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 表彰式の後、テント裏で待っているとすぐに福富くんが来た。手には表彰式でもらった花束を持っている。

「ありがとう、。お前の応援はちゃんと聞こえた。今日はその応援の礼と、今までの感謝をこめてこの花束を贈る」

 誇らしげに笑った福富くんから花束を受け取る。

「本当は昨日、一位を獲ってお前に渡すつもりだったのだがな。一日遅れてしまった」
「ありがとう、福富くん」

 受けった花束を胸元に寄せ、香りを堪能する。うれしそうな私に気づいたのか、福富くんがさらに表情をほころばせる。

「今日のゴールスプリントでオレは金城に勝った。これでようやく笑うことができる……」

 穏やかに笑う福富くんの頬に涙の跡が見える。
 福富くんが挫折した経験は、これから大きな糧になるだろう。幼なじみの大きな前進に、私もまた顔がほころんでしまう。

、今まで本当にありがとう。お前が陰で支えてくれなければ、今のオレはなかった」
「それを言うのはこっちの台詞だよ。福富くんが私に自転車の楽しさを教えてくれて、今の部活を作り上げたんだよ? 福富くんに出会えなかったら、今頃私はつまらない道を歩いていたかもしれない」

 私の頭上に手を伸ばし、そっとなでる福富くん。

「今度こそ、これでお前と道が分かれるのだと思うと寂しくなるな」

 福富くんの目が潤む。
 来年、福富くんは東京にある明早大学に行くという。私も都内にある別の大学に行く予定だけど、違う学校となると福富くんとは離ればなれになる。
 小さい頃は何でもそつなくこなす幼なじみの後ろ姿を見るだけで満足できた。でも今は――夢をかなえてあげたいと思う、大切な人ができた。
 だから幼なじみとは箱学を出たらお別れだ。これからは彼の活躍を祈りながら、私は私がやりたいと思うことをこなしていこうと思う。

「荒北くんが出ないレースの応援に来たときは、福富くんのことを応援するよ」
「アイツがいるレースに出ると、お前は敵にまわるということか……。だが、絶対に負けん。オレは強い」

 福富くんと同時に笑い合う。
 こんなにも笑う幼なじみの顔を見たのは今日が初めてだった。


 スプリントリザルトや山岳リザルトは京伏に獲られたものの、最後のステージ優勝を見事勝ち取った箱学はほのかな祝賀ムードに包まれていた。
 三日目の最終日はなにが起こるかわからない。何としてでもステージ優勝を死守し、今年も箱学の勝利で締めくくろう。監督の一声を機に食事は終了し、あっという間に就寝の時間になった。
 夢焦がれていたインターハイも明日で終わり。明日で、全ての決着がつく。
 この二日間の出来事を思い返せばイレギュラーな出来事の連続だった。しかし、みんなの頑張りあって今日の優勝を手にすることができた。
 明日は、どうなるかわからない。箱学が優勝するって信じているものの、明日のレースのことを考えると緊張して眠れない。
 周りで寝ている人たちの迷惑にならないように暗闇の中、ゆっくりと携帯を開く。寝ようと思っていた時間から一時間も経過していることに気がつく。
 迷って、そっと立ち上がった。足音を殺して部屋から出る。廊下は人気がなく、しんと静かだった。
 あてもなく廊下を歩く。眠れない夜、誰かに会って、無性に話がしたい気分だった。
 誰にも会えなければ外を歩くのもいい。冷たい夜風は頭を冷ましてくれそうだ。階段を下りてロビーに出る。

「……あれ? さん」

 自動ドアが開いて、ロビーに入ってきたのは真波くん。片手にはヘルメットを持っている。

「ま、真波くん!? 今までなにやってたの!?」
「えへへ、坂登ってました」
「げ、元気だね……」

 昨日と今日と、体力をだいぶ消耗しているだろうに。こんな日にまで坂を登っているなんて信じられない……。

さんもこれから登るの?」
「私はただの散歩だよ。ここら辺、景色よさそうだし」
「だったら屋上に行ってみたら? ここの屋上、開放されてますし。今日は星がすっごいきれいなんですよ~」
「屋上かぁ。行ってみようかな」

「真波くんありがとう」お礼を言って、屋上に向かう。


 屋上に出ると、先客がいた。その人はアスファルトに座って空を見上げている。

「……なんだ、お前か」

 隣に座ってようやく私に気づいた荒北くんが言った。

「どうしたの、こんな所で?」
「眠れないんだ。明日が最後だって思うと、どうしても目が冴えちまう」

 そう言って荒北くんは再び空を見上げる。今日の月は満月。優しく光る月が、荒北くんの横顔を淡く照らす。

「今年のレース、わけわかんねェ。一日目の中盤で総北のクライマーが落ちたかと思いきやトップまで追い上げてきたし、今日なんか御堂筋が二つもリザルトを獲りやがった。今回バケモノ多すぎだろ。明日は死ぬ気で引かねーと絶対に負ける気ィする」

