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「離せッ!!」
「やだ、絶対に離さないっっ!!」

 表彰式が終わった後……テントの中で私は、荒北くんの腕をつかんでいた。

「福チャンを一位にできなかったのはオレの責任だ! 今から坊主にしてケジメをつける!」

 荒北くんの右手にはバリカンが握られている。福富くんを一位でゴールできなかった代償として、今から坊主になると言うのだ。

「そんなことしたって福富くんは喜ばないよ!」
「軽量化で速く走れるじゃねーか!」
「長い髪だったらともかく、荒北くんの髪じゃ大して効果ないと思うよ!」
「止めんなっ!! これはオレの決めたことだ!!」

 荒北くんが大きく前進する。このままじゃ荒北くんが坊主になっちゃう――!

「私、今の荒北くんが好きっ!! そんなにさらさらした髪の毛切るなんてもったいないよ!」

 言った瞬間、荒北くんがぴたりと立ち止まった。彼の背中にぶつかり、痛みに鼻をさする。

「……まぁ、オマエが嫌だっつうんならしょうがねェよな。別の方法を考える」

 何事もなかったかのようにバリカンを机の上に置いて、椅子に座る荒北くん。さっきまでの苦労は一体……。

「しっかし、御堂筋に持っていかれるとは思わなかった。南雲に言われたから気に留めたものの、ゴール前で無理やり勝負仕掛けるとかバケモノだろ。クソムカつく」

 今まで後方にいた御堂筋くんが、ゴール前で勝負を仕掛けてきた時にはびっくりした。彼に相当の実力がなければ福富くんたちと並んでゴールすることはできなかっただろう。

「そういえば、開会式でアイツの名前呼んでたよな」
「それはその……」

 どこから話せばいいのだろうか。今荒北くんは気が立ってるし、言葉に気をつけないと逆鱗に触れかねない。
 言葉を選んでいると、私の窮地を助けるようにテント入り口から助けの声が……

「マッチョのにーちゃんの彼女浮気してるー!」

 否、さらに地獄に突き落とす一声! 荒北くんの顔が一気にひきつる。

「………………なぁ、
「あ、荒北くんっ!! 後でゆっくり・じっくり事情を話すよ!! 今はとりあえず私のことを信じてっっ!!」

 短い言い訳を残し、急いでテントを出るとそこには、

「雄二くん、茉莉花ちゃんっ!?」
「ねーちゃん久しぶり~」
「こんにちは」

 五月の合宿で出会った、二人の子どもが立っていた。

「どうしたの、こんな所で」
「にーちゃんたちのレース見に来たんだよ。ねーちゃんの姿見なかったんだけどおまえ出ないの?」
「出ない出ない。このレース男子のみだし」

 雄二くんの言葉に苦笑して遠くを見ると、お母さんらしき人が二人。ぺこぺこと頭を下げられて、私もつられて頭を下げる。

「マッチョのにーちゃんは?」
「さぁ……」

 表彰式の後、坊主になると言い出した荒北くんを止めるのに忙しくて、泉田くんが今どこにいるかは知らない。スプリントリザルトで田所くんたちに負けた時、涙を流していたけれど大丈夫だろうか……。

「これ、渡しといてくれよ」

 雄二くんから一本の画用紙の束を渡される。

「これは?」
「にーちゃんのプレゼント。勝手に開けるなよー」
「マッチョのおにいちゃんの走るところ見た……。速くて、とってもカッコよかった!」

 今の茉莉花ちゃんの言葉、泉田くんが聞いたらさぞかし喜ぶだろう。

「今の言葉、伝えておくよ」
「ねぇお姉ちゃん。女の子でも、お兄ちゃんみたいに走れる?」
「走れるよ。だいぶ練習が必要だけど……女の子だって、速い人はたくさんいるよ」
「そっか」

 茉莉花ちゃんの顔がほころぶ。泉田くんの走るところを見て、なにか思うことがあったのだろうか。

「じゃ、オレたちは行くよ。明日は用事あるから明後日また来るー」
「わかった。じゃあね」

 去っていく雄二くんたちに手を振って、手元にある画用紙の束を見つめる。泉田くんに渡してって言ってたけど、何のプレゼントだろう。

ちゃんっ」
「わっ」

 東堂くんが後ろから声をかけてきた。得意げな笑みで、片手に持っているのは花束。

「ここでは周囲の目が気になるな……。こっちこっち」

 東堂くんに強引に手を引かれて、テント裏まで移動した。

「本当はもう少しロマンチックな場所がいいのだがな。ま、仕方あるまい」

 地面に片膝をつく東堂くん。疑問符を浮かべたまま呆然としていると、花束を差し出した。

「ありがとう、ちゃん。君のサポートがなければ今の箱学はなかった。約束どおり、この花束は君にささげよう」
「いいの……? それは東堂くんが頑張った証なんだよ?」
「オレは巻ちゃんと勝負することができた。それだけでオレは満足だ」

 花束に視線を落とした東堂くんがにこやかに微笑む。

「それにこれは、オレからの気持ちだ。フクを支え、部活を辞めそうになった新開を引き止め、口の悪い荒北の面倒を見て……本当にちゃんには感謝しているのだ」

 さらに花束を差し出す東堂くん。そんなことを言われたら受け取らないわけにはいかない。

「ありがとう、東堂くん。大切にするよ」

 両手で花束を受け取る。花のいい香りがした。

「インハイが終わったら、またオレと巻ちゃんとちゃんの三人で遊びに行くか」
「そうだね……。また巻島くんと三人で遊びに行きたいな」

 穏やかな気持ちで空を仰ぐ。そういえば、お祭に行ったのって去年の夏だったっけ。今では懐かしい出来事のような気がして、思い返していると自然と口元が緩んでしまった。


 しんと静まり返ったホテルの奥にあるテラス。ソファの上で泉田くんは膝を抱えて座っていた。
 雄二くんたちから預かった画用紙の束を手に、泉田くんのもとに近づいていく。

「隣、いい?」

 泉田くんがうなずいたことを確認して、彼の隣に座る。

「……今日のレース、ボクは箱根学園の歴史に大きな傷をつけてしまいました。極限まで鍛えたこの身体に、誰にも負けないと思っていた。途中まではボクの優勢だったんです。でも、あの時……ボクは風で飛んできたコーンを避けることを選んだ」

 泉田くんが取った選択肢は多くの人が取るであろう行動だ。だから泉田くんの取った行動は間違いなんかじゃない。でも、

「彼らは落車するというリスクを覚悟で、まっすぐに走ることを選んだ。ボクには、ゴールへの思いが一歩足りなかったんです……」

 泉田くんが腕に顔をうずめる。

「泉田くんに、渡したい物があるんだ」

 画用紙の束を泉田くんに差し出す。泉田くんは顔を上げて、腫れた目で不思議そうに画用紙を見つめた。

「これは……?」
「覚えてる? 合宿の時に自転車の乗り方を教えた二人の子どものことを」

 泉田くんが震えた手で画用紙を受け取る。止めひもをほどき、画用紙を広げると――

「あ……」

 泉田くんの口から小さな声が漏れて、頬に一筋の涙が伝う。
 広げた画用紙には一枚の絵。そこには、自転車に乗る泉田くんの似顔絵と、青色のクレヨンで「にーちゃんはこんなところでおわらないよな」という文字と、赤色のクレヨンでは「おにいちゃんとってもかっこよかった」という文字が書かれていた。
 この画用紙を受け取った時、雄二くんたちの小さな手にクレヨンの跡があった。きっと、泉田くんのレースを見た直後、彼の走りに感化された少年たちがこの絵を描いたのだろう。
 画用紙に涙の塊がぽとりと落ちる。

「ボクはもっと強くならなきゃいけませんね。今日はたくさん反省して、明日からはもっと頑張ります」

 涙を流しながら笑う泉田くんにハンカチを差し出す。
 泉田くんが声を押し殺して泣く。二人の子どもが描いた温かい絵を見つめながら、泉田くんの気が済むまでそばにいた。