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 車窓を開けると、強い風が車内に入ってきた。開いた車窓から先頭にいる三人を見やると、一番前を走っているのは泉田くん。その後ろを総北高校の田所くんと一年生の鳴子くんが走っている。

「今先頭を走っているのは泉田さんと総北高校のスプリンター二人。この勝負、勝ったも同然です」

 ノートパソコンのモニタに映った順位表を見ながら織田くんが言った。
 田所くんが大きく息を吸って肺を膨らませたり、鳴子くんがメットをかぶり直したりしているけども、今は泉田くんの優勢。総北高校がスピードを上げれば、泉田くんが二倍のスピードを出す。田所くんたちの顔には疲労の色がにじんでいて、このままいけば織田くんの言うとおりスプリントリザルトを手にするのは泉田くんだ。

「マッチョの兄ちゃん頑張れーっ!!」

 観客の声援の中に、聞き覚えのある声が聞こえた。あれはたしか……

さん、あれっ!!」

 織田くんに肩を叩かれて先頭を見る。するとそこには、強風であおられたコーンが……。行く手を阻むようにコースの中で転がり、泉田くんたちの前に立ちふさがる――!

「泉田くんっ!!」

 泉田くんが車体をわずかに傾け、コーンを回避する。
 田所くんたちは――

「前に突き進んだ!?」

 織田くんの言うとおり、総北の二人は無謀にも前に突き進んだ。コーンが田所くんの体や鳴子くんの顔に当たり、二人が痛みに顔をしかめる。
 しかしそれでも、彼らはペダルを緩めない。リザルトラインに向かってまっすぐにペダルを踏み続ける!
 振り返った泉田くんの顔色が蒼白に変わる。
 すぐに前に向き直りペダルを踏み込んだが、コーンの一件が勝負を分けた。

『ゴールッ!! スプリントリザルトは総北高校、田所迅っ!!』

 街頭スピーカーから司会の声が響く。
 田所くんの実力については新開くんから聞いたことがあるけれど、一年の鳴子くんのことについてはあまり知らない。まさか、初日から総北高校にリザルトを獲られるとは思わなかった。
 リザルトラインを越え、鳴子くんと笑い合う田所くん。離れた位置では泉田くんがジャージを開けて、風を肌に受けていた。

「泉田くーん!」
さん……」

 泉田くんの頬に、一滴の涙が流れる。

「まだレースは始まったばかりだよ! 気を取り直して行こう!」
「……はい!」

 車が加速し、泉田くんたちの姿が遠ざかっていく。

「泉田さん、大丈夫ですかね……」
「福富に次ぐ二年のインハイ出場者。負けたショックは大きいだろうよ」

 車を運転しているOBが言った。他校にファーストリザルトを獲られたことに、車に乗っていた給水組一同が静かになる。

「……塔一郎は必ず這い上がってきます。ここで折れるようなヤツだったらインハイメンバーにはなっていません」

 気まずい沈黙を引き裂いたのは黒田くんだった。

「そうだな。レースはまだ始まったばかりだ」
「次は東堂さんの出番だしな! 今度こそ総北には負けないぜ」

 黒田くんの一言をきっかけに、給水組の士気が高まる。……そうだ、レースはまだ始まったばかり。王者箱根学園がここで終わるわけがない――!
 車が徐々にスピードを落とし、一日目の給水所にたどり着く。
 車から降り、沿道に立ってサコッシュを片手に持つ。今日から三日間、私は荒北くんに補給品を渡す役割を務める。今までレースで何度かやったことがあるけれど、インハイの補給の受け渡しはミスが許されない大事な仕事だ。固唾を飲んで、静かにその時を待つ。
 やがて沿道の先から、客の歓声がかすかに聞こえてきた。

「――来るぞ!」

 給水組の一人が声を上げる。
 先頭にいるのは水色ジャージの選手。胸には「箱根学園」と書かれている。
 持っていたサコッシュを路上に向かってささげる。近づいてくるチームに、心拍数がどんどん増えていく。

「荒北くん!」

 荒北くんがサコッシュを受け取り、福富くんたちに続いて走る。
 荒北くんがサコッシュを受け取る時、力強い手応えに苛立っているのが伝わってきた。やはり初日の一番にリザルトを他校に取られたのは痛い。
 箱学の背中を見送っていたその時――後ろから大きな物音がした。

「集団落車だ! 手前のクランクでスピードを出しすぎた選手が落車!! それに巻き込まれて集団で落車が起きた!」
「三王学園大丈夫か!?」
「よかった……。オレたちのチームは巻き込まれなかった」

 真っ白になった頭に、ようやく血が巡ってくる。箱根学園は大丈夫だろうか……!?

「箱学、全員に補給は!?」
「問題ありません。全員、落車事故が起きる前に補給を受け取って先に行きました」

 織田くんが眼鏡のブリッジを押しながら言った。よかった、箱学は巻き込まれなかった……。こんな所で誰か一人でも欠けてしまえば、これから先のレースに勝機はない。

「……車に戻ろう」

 落車から立ち直った選手たちが走っていくのを横目に給水組を集める。全員に補給が行き渡ったことを再確認し、次にある給水所に向かうべく車に乗り込んだ。


 ゴール前、箱根学園テント。給水組やOBたちと一緒に、織田くんのノートパソコンをのぞきこんで山岳リザルトの結果が出るのを待っていた。

「山岳リザルトが出たぞ! 一位は――」
「箱学だぁぁああーっ!!」
「東堂くんっ!」
「やりましたっ」

 織田くんと二人で手を叩く。モニタに映っている二位には巻島くんの名前があった。僅差で勝ったということは、巻島くんと全力勝負した上での結果なのだろう。それがさらにうれしくて顔がほころんでしまう。
 今日、江ノ島に着いた時。東堂くんはこんなことを言っていた。