 ぽっと出のヤツらには負けたくねェ。そう言った荒北くんが、星に向かって右手を伸ばす。

「ガキの頃、よくこうやってたんだ。星に向かって手を伸ばして、この手でプロ野球選手になるんだって。……試合に負けてつらい時、練習が苦しい時、何度も星に手を伸ばして、絶対に夢をつかんでやるって思った」

 今じゃ全然やんないけどな。恥ずかしいし、星に手が届かないことなんざわかってるし。小さく言って、荒北くんが手を下ろす。

『でもオレは、もう一度どこまで行けるかを試してみたい。そうして、ここまで来た……』

 初めて夢を語ってくれたあの日のことを思い出す。
 あの時も今も、荒北くんは変わらずに純粋で、まっすぐで。彼の夢をかなえてあげたいと思う。
 もし、私がインハイに出場するメンバーの一人だったら、荒北くんの背中を押すことができるのに。私にできることは補給を確実に渡すことと、両手を組んで勝利を祈ることしかない。それを激戦の今日、痛いほどにわかった。

「前に言ったよな。こんな大舞台はインハイが初めてだって。やっと明日見れるんだ。福チャンが言ってたインハイの景色ってヤツを」

 月を見上げて語る優しげな表情に、心が大きく波打つ。
 ――もっと、荒北くんを輝かせてあげたい。
 でも、できることが限られている私には、その方法が見つからない。

「ねぇ、荒北くん。なにか……なにか私にできることはない?」

 アスファルトの上に手をついて、荒北くんの顔を見上げる。
 気がつけば視界が涙でにじんでいて。荒北くんの顔がぼやけて見える。

「荒北くんが最後まで全力を出しきれるように。箱学が優勝できるように」

 こんなこと、荒北くんに言っても困らせるだけだってわかってる。でも、このままなにもできないのはもどかしい。私にできることならなんだってする。だって、

「私、荒北くんの力になりたい――」

 荒北くんの夢をかなえること。それが、私の望みなのだから――

「ひとつだけある」

 視線を交えた荒北くんが、私に向き直る。

「……目を閉じろ、

 その一言で、荒北くんがこれからすることを理解した。
 手を当てなくてもわかるほどに、胸の鼓動が高鳴っている。唇を結んで、目を閉じてその時を待つ。
 頬に手が添えられる感触がして――初めてのキスをした。
 涙が零れそうなほど、温かくて心が満たされるキスだった。
 長い口づけをして静かに唇が離れる。見つめ合った後、同時に近づいてもう一度唇を重ねる。
 二度目の口づけの後、荒北くんに抱きしめられて、肩に顔をうずめる。
 
「なぁ、。ここまで導いてくれてありがとう。お前に出会わなかったらオレは……南雲たちに向き合うことも、ここまで速くなることもできなかった」

 荒北くんの優しげな声が耳元に響く。いつの間にか、私の目から涙が零れていた。

「明日はみんな死ぬ気で走る。なにが起きたっておかしくはねェ。……お前は、最後までレースを見届けろよ。オレや他の奴らが精一杯走っているところをちゃんとその目に焼き付けておけ。それが……オレがここまで来たことの証になるから」
「……うん」

 明日、どんなことがあっても、勝敗がつくまで結果を見届ける。
 満月の月を見上げて誓い、荒北くんの体を抱きしめる。
 荒北くんの心臓が、私の胸に伝わるほどにトクントクンと高鳴っていた。温かい体温が心地よくて、いつまでもずっとこうしていたくなる。
 ――けれど、明日になれば魔法は解ける。
 夢がかなうまでこれ以上近づかないって決めたのに。こうして抱きしめられると、荒北くんにもっともっと触れたくなる。

「もう一回だけ、キスしていい?」

 荒北くんが無言で顔を近づけて、唇を重ねる。
 三度目のキスをしている間に、近くの教会の鐘が鳴り響いた。鐘の音を聞いて、先に唇を離したのは荒北くんだ。

「そろそろ寝ろよ。明日補給落としたらシャレになんねェ」
「荒北くんも、レース前に寝ないでね」

 真波じゃあるまいし、と荒北くんは笑って私の頭をなでる。
 一緒に立ち上がり、屋上を後にする。

「おやすみなさい」
「あぁ。おやすみ」

 短い言葉を交わし、分かれ道を振り返らずに歩く。
 ――どうか明日、箱学が優勝しますように。荒北くんが、インハイの景色を見られますように。
 窓から見える星に願いをかけて廊下を歩く。満月の光が薄暗い廊下の窓に差し込み、道しるべのように床を照らしていた。