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 あの時のことは、今でもはっきりと覚えている。

『でもオレは、もう一度どこまで行けるかを試してみたい。そうして、ここまで来た……』

 去年の合宿の夜、荒北くんは夜空を見上げながら小さな夢を明かしてくれた。
 普段ぶっきらぼうな彼が見せた、きらきらとした瞳。本当にかなえたいのだと訴えるような優しい声色。
 そんな彼の夢をかなえたくて、私は荒北くんの力になることを決めた。
 もしかしたらこの時から――私は、荒北くんに惹かれ始めていたのかもしれない。


 ここに来るまでに色んなことがあった。

『あぁ。早く元気になれよ』

 私が風邪をひいた時、色々と面倒を見てくれたり、

『……お前はさ、誰かとケンカ別れしたことってあるか?』

 お祭りの夜、罪悪感に押しつぶされそうな荒北くんの表情を見て胸が苦しくなったりした。

 月日が経つにつれて、私の中にある気持ちが変化していく。

『真面目に答えろ。お前、福チャンのこと好きなのか?』

 よく聞かれる質問に、彼の前ではムキになって答えて、

『バァカ! 違ェよ! 男のダチに決まってンだろ!!』

 何気ない質問に、彼は声を荒らげて大げさに否定した。


 どっちつかずの関係が心地よくて、このままでいいと思っていた時――大きな転機が訪れた。
 十月に行われたロードレース。レースの途中から天気はあいにくの雨。

「箱学が前にある平坦で落車したってよ! 係員に棄権を申し出たらしい」

 観客の一声を聞いて、私はその時一緒にいた女の子に謝り、急いで救護テントに向かった。

「荒北くんっ!」

 大雨の中、彼の背中が見えた。
 傘も持たずにうなだれたまま、救護テントに向かって歩いている。私に気づいていないのだろうか。もう一度彼の名前を呼んでみるけども反応はない。
 彼の前に回り込むと、

「……うっさい」

 濡れた前髪で隠れて、彼が今どんな目をしているのかはわからない。ただ、口元は苛立ちを無理やり抑えるようにこわばっていて、私はすぐに身を退いた。
 この後、愚かにも私は初めて気がついた。
 秋から荒北くんが悩んでいたスランプの原因。それは、私にあったのだ。


 荒北くんから距離を置こうとして、気持ちの整理ができなかった頃。私は、二人の男の子に助けられた。その中で私は、荒北くんと恋仲になれなくても、避けられても。変わらずに彼の夢を応援することに決めた。
 決意を新たに荒北くんに向き合った時だった。
 旧校舎の屋上から、一枚のフェンスが剥がれ落ちる――。
 荒北くんが怪我をするなんてダメだ。そんなことをしたら、今まで荒北くんが積み重ねてきたものが全部台無しになってしまう。
 ためらいもなく全力で地面を蹴る。
 私は、彼を守ることを選んだ。


 長い眠りからようやく目が覚めた時、初めて彼は涙を見せた。

『ワリィ! お前には……謝っても謝りきれないほどオレは……!』

 この時、荒北くんはもちろん、周囲にはひどい心配と迷惑をかけてしまった。
 でも、荒北くんに怪我がなくてよかった。足は痛いけれど……不思議と心は穏やかだった。

 足の治療に専念している間、周りの状況は少しずつ変化していく。
 中でも一番変わったのは荒北くんだった。

『オレ、ガキの頃から野球が好きでさ』

 サイクリングロードの夕日を見ながら私に過去を打ち明けてくれた荒北くん。
 ここに来る前に彼は、振り返らないと決めた過去にもう一度目を向けて。私と向き合うために大切なものを見つけた。
 バッテリーの南雲くん。野球部の顧問の先生や、部活仲間。中学生の時、全てに目を背けていた彼は気づかなかったけれど……孤独だと思い込んでいた彼は、本当は周りから愛されていた。
 その答えを得て、荒北くんは私と一緒にいることを選んだ。昔と同じ失敗をすることよりも、何ものにも代え難いものの存在に気づいたからだ。

 けれど、夢をかなえるには、必ずなにかが犠牲になる。

『ここまで来るのに、だいぶ時間がかかったけれど。オレは、お前のことが好きだ』
『今はと付き合うことはできない。見てのとおり、オレは来年のインハイを目指して自転車に乗っている。……正直、お前に割く時間がない』
『付き合うことはできないけど……オレ、もうお前を離さないって決めたから。インハイが終わった後も、この気持ちが絶対に変わらない自信がある。だから、事が全部終わったらオレはもう一度に告白する。その時、お前の返事をもう一度聞かせてくれ』

 誰かが聞いたら大げさだって笑うかもしれない。でも、彼がインハイに出るという夢を持っている以上、部活と恋愛の両立なんて甘いことは許されない。遊んでいる間にも、インハイに向けて必死に練習に励んでいる他校の選手がいるからだ。
 荒北くんの夢をかなえるために。約束を交わして、春を迎える。

 それからはあっという間だった。

『オレ、今日一日はといるって決めたから。いまさら予定変える気なんてないし』

 自分の誕生日に、私と過ごすって言ってくれたり、

『よく見つけたな。らしい選択だと思うぜ』

 やっと見つけた将来の夢に、笑って褒めてくれたり、

『不思議なモンだな。前はもう二度と、昔の自分を見たくないって思ってたのに』

 今では見ることのかなわない、昔の自分の写真を見せてくれたり。
 相変わらず不器用で、けれど自分なりのやり方で彼は隣にいてくれた。
 もし、荒北くんに出会わなかったら。私は、進路もなにもかも、見つからないことだらけだったかもしれない。そう思うと荒北くんには心の底から感謝している。

 長い長い部活の日々も、もうすぐ終わりがやってくる。
 時々、前に夢で見た野球少年のことを思い出す。

『野球ができなくなったらオレ……なにもなくなる……』

 あの時夢に敗れた少年が、時を越えて新しい夢にもう一度立ち向かおうとしている。
 ここまで全力で支えてきたけれど。レース中、私にできることは彼に補給品を渡すことと勝利を祈ることの二つしかない。
 気休めでもいい。彼が無事に、インターハイの最高の景色が見られますように。願いをこめてお守りを渡した。
 あとはマネージャーとしての役割を最後まで果たすだけだ。


 ――まぶしい光に目を開ける。
 乗っていたバスの窓に太陽の光が差し込む。長いトンネルを抜けて、外に出たようだ。

「海だ!」

 後ろの席の東堂くんが声を上げる。
 車窓の外を見ると、広大な大海原。空は透き通るように青く、天に昇る太陽がまぶしいほどの輝きを放っている。
 神奈川県藤沢市江ノ島。インターハイ一日目のスタートはこの美しい島から始まる。
 東堂くんにつられて、多くの部員が海に釘付けになる。

「はしゃぎすぎだっつーの」

 隣にいる荒北くんを見ると、そう言うわりには表情がほころんでいた。
 もう一度車窓を見る。真っ白な鳥が、江ノ島に向かって羽ばたいていた。