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 スプリントリザルトの先にある第一給水所。もうすぐ出るであろうリザルトにそわそわしながら、サコッシュを片手に待っていた。

「スプリントリザルト速報出たぞっ!!」

 近くにいる他校の給水係までもが、みんな一斉に固唾を飲む。

「スプリントリザルトを獲ったのは京伏の御堂筋翔! 新開さんは僅差で負けた!」

 ――新開くんが、負けた?
 箱学の給水係の間でどよめきが起きる。

「こ、今年のスプリントリザルト呪われてんじゃね……?」
「あの新開さんが嘘だろ……」
「あ、ありえないですそんなのっ! 東堂さんと巻島さんのように経験を積んだ者同士ならともかく、今年ひょっこり出てきた一年が新開さんに勝つなんて……!」

 織田くんがパソコンを開き、リザルトの結果を確認する。
 画面を確認して落胆する様子に、御堂筋くんに敗れたのは真実なのだと悟る。

「昨日の京伏はゴール前まで勝負を仕掛けてこなかったっつうのに、今日は初っ端から仕掛けてきやがった! ……もしかして今日のリザルト総なめにするつもりじゃ」
「なにを騒いでるんだお前らっ!! もうすぐ先頭集団来るぞ!!」

 リーダーの掛け声を合図に、選手の通り道を開けて二列に並ぶ。
 遠くから車輪の音が聞こえてきた。音が近づいて、一番先に見えたのは京都伏見。その後ろを泉田くんが引く箱学が走る。

「泉田さんっ」
「東堂さん頑張ってください!」
「福富さんファイトです!」
「荒北くん!」

 ハンドルから片手を離した荒北くんにサコッシュを渡す。荒北くんは無言のまま、サコッシュを肩にかけた。
 集団はあっという間に彼方へ消えてしまった。浮かない表情の選手を見て、辺り一帯が気まずい空気に包まれる。
 選手が捨てたボトルを回収している間、織田くんは作業には参加せずに、携帯電話で誰かと話している。
 ボトルが拾い終わった頃、通話を終えた織田くんが私に駆け寄った。

「スプリントリザルトの近くにいた部員の話によると、御堂筋に追い詰められた新開さんは左を抜いて走ったそうです。やっとの思いで壁を乗り越えたのに……それでも京伏に負けるなんて」

 携帯を握りしめた織田くんがうつむく。
 まさか、ここまで御堂筋くんが喰らいついてくるとは思わなかった。


「た、大変です! 福富さんたちがバラバラになって山を登っているようです……! 先頭には福富さんと東堂さん、他校を挟んで後方には荒北さんたちがいます!」

 織田くんの言葉に、携帯を開いて中間リザルトを確認する。たしかに、荒北くんたちは後ろの順位にいる。
 インハイではメンバーの数が鍵になる。あえて二手に分かれるということはなにか思惑があるのだろうか。それとも――

「メンバーの誰かが体調を崩したのか? 後ろの四人のうち二人はスプリンターだし、もしかしたら福富さんが見切ったっていう可能性も……」
「山岳リザルト速報出たぞ! 一位は――御堂筋翔! 京伏のアイツがまたしても獲りやがった!!」

 向こう側にいる京伏の給水組が諸手を挙げて喜び、私たち箱学は衝撃的な結果に二の句が継げなくなる。
 まさか御堂筋くん、このままステージ優勝まで獲るつもりなんじゃ……。一人で二つのリザルトとステージ優勝を獲れば、インハイ始まって以来の最高記録となる。どんなに才能を持っていたとしても、一人ではとても制することのできない記録。――でも、御堂筋くんなら可能にしてもおかしくはない。
 京伏の給水組が動き出し、紫ジャージの集団が通る。一、ニ、三、四……スプリントリザルトにいた時は六人だった集団が、今は四人に変わっている。姿が見えない二人は後方にいるのだろうか。
 御堂筋くんが通り過ぎる時、一瞬だけこちらに顔を向けた。

「キミの言ってたハコガク、大したことあらへんわ」

 私にだけ聞こえるようにそう言って、前に視線を戻し去っていった。

「箱学来たぞ! 福富さんと東堂さんの二人だ!」

 道の先には福富くんと東堂くんの二人。二人は無言で給水係のボトルを受け取り、ゴールに向かって進んでいく。
 途中で東堂くんを応援する女の子の声が聞こえたけれど、さすがに余裕はないのか東堂くんはなにも答えなかった。
 その後、やっと姿が見えた荒北くんたちに補給を渡す。彼らの表情からも、焦りや苛立ちの感情が見えたのは言うまでもない。