「青い空! 美しい海! 今日は絶好のレース日和だ!」

 バスから降りるやいなや、海に遊びに来たようなテンションで東堂くんが言った。今日は大舞台だというのに、東堂くんはいつもと変わらない。いや、いつにも増してハイテンションなような……。

「元気だね、東堂くん」
「あぁ、元気だ。今日の山岳リザルトでオレは巻ちゃんと勝負する。七勝七敗だった勝負に今日やっと決着がつくのだ! 元気にならないわけがない」
「七勝七敗かぁ。東堂くんって意外に負けてるんだね」
「悔しいことだが、だからこそ巻ちゃんをライバルと認めているのだ。無論、今日で終わりというわけではない。これから先も、オレはずっと巻ちゃんと山の頂点を賭けた勝負をする。これは終わりのない戦いだ」

 急になにかを思い出したのか、東堂くんの表情が変わり、

「そういえばちゃん、巻ちゃんの進路知ってるかい?」
「ううん、なにも」
「インハイが終わった後、十月のレースに誘うついでに聞いてみるか……。実業団に入るというのであれば、もっと勝負ができるのだが」

 顎に手を添えて卒業後のことを考える東堂くん。山を登らずにはいられない真波くんと姿が重なって、おもわず笑みがこぼれた。

「いいライバルを持ったね」

 私の言葉に東堂くんは、

「あぁ、最高のライバルだ!」

 太陽にも負けないくらい、まぶしい笑顔で答えてくれた。


 山岳リザルトの発表から興奮が落ち着いた頃、周囲を見渡す。テント内には十分にサポートにまわれる人数がいる。今日はテントにいなくても問題はないだろう。
 織田くんに後のことを任せ、テントを出て人の間を縫って歩く。ゴールラインから少し手前の沿道に立つと、

「あれ……さん?」
「南雲くん!?」

 偶然南雲くんとばったり会ってしまった。

「えっと、荒北くんの活躍見るならここじゃなくて手前のコーナーがいいと思うんですけど……」
「実はボク、ロードレースの知識は多少あるんだ。靖友がアシストした結果を見たくてあえてここにいるの。それに、敬語はいいよ。ボクたち、同じ歳でしょ?」
「それはわかってるんですけど……」

 荒北くんの男友達だと思うと、意識しすぎて敬語になってしまう……。南雲くんに慣れるまでは当分敬語になってしまいそうだ。

「あの……さん。前から言いたかったことがあるんだけど……靖友を守ってくれてありがとう。靖友から話は聞いてると思うけれど、ボク、中学の時から靖友とバッテリーを組んでて、彼の肘の故障に気づかなかったんだ。ボクはそれをずっと後悔してて……色々あって、アイツとは疎遠になってた。箱根学園で起きたフェンスの落下事故。さんが、身をていして靖友を庇ったって聞いた」

 去年の冬のことだ。荒北くんと話をしている最中、強風にあおられた旧校舎のフェンスが落下した。私は荒北くんを助け、その代償に数週間も入院する怪我を負った。

「もし、肘を壊して野球の夢を諦めた靖友がもう一度同じ目に遭ったら……それはすごく怖いことだから。だから靖友はいい人に巡り会えたなって思う」

 私にはもったいない言葉だ。むしろ、荒北くんにはたくさんのことを教わった。感謝するのは私の方だ。

「口が悪くてぶっきらぼうなヤツだけど、さんも知ってのとおり、仲間思いで優しい人なんだ。靖友のことをこれからもよろしくお願いします」

 南雲くんが私に向かって深く頭を下げる。

「……はい」

 力強い返事で、南雲くんの思いをしっかりと受け止める。
 荒北くんとはインハイが終わった後も一緒にいたいと思う。自分の過去を打ち明けてくれた冬の日――あれからだいぶ経ったけれど、私の心はもちろん変わっていない。

「先頭が来たぞ! 箱学と総北と……あともう一人は誰だっ!?」
「今日開会式で箱学にケンカ売ってただろっ。紫ジャージの――」
「京都伏見だ!!」

 道の先を見る。福富くん、総北高校の金城くん、そして――京都伏見の御堂筋くんの三人がゴール争いをしている。

「靖友、カバーしきれなかったのか!」
「御堂筋くんっ」

 まさか、総北が、御堂筋くんが、ここまで喰らいついてくるなんて……!

「福富くん頑張って!!」

 精一杯の声で福富くんにエールを送る。
 御堂筋くんを抜いて、福富くんと金城くんの両者が前に出る。御堂筋くんがペダルを踏み、福富くんたちに追いつく――!

『ゴ――ルッ!! 一日目の優勝者は――』

 肉眼では、三人同時にラインを踏んだように見えた。
 スピーカーから聞こえる声は、少しの間があった後、

『箱学・総北・京都伏見の同着三位ッッ!!』

 信じられない結果を伝えた。その場にいた人たちが騒然とする。インハイで同着三位なんて前代未聞の結果だ……!

「今のって機械判定だろ? 機械でも同タイムなのかよ」
「すごい……」

 急に力をつけた総北に、御堂筋くんが加わって強くなった京都伏見。この結果を誰が予想できただろうか?

「今年のインハイは誰が勝利をつかむかわからないね……」

 南雲くんの言葉に息を呑む。今年のインターハイは一筋縄ではいかなさそうだ。