられなくて来たんじゃないのか?」
「……あん?」

 東堂くんの言葉に、荒北くんと同時に疑問符を浮かべる。
 東堂くんの後ろにいた福富くんが前に出てくる。

「明日は待ちに待ったインターハイだ。落ち着かないのはお前たちだけではない」

 ……そっか。福富くんたち、そわそわしてここまで来たんだ。福富くんの一言で全てを理解する。
 パワーバーをくわえた新開くんが部室を指さす。

「ここまで来ちゃったけど、みんなでどう? ローラーに乗ってく?」
「いやいやいや。明日のために足は温存せねば。それは却下だ」
「じゃあ、を送るか」

 福富くんの提案に、みんなが一斉に私を見る。
 本当はインハイ前だしみんなに迷惑をかけたくないのだけれど……

「……お願いします」

 この空気に断ることもできず、お言葉に甘えることにした。


「というわけで、オレはこのレースをきっかけに自転車を始めたのだ!」

 五人で自転車に出会ったきっかけを話しながら、私の家までの道のりを歩く。
 福富くんや新開くんが自転車を始めたきっかけは前に聞いたことがあるから、聞いた話を思い出しながらもう一度聞く形になった。その分、東堂くんの話は新鮮味があっておもしろかった。

「靖友はどうして自転車を始めたんだ?」

 新開くんが荒北くんに話を振る。

「オレは……」

 みんなの視線が荒北くんに集う。前にも聞いたことある話だけど、荒北くんがどうやって語るのか気になる。

「……一年の頃、福チャンに会って自転車を始めた。そんだけ」
「それだけではわからないではないかっ」
「るっせ! テメーみてーにペラペラペラペラ喋る必要があんのかよっ!」
「なーっ! ……それにしても、お前はすぐに部活を辞めると思っていたのだがな。不思議と続くものだな!」

 東堂くんの言葉に、荒北くんがジト目になる。喧嘩が始まりそうな空気を和ますように新開くんが割って入り、

「まさか、性格が全然違うオレたちが一緒にインハイに出ることになるなんてな。一年の頃は全く思いもしなかった」

 それに福富くんがうなずき、

「あぁ。……そして、がこの学校に来てくれてよかった」

 みんながぴたりと足を止めて、私を見る。

「あぁ。ちゃんのサポートがなければ部活は大変だった」
には随分と助けられたよ。マネージャーに誘ってよかった」
「……感謝してる」

 ぶっきらぼうに言った荒北くんの頬は、夜の闇でもなんとなくわかるくらいに朱に染まっていた。
 みんなの言葉がうれしくて、視界が涙でにじむ。

「……そうだ。賞を獲ったら花束全部にあげないか?」
「いいな、それ! オレが持っていても絵になるが、こういうのは女子に持ってもらった方が一番だからな!」
「どうだ、?」
「……そうだね。せっかくだから、乗っちゃおうかな」
「ならなおさら負けられねーな、明日」

 ボリボリと頭をかいた荒北くんを先頭に、再び私の家に向かう。
 話に夢中になってて気づかなかったけれど、私の家は目の前だった。玄関のドアの鍵を開けて、後ろにいるみんなに振り返る。

「じゃあなちゃん! ちゃんと歯を磨いて寝るのだぞ!」
「尽八、お袋みたい」
「今日はゆっくり休め」
「おやすみ」
「うん、おやすみなさい」

 みんなにまとめてあいさつをして家の中に入る。
 リビングの窓越しから寮に向かって歩くみんなの背中を見送って、最後に空を仰ぐ。
 明日にはこの箱根でインハイが行われる。インターハイで箱根学園が優勝できますように。荒北くんの見たかった景色が見られますように。もうすぐ満月になりそうな月を見上げて、心の底から強く願った。