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 現地に着いた時には屋台や他校のテントが並び、お祭り騒ぎと化していた。ゴムとオイルが混じった独特の匂い。にぎやかな歓声の中にある、ピリピリとした空気。一年ぶりのインターハイの空気は新鮮に感じた。
 補給品をバスからワゴン車に運んでいると、車の物陰で誰かに電話している織田くんの姿が見えた。

「はあぁぁ!? 今、自転車でこっちに向かっている!? 全力で走れ、万が一レースに出場できなかったらボクは君を許さないからなっっ!!」

 いつもは冷静な織田くんが、珍しく声を荒らげて電話を切る。私に気がつくと眉間にしわを寄せて、

「たった今真波と連絡がつきました。レースには間に合いますが、開会式には遅刻するかもと」
「真波くん……」

 まさか、こんな日にまで遅刻するとは思わなかったよ……。インハイ当日でも変わらない真波くんの遅刻癖に、レース前なのにくらっとしそうになる。
 額に青筋を浮かべたまま監督に報告する織田くんを横目に、補給品の準備を続ける。

 ボトルがたくさん入っている箱を運んでいる最中、誰かとぶつかってしまった。

「す、すみません!」
「こっちこそすまないっショ。……あれ?」

 玉虫色の長い髪に、胸には「総北高校自転車競技部」と書かれた黄色のジャージ。ぶつかったのは総北の巻島くんだった。

「久しぶり! 最後に会ったのってえぇっと、私のお見舞いに来てくれた時だよね」
「あぁ。東堂から話は聞いてたけど、元気な様子を見て安心したっショ」
「今日は負けないからね」
「こっちもすごいヤツが部活に入ったんだ。箱学には負けないっショ」

 去年、福富くんと一緒に総北高校に行った時、そこで巻島くんとインハイでは互いに負けないと言い張った。私はレースに出場する側ではないけれど、今までみんなが練習を頑張る姿を何度もこの目で見てきた。……だから、今年も箱学は誰にも負けない。山頂リザルトでさえ、東堂くんが獲るって絶対に信じてる。
 巻島くんと笑い合い、その思いが今日も続いていることを確認する。
 ……東堂くんといえばそうだ。バスの中、自転車雑誌を見ていた彼がこんなことを言っていた。

「そういえば東堂くんが十月にあるレース出ようかなって言ってたよ。巻島くんは出るの?」
「オレは……」

 巻島くんの表情がこわばる。私、なにか変なこと言ったかな?

「巻島くん?」
「……あのさ、。オレ……九月からイギリスに」
さーん! 救急箱ってどこにありましたっけー?」

 話を遮ったのは黒田くんの声。遠くから手を振って困った顔をしている。言いかけの言葉を呑み、苦笑する巻島くん。

「行ってこい。今は先のレースよりもインハイっショ」
「……うん」

 腑に落ちないまま黒田くんのもとに行く。巻島くんの言葉が引っかかって離れなかったけれど、準備が忙しくなるにつれて気になっていたことは霧散してしまった。

 ◆

「靖友ー!」

 荒北が振り返ると、彼を呼び止めたのは中学時代野球部でバッテリーを組んでいた南雲だった。手を振って荒北のもとに駆けつける。

「本当に見に来やがった……。暇なヤツ」
「えへへ。野球部の奴らも見に来てるんだ。自転車で走る靖友が一目見たいって」
「言っとくけど、レース中声かけてもなにも返せねーからな。こっちは走るので精一杯なんだ」

「そんなこと知ってるよ」南雲が苦笑する。

「やっとこの日が来たんだね。応援しているよ、君が頂点を見られるように」

 穏やかに笑む南雲。「っせ」といつもの文句を言いそうになるが、ぎゅっと口をつぐむ。
 数年に渡った喧嘩から仲直りした後、南雲は荒北のことを温かく見守ってくれた。そんな彼には照れ隠しを抑えて言わなきゃいけない言葉がある。

「……ありがとう」

 たった五文字を言うだけなのに、つい頬が赤らんでしまった。素直になった旧友に南雲の顔がほころぶ。

「そうだ。一応頭に入れておいてほしいんだけど、京都伏見には気をつけた方がいいよ。すごい一年が入って、前よりも強くなったってうわさがある」
「ハッ。京都伏見ってたしか去年九位だった学校だろ。箱学の敵じゃねーよ」
「本当に気をつけて。油断していると、足をすくわれるよ」

 目つきが変わった南雲に、荒北は息を呑む。
 昔、南雲とバッテリーを組んでいた時。荒北が本当に耳を傾けなければいけない場面で南雲の眼光は鋭くなった。
 冷静に戦況を分析し、確実に勝利に導く南雲の忠言。南雲が言うのならば本当に留意するべき相手だ。

「……気に留めとく」
「ゴール前で待ってるから!」

 体を翻し、歩きながら片手を上げる荒北。今日のレースは絶対に無様なところは見せられない。

 ◆

 真波くんが来る前に開会式が始まってしまった……! 「なんだなんだ、箱学は五人で出場なのか?」「五人でも勝てる気がしねー」観客のささやき声に両手で顔を覆いたくなる。