 もしかしたら京伏に負けるんじゃ……。部員が口にした一言をきっかけに、テントの中が重苦しい雰囲気に包まれる。

「なぁ、今日のレース京伏が勝つんじゃね? スプリントも山岳リザルトも獲ったし、絶対に負けないって」
「ついに王者が落ちるのかぁ。今日のレース、近くで見ようかな」

 テントの外から男たちの笑い声が聞こえる。肩を怒らせてテントを出ようとする織田くんを宥め、パイプ椅子に座って続報を待つ。
 このまま御堂筋くんはステージ優勝を狙うつもりなのだろう。もし彼が優勝を獲れば、最終日の明日追い風が吹くのは京伏になる。
 そんなのはダメだ。今まで、みんなが必死に練習に打ち込む姿を見てきた。一時は私を助けてくれた相手とはいえ、三回も勝ちを譲るわけにはいかない――!

「どうなっちまうんだろうな、今年のインハイ」

 重苦しい雰囲気の中、誰かがつぶやいた言葉をきっかけにパイプ椅子から立ち上がる。それに気づいた織田くんが大きく目を瞬く。

さん……?」
「私、ちょっと行ってくる」
「えっ、どこに行くんですか!?」

 織田くんの問いに答えずにテントを飛び出す。人の間を縫って二日目のゴールからもっと先へ。全力で走って遠くを目指す。
 観客がざわつきはじめた頃、足を止めて周囲を見渡す。――見えた、箱学の応援団だ!

「それちょっと貸して!」
「え、えぇっ!?」

 学ランを着た男の子から強引に団旗を奪い取り、ぎゅっと握りしめる。走るのをためらってしまいそうな重量があるけれど、なにも持たないよりはずっといい。
 道の先に、三人の選手の姿が見えた。今先頭を走っているのは福富くんと金城くんと御堂筋くんの三人。
 すぐに追いつけなくなることはわかっている。それでも私は旗を持って、必死に走った。

「頑張れ、福富くんっ!!」

 小さい頃、私の隣の家に住んでいる男の子がいた。その男の子は無口な子で、会うたびに自転車に乗っている。
 形の変わった自転車になんで乗ってるんだろうって興味がわいて、いつしか私も自転車に乗るようになった。
 中学の時には遠方まで足を伸ばし、彼が出場するレースの応援に行っていた。転校を機に一度は疎遠になってしまったけれど、神奈川に戻ってもう一度彼と出会った。
 福富くんはこれからプロのロードレーサーになるのだろう。そのうち幼なじみの私でさえ手の届かない遠いところに行ってしまって、連絡を取ることも難しくなってしまうかもしれない。
 そう思っていた矢先――去年のインハイ二日目。とある出来事が起きて、彼は罪の意識に苛まれた。

『オレは弱い……。明日のレースに参加する権利も、自転車に乗る資格もない……』

 総北と一悶着あって、箱学のテント裏に行った時。福富くんは自嘲気味に言った。
 もしかして福富くん、自転車をやめるんじゃ……。そう思ったけれど福富くんは逃げなかった。自分の弱さを受け入れて、今年のインターハイで金城くんに再戦を挑む。
 荒北くんを自転車の道に導いて、新開くんが再び立ち上がる日を辛抱強く待ち、東堂くんと協力して王者の名に恥じないチームを作り上げた――。
 こんなに戦況が変わった今でも、私は福富くんが勝つって信じてる。
 だって彼は、苦難を乗り越えた最強の選手だ。そんな彼が総北や京伏なんかに負けるはずがない……!

「誰にも負けるなぁぁぁっっ!!」

 思いをこめて、福富くんにエールを送る。
 福富くんたちの背中が見えなくなり、息を切らして立ち止まる。インターハイ自転車ロードレース二日目。ステージ優勝を手にしたのははたして――

『フィニッシュ! 一位、二位、二日目を制したのは――王者箱根学園ゼッケンナンバー1! 福富寿一選手ですっ!!』

 割れんばかりの歓声が響く。
 やったね、福富くん……! 勝利の雄叫びを上げる福富くんを想像して、大粒の涙が零れる。
 旗を持っていない手で止まらない涙を拭っている時、箱学の集団が見えた。ちらりとこちらを見た荒北くんと目が合う。
 ――福チャンが誰にも負けるわけねェっての。
 たぶん、不敵に笑った荒北くんは口には出さずにそう言って。前に向き直りペダルを踏んだ。