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遠くから自転車の車輪の音が聞こえる。ボトルを握る手に汗がにじんで、服の裾で手の汗を拭う。
さっき、織田くんからの連絡で、山岳リザルトを獲ったのは東堂くんだという話を聞いた。今日はあくまでもトレーニングレースだけど、山神と名乗るだけあってやっぱり東堂くんは強い。東堂くんにかなう人なんて総北高校の巻島くんくらいだ。
だんだん、車輪の音が近づいてくる。
ここでボトルを落としたら、後で彼にガミガミ言われるだろう。いつもどおりにやればいいと自分に言い聞かせてボトルを握る。
「来た! 先頭はインハイ組だ!」
給水組の一人が声を上げる。
先頭を走っているのは真波くん。その後ろには、荒北くん、福富くん、新開くん、泉田くん、東堂くん――箱根学園インハイ組の姿があった。
「!」
荒北くんが、私に向かって手を伸ばす。
「頑張って!」
「っせ!」
一瞬の間に短い言葉を交わしてボトルを渡す。ボトルは地面に落ちることなく荒北くんの手に渡り、彼は一口飲んだ後ボトルゲージに差した。
続いて後方に見えたのは、OB組と一・二年生混合組。給水係からボトルを受け取り、インハイ組を追って走る。
風圧がなくなった後、車のクラクションの音が鳴った。急いで車に乗り込み、後部座席に座る。
「さっきの山岳リザルト、真波活躍せずですか……。もう少しデータが欲しかったのに」
ノートパソコンを膝に置いて、キーボードを打ちながら独りごちる織田くん。シートベルトをすると車が動き出した。
車を運転しているのはOBの先輩だ。助手席には監督が座り、腕を組んでレースの行く末を見ている。
ここから先はスプリントリザルトがある長い平坦道だ。先ほどの山岳リザルトは東堂くんが勝利を制したけれど、次に勝つのはインハイ組か、それとも他の組か。
近道をして、先頭集団の前を走る。ドアについているボタンを押して窓を開けると、涼しい風が車内に入ってきた。
今インハイ組のみんなを引いているのは泉田くんだ。一番後ろにいた新開くんが前に出て、片手で顔を覆う。
「知ってるかい? 箱根の直線に、鬼が出るってうわさ……」
車の音でかき消されて声はよく聞こえないけれど、いつものように新開くんはそう言ったのだろう。
後ろから迫ってきたOB組との距離を引き離して、鬼の形相でペダルを踏み、走る!
「新開さん絶好調ですね。とても二年の時に休部していたとは思えない走りっぷりです」
「ここまで来るのに結構頑張ったから。新開くんは誰にも負けないよ」
隣でキーボードを打つ織田くんと言葉を交わしてレースの様子を見守る。
スプリントリザルトのラインを一番に通過したのは新開くんだ。
「……いよいよ、最後だな」
監督の言葉に息を呑む。
インハイ組の中から、荒北くんと福富くんの二人が飛び出す。前を走るのは荒北くん。荒北くんの後ろには福富くんが走り、四人になった集団を引き離していく。
「あっ、あれっ……!」
遠くに見えた二人組に、私は目を疑った。
劣勢だと思っていた混合組から、二人の選手がインハイ組に近づいてきた。泉田くんがアタックを潰そうとするものの、タイミングがずれて混合組に前方を譲ってしまった。
はたしてあの二人組に戦況がひっくり返されてしまうのだろうか? でも――
一番前を走っている荒北くんを見やる。一瞬、荒北くんと目が合った。荒北くんは気づかないふりをして、キッと前を見据えた。
「臭う、臭うぜ……。ゴールの臭いだァァァ!!」
荒北くんがすばやくギアを変えてコースの内側を走る。
最初の頃はいつか大怪我をしてしまうんじゃないかと思ったほどにひやひやさせられた走り。だが、その走りこそが誰よりも速くエースをゴールに導くことができる。
直角型のコーナーに差し掛かった時、荒北くんは車体を傾けてコースを曲がる。
一歩間違えれば落車してもおかしくないコーナー曲がり。今まで影で必死に練習を積み重ねてきた荒北くんにとっては、このくらい造作もないことだ。
「いっけェ福チャンッッ!!」
前に出た福富くんを、荒北くんが背中を押す。
福富くんはみるみるうちに混合組二人を引き離し、重戦車のごとき走りを見せる。
「オレは強い!!」
福富くんの威嚇に、混合組の一人の顔が真っ青になる。
一人は諦めまいと前に出て、福富くんとゴール争いをするが――
「一位で通過したのは福富さん! 申し分のない勝利です!!」
ゴールの瞬間を目にした織田くんが叫ぶ。ルームミラーに映った監督の顔は満足そうに笑っている。これなら、インハイで優勝は間違いないだろう。
トレーニングレースが終わった後は、立派なホテルの一室に集まって激励会が行われた。この会に参加できるのはインハイに出場する選手と大人の関係者だけだ。そのため、去年は参加しなかったのだが、今回は人数に余裕があるということで、織田くんと一緒に特別にお邪魔させてもらった。
「食べてるかい、」
「新開くん」
新開くんが片手に持っている皿には、ピラフやフライドポテトがてんこ盛りに乗っかっている。
「ジャージ姿でこういうのって、なんだか妙な気分だよな」
今新開くんが着ているのはサイクルジャージ。普段自転車に乗っている格好でパーティって、なんだか変なカンジだ。織田くんの話によると、激励会の後マスコミからの取材の予定があるということ。この会場には部費を援助してくれるスポンサーの人たちもいるし、なんだか大人の世界に迷い込んだみたいだ。
「そういえば車から見たよ。新開くんの走り、すごかった」
「ありがとう。結局左は抜けないままだけど、なんとかなるかな」
「大丈夫だよ。左が抜けなければ右を抜けばいいって福富くん言ってたもん」
「そうだな」
新開くんと二人で笑い合う。持っていたジンジャーエールを一口飲むと、大テーブルの近くにいた泉田くんがこちらに向かって手を振った。
「新開さーん! ここに新開さんの好きなチョコバナナがありますよー!」
「お、それは行かなきゃ。じゃあ。また後で」
「うん」
ひらひらと手を振って、楽しそうなみんなを見やる。
「なんでこんなパーティにチョコバナナがあるんだよ」
「さぁ……」
唐揚げたっぷりの皿を手に持った荒北くんが、私の隣に並ぶ。
「もうこれで練習終わりなんだね」
今日のトレーニングレースで練習はひとまず休みとなる。三年にとって今日は最後の練習日で、明後日にはインハイ、その後には引退という未来が待ち受けている。
荒北くんの横顔を見ると、なにか言いたげな表情。
「どうしたの?」
「……まだ、終わってないんだけど」
「えっ? まだ練習あったっけ?」
「オレの自主練」
「ご、ごめん! つい終わった気になってた!」
「ま、昨日で終わりでもよかったんだけどよ。最後までやりたいから明日の夜部室に行く。お前は――」
「水臭いこと言わないでよ。私も、最後まで付き合う」
「……サンキュ」
前を見ると、手作りパワーバーを持った織田くんが福富くんに迫っている。
「早く止めなきゃ!」
「あのバカッ、インハイ前に福チャンが腹壊したらどうするんだよっ」
荒北くんと一緒に、二人のもとに駆けつける。……ふと、こういうことをするのも最後なのだと思うと、まぶたの裏側がじんわりと熱くなった。