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 早朝、とある約束のために宿から外に出ると福富くんを見かけた。いつものように無表情で空を見上げている。

「おはよう、福富くん」
「……か。おはよう」

 福富くんの隣に並び、空を仰ぐ。雲ひとつない、日差しがまぶしい快晴。今日は昨日に引き続きロードレースには絶好の天気だ。

「今日はインハイ二日目だな」
「そうだね……。緊張してる?」
「あぁ。これまでになく。明日の最終日は誰が残るかわからない激戦になる。金城と決着をつけるのは今日だ」

 己の手のひらを見つめ、拳を握る福富くん。

「総北に行ったあの日オレは最強のチームを作ると金城に宣言した。金城もまた、優勝を狙うチームを作り上げた……」

 その結果、昨日のスプリントリザルトは総北が獲り、山岳リザルトは箱学、ステージ優勝は京伏を加えた三校が同着三位を獲った。
 他校にリザルトを獲られることは時々あるけども、ステージ優勝同着三位はインハイ史上初めてのことだ。昨日の結果を受けて、今日のレースで箱学がどうなるか不安な気持ちになる。

「今年は、去年よりも厳しい戦いになるね」
「データも経験もない一年三人をチームに加えた金城、ゴール前でいきなり勝負を仕掛けてきた御堂筋……今日の戦いも混戦を極めるだろう。だが」
「オレは強い、だよね」
「あぁ。だから絶対に負けない」
「おはようおめさんたち」

 背後から聞こえた声に振り返ると、パワーバーをくわえた新開くん。ようやく待ち人が来た。

「田島くんから連絡来たかい?」
「ううん、まだ。もうすぐ来ると思うんだけど……」

 ポケットに入れた物にそっと手を触れると、タイミングよくぶるると振動。スマートフォンを取り出して、みんなに見えるように持つ。
 スマートフォンの液晶画面に映ったのは田島くん。慌てて家を出たのか寝癖がおもいっきりついている。

『お、おはようございます。皆さん』
「悪いな、早起きさせちまって」
『新開くんが謝ることはないよ。むしろ、謝ってほしいのはボクを脅した荒北くん……じゃなくて、これも自転車部のためだから!』

 今後ろにいないよね!? 慌てた田島くんがすばやく発言を訂正する。眠さのあまり本音が漏れてしまったようだ。

「ウサ吉は?」
『元気元気。朝から走り回ってるよー』

 スマートフォンの画面が田島くんからウサギ小屋の様子に切り替わる。ウサ吉が小屋の中を駆け回っている。
 ウサ吉はタブレットに気がつくと、田島くんの足元に近寄ってきた。田島くんがウサ吉に近づいて、スマートフォン一面にウサ吉の顔が映る。

「ウサ吉のどアップだ」

 新開くんが顔をくしゃくしゃにして笑う。

「ウサ吉、今日はオレ頑張るよ。連れていけないのが残念だけど、そこからオレのこと応援してくれ」
『インハイ頑張って! ボクも応援してるよ!』
「ありがとう。じゃあ、明日もよろしく」

 田島くんとウサ吉のツーショットを最後にテレビ電話が切れる。微笑んだ新開くんと目が合った。

「ありがとな、。おかげで元気もらった」
「ううん。考えたのは私だけど、田島くんにお願いしたのは荒北くんだし、田島くんがそれを貸してくれなかったらテレビ電話なんてできなかったし……。私はほとんどなにもしてないよ」
「それでも遠くにいるウサ吉の顔が見れた。今日のレースは今までで一番速く走れそうだ。……そうだ。久しぶりにあれ、やらないか?」
「あれって?」
「中学の時、レース前にやってたあれだよ」

 やっと思い出した私は手の甲を上に向けて手を差し出す。福富くんと新開くんが手を重ね、重みが加わる。

「今日は新開にとっても、オレにとっても負けられない一日だ。絶対に勝つぞ!」
「おうっ!!」

 鬨の声を上げ、重ねた手が散らばる。今日のレースも他校には絶対に負けられない。
 ひとっ走り行ってくると言った二人を手を振って見送り、宿に戻ろうと踵を翻す。

「青春ごっこか。アホらし」
「御堂筋くん……」

 宿の前にはあの日、足利峠の登坂を手伝ってくれた男の子――御堂筋くんの姿があった。

「腑抜けてた顔がだいぶマシになったな。新しいオトコに乗り換えたん?」
「えっ、いや! 話せば長くなるんだけど……!」

 どこから話せばいいのだろう……! 逡巡していると、御堂筋くんの目が鋭くなる。

「別に、キミの恋バナなんて全く興味ないわ。それでハコガクが落ちぶれるのならいいけど」
「こんなことで箱学は揺らがないよ」

 表情を引き締めて御堂筋くんに言った。
 ……そう、こんなことで揺らいだりはしない。悩んだ末に彼は、胸の中にある思いを認めて、前に進むことを決めたのだから……!

「ボクはどんな手を使ってでも勝つ。キミに登坂のコツを教えたからって絶対に手は抜かん。今日のステージ優勝も、明日の総合優勝も……勝利を手に入れるのはこのボクや」

 昨日、御堂筋くんはゴール間近でいきなり飛び出して、福富くんたち相手に互角の勝負をした。
 まだ一年だというのに後方の位置からトップの座を狙おうとする体力、プロ顔負けの瞬発力。彼が本気を出せば、今日のステージ優勝を獲ることもできるだろう。
 ……それでも、私の思いは変わらない。

「負けないよ、御堂筋くん」

 御堂筋くんが鼻で笑い、去っていく。今日は絶対に負けられない。


 インターハイ自転車ロードレース二日目。開けた車窓から先頭にいる二人を見やる。
 今スプリントリザルト目指して走っているのは二人の選手。新開くんと御堂筋くんの二人だ。

「総北どうしたんでしょう……。グリーンゼッケンの172番田所が集団よりも後ろの位置で走っていますし、176番の小野田の順位がどんどん下がっています」

 ノートパソコンの画面を見ながら織田くんが言った。

「田所くん……」

 昨日、風で飛んできたコーンにも怯むことなく走った勇姿を思い出す。
 見事泉田くんに勝ち、スプリント賞を獲った田所くん。今日は調子が悪いのだろうか。

「敵校の選手に同情なんてしないでくださいよ。最後にレースで勝つのは一校だけなんです」
「……そうだね」

 田所くんの不調は今は気にかけることではない。今はただ、新開くんが勝つことだけを祈ろう。
 遠くで走る新開くんを見る。並走していた御堂筋くんが動き出した。

「……あれ? どうしたんでしょう御堂筋。わざわざ道を譲るような真似をして……」

 御堂筋くんが右に寄り、左を大きく開ける。まるでわざと通り抜けてくださいと言っているようなものだ。

「――まさか御堂筋くん、新開くんが左を抜けないことを知ってわざと……!」

 青ざめる新開くんの表情を見て確信する。
 二年の時に出場したレースで、前方にいる選手の左側を追い抜こうとした新開くんがウサギと衝突事故を起こした。あれから新開くんは左を抜いて走ることができない。箱学の関係者しか知り得ない情報、それを何らかの手段で知った御堂筋くんが、わざと新開くんを試している――!

「見たい気持ちはわかるがそろそろ飛ばすぞ。給水所まで急がなきゃならん」

 運転手のOBが言うと車の速度が上がり、新開くんたちの姿が見えなくなる。
 ――頑張れ、新開くん。
 今朝テレビ電話越しにウサ吉と会って顔をほころばせた新開くんを思い出す。どうか彼が、御堂筋くんに勝ってスプリントリザルトを獲りますように。