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 客の歓声とカメラのフラッシュを浴びながら、福富くんたちがテントに向かって歩いていく。インターハイ自転車ロードレース最終日。泣いても笑っても、今日が最後の日だ。
 今日は昨日と違い、時折柔らかな風が吹く。三日間暑い日が続くけれど、今日は比較的涼しい日になりそうだ。
 日傘をさした女が福富くんたちの前に立ちはだかる。

「おはようございます、自転車部の皆さん。あの時の約束、覚えているわね?」

 日傘の下、毅然とした表情で福富くんたちを見据える後藤教頭。福富くんたちは動じていない。

「あなたたちが総合優勝を獲らなければ、部活は縮小します」
「絶対に勝ちます。縮小などさせません」

 福富くんが強く言い切って、教頭の横を通って歩く。私は後藤教頭を一瞥して、福富くんたちの後を追った。


 監督と今日の予定の打ち合わせをしていたら予想以上に長引いてしまい、駆け足でスタート地点に向かう。
 レース開始十分を切ったスタート地点は既に多くの人たちでいっぱいで、箱学がいるスタートゲートにたどり着くのに時間がかかってしまった。
 先にスタートゲートに来ていた織田くんが、困った顔をして振り返る。

さん……」
「ゴメン。監督と今日の予定を確認してたら遅くなっちゃって」
「いえ、ボクが言いたいのはそういうことじゃなくて……」

 珍しくはっきりと物を言わない織田くんを不思議に思い、前を向いた彼の視線をたどる。
 緑ジャージの選手――たしかあれは、去年インハイ最終日に三位で入賞した広島呉南工業高校の待宮栄吉くんだ。

「これがワシの魔法なんじゃ。こうやってモってるヤツのホシを吸い取ることができるんじゃ」

 待宮くんが福富くんの腕を執拗に触っている。
 他校の選手たちや周囲の観客たちは、待宮くんの行動を固唾を飲んで見ている。こうやって見ていると福富くんの運を、本当に吸い取ってしまいそうだ……。

「おい」

 眉根を寄せた東堂くんが沈黙を引き裂く。そして――

「ふざけた陽動作戦やってんじゃねーぞこのボケナスッ!!」

 愛車を泉田くんに託した荒北くんが、待宮くんにつかみかかる勢いで止めに入る。福富くんの腕から手を離した待宮くんは、荒北くんに気がついた途端表情をゆがめた。

「あぁ、誰だと思ったらキミか。去年の秋のレースでワシにボロ負けした荒北クン」

 荒北くんの顔がこわばる。
 荒北くんに標的を移した待宮くんが、ニヤけた笑みで彼に近づいていく。

「あの時は災難じゃったなぁ! あいにくの土砂降りの雨! 平坦でワシと競ったキミは運悪くパンクして深い水たまりにハマって落車! あの時は悪かったのぅ。ワシも賞が欲しくて立ち止まってるヒマはなかったんじゃ」

 去年の秋に大雨の中行われたレースといえば、一つしか該当がない。私が見ていないところで荒北くんは、待宮くんと一戦を交えたに違いない。

「にしても、泥だらけになって大変じゃったな。まさか飢えた野獣と呼ばれる男にこんなにモってない時があったなんて知ってるヤツあんまりおらんじゃろ! 今日もあの時みたいに無様に落車してリタイアしないようにな! エッエッエッ!!」

 呉南の人たちがどっと笑う。呉南の人につられて、傍観していた観客の人たちもくすくすと笑いだした。

「やだー、大丈夫なのあの人?」
「最近のレースでは福富と組んで全勝したって聞いたけどな。福富が強いだけで、アイツ本当は弱いんじゃねーの」

 色んな人たちが荒北くんをあざ笑う。荒北くんは拳を握りしめたまま、なにも言わない。
 これ以上黙って見てられない――考えるよりも先に体が動いた。

さん、なに考えてるんですか!?」

 沿道に設置されたついたてを乗り越えた時、織田くんに引き止められた。

「荒北くんが言われてるの、黙って見過ごせないよ!」

 選手の間を縫って彼らのもとへ行こうとした時だった。沈黙を貫いていた荒北くんが口を開く。

「なぁ、待宮。オマエあの日オレに言った言葉を覚えてるか? オマエはなにを捨てられる? なにも捨てるモンなどないだろ。オレは、長い間迷ったけど、結局なにも捨てなかった。オマエとは違う道を歩いて、ここに立てるくらいには強くなった。……再戦だ待宮。全部の実を拾った王者の強さってヤツを証明してやんよ! 全力でかかってこい!!」
「箱学の犬はよう吠えるのう。気持ちだけでは総合優勝は獲れんよ? エエ!!」