「あ、真波!」

 まなじりを吊り上げた織田くんの先には真波くん。イルカのTシャツに短パン……一般参加者だと間違われてもおかしくないような格好をしている。

「おはようございます、せんぱ――」
「今すぐこれに着替えろっ!!」

 織田くんが真波くんのTシャツの上にサイクルジャージをすばやく着せる。下も着替えさせようと短パンを手でつかみ――

「ま、待って織田くんっ!! ここ外!! 私もいるっ!!」
「あーもうっ、恥かいて開会式出ろ!!」

 織田くんに強く背中を押されて真波くんがステージに走る。インハイ組五人と合流し、一緒にステージに上ることができた。
 福富くんの表情は変わらず、荒北くんと東堂くんはあきれ顔。新開くんはパワーバーをくわえていて、真波くんをちらちらと見つつ、緊張しているのがわかる泉田くん。
 ちょっとしたアクシデントがあったものの、みんながステージに立っているなんて感慨深い。隣にはデジタルカメラで写真を撮る織田くん。すっかり自転車部の一員になってしまった織田くんを微笑ましく思いながら、開会式を見る。

『来たんだね坂道くんっ!』

 司会からマイクを受け取った真波くんが言った。織田くんが「真波のヤツ、マイペースだな」とあきれている。
 苦笑しながらステージを見て、みんなの抱負を聞く。

『じゃあ、会場の人にも抱負を聞いてみましょう。こんにちは!』
『ちわ』
『高校はどちらですか?』
『京都伏見ですわ』

 あれ……? この声、どこかで聞いたことあるような……?
 司会に話を振られた男が壇上に上がる。手足の長い体躯に、ステージの下にあるデローザのバイク。あの独特の口調は間違いない!

『ハコガク、ぶっつぶしまーす』
「アズナさんっ!?」

 周囲にいた人たちが一斉に私を見る。すぐにアズナさん――御堂筋くんに視線が戻り、荒北くんだけが動揺したまま私と御堂筋くんを交互に見ている。

「京都伏見は去年インハイ九位の学校。もとは和気あいあいとしていたチームですが、今年は新入部員の一人をきっかけに雰囲気が一変したといううわさ。気をつけた方がいいかもしれません」
「御堂筋くん……」

 総北の男の子と口論をしてステージを去る御堂筋くん。まさか、こんな所で彼と再会することになるとは思わなかった。


「もうすぐレースだな。ここは伝統のあれをやろうじゃないか」

 開会式を終えた後、東堂くんが両手を広げる。それに眉根を寄せる荒北くん。

「あんなのやったって意味ねェよ」
「円陣を組むぞ」
「福チャンが言うならやってやんよ」
「し、新開さんの肩に触れてもいいでしょうか……?」
「いいぜ泉田。どんと組めよ」
「っていうか真波ィ! 円陣組むからさっさと起きろっ!!」
「ふぁ~い」

 荒北くんたちが円陣を組む。これから数分後に始まるインターハイ。指揮を執るのはもちろん福富くんだ。

「今日までオレたちは、血のにじむような練習を続けてきた。オレたちは一人一人がエースだ。誇りを胸に、三日間全勝するぞっ!」
「おうっ!!」

 鬨の声をあげて、円陣が終わる。力強い円陣に、学校を問わず周囲の視線が釘付けになっていた。


 レース開始五分前。スタートラインの一番近くに立つのは箱学六人。自転車に跨ってレース開始の時を待っている。後方には無数の選手。スタートを見守る観客とは別に、多くの人たちが閉口してピリピリとした雰囲気が伝わってくる。

さん」
「うん」

 織田くんとうなずき合い、ボトルや補給品を配る。最後にボトルを渡すのは荒北くん。気の利いた言葉をかけたいのに、頭の中には「頑張れ」という彼の嫌いな言葉しか浮かんでこない。

「……お守り、ちゃんと持ってっから」

 荒北くんのサイクルジャージのポケットがかすかに膨らんでいる。私があげたお守りはきっとそこに入っているのだろう。

「……うん。ゴールで私、待ってる」
「あぁ。福チャンをゴールに叩き込んだらすぐにオレも行く」

 不敵に笑う荒北くんに、大丈夫だと確信して離れる。

『まもなく、スタート開始一分前です』

 もうすぐ、インターハイが始まる。
 今そこに立っているみんなは、それぞれ大きな壁を乗り越えてここまで来た。だからきっと大丈夫。誰にも、絶対に負けない。
 箱学が三日間全勝できますように。荒北くんが大きな怪我をすることもなく、彼の満足する形で夢がかないますように。
 祈るように両手を組み合わせると、ピストルの音が響く。

『スタートです!!』

 籠から出た鳥のように、集団が一斉に飛び出す。――頑張れ、みんな。
 みんなの背中を見送って、すぐさまワゴン車に乗った。