 荒北くんの力強い宣言に、待宮くんは怯まなかった。
 しかし、風向きは呉南から箱学へと、わずかに変わりつつある。

「……なぁ、箱学二番怖いヤツだとは思ってたけどカッコよくね?」
「私、二番を応援しようかな」

 三年前、自転車初心者という位置からインハイ出場を目指して必死に努力を積み重ねてきた荒北くん。今の彼は立派な王者の一人だ。土壇場の状況でも、充分に立ち向かっていける。
 ……私が口を挟む必要なんてなかったのだ。誇らしい気持ちでついたてを越えて、元の位置に戻る。
 織田くんと目が合った。織田くんはなにか言いたそうにしていたけれど、待宮くんと総北の小野田くん二人のやりとりをじっと見つめ、結局私にはなにも言わなかった。


 ――レース開始一分前。もうそろそろスタートだというのに、スタートゲートの下には、昨日三位で入賞した御堂筋くんの姿が見えない。

「来ないね、御堂筋くん」
「それも気になりますが……」

 あきれた表情で箱学の集団を見やる織田くん。織田くんの視線の先には、自転車に跨がりながら寝ている真波くんの姿があった。

「ま、真波くんが寝てるっ!!」

 さっきあんなに騒がしかったのに! 気持ちよさそうな寝顔ですーすーと眠っている!!
 色んな感情が吹き飛んで、額にだらだらと汗が流れる。

「あ、やっと目を覚ましました。本当に大丈夫なんでしょうかアイツ……」
「あはは……」

 インターハイは今日が最後の日だけど、二日間の間真波くんは大して活躍していない。もし、真波くんが今日活躍するとすれば、レース後半にあるゴールも兼ね備えた大きな登り。そこで彼は大きな戦力になるだろう。
 去年の秋、足利峠の完全登坂を目指して走っていた時、真波くんの背中から白い翼が見えたことを思い出す。
 荒北くんの言うとおり、あれはハンガーノックによる幻覚だったのかもしれない。今言うのもなんだけど、本当に大丈夫なのだろうか……。

「御堂筋が来ました! ……あれ? アイツ髪型変わりましたね……?」

 織田くんに言われて前を見ると、丸坊主になった御堂筋くん。デ・ローザの自転車に跨がり前を向いている。
 なにがあったのかはわからないけれど、これでようやく役者が出揃った。今日のロードレース、勝つのは絶対に箱学だ!
 ――やがて、スタート開始時刻になった。

『インターハイロードレース男子三日目最終日スタートです!』

 司会の声を合図に、福富くん、金城くん、御堂筋くんが順にスタートゲートを飛び出していく。
 今日のスタートは着順スタートだ。昨日一位を獲った福富くんは、一番早くスタートできる権利を得た。

「……行こう、織田くん」

 最後に前を向いている荒北くんの横顔を見て、その場を離れる。
 インターハイ自転車ロードレース三日目。今ここに戦いの火ぶたは切られた。


 給水所に向かっている最中の車内で、織田くんが不安げにパソコンの画面を見つめている。

「……どうしたの、織田くん?」
「さっきの呉南の待宮って男……大口叩いてたわりにはおかしいんです。後方の集団の中にいるみたいなんですけど、さっきからあんまり順位が変わっていないような……」

 パソコンの画面をのぞき、中間リザルトを見る。様々な学校の選手の中に待宮くんの名前がある。タイムを見る限り、本当に集団の中を走っているようだ。
 ページが自動的に切り替わる。織田くんがカーソルを動かして上にスクロールすると、福富くんの次には新開くんの名前がある。

「新開くん、福富くんに追いついたんだ」
「このまま逃げ切れれば、勝機は箱学にあります」

 笑んだ織田くんがカーソルをもう一度操作して、下の方にスクロールする。

「……あれ? 気のせいでしょうか? 集団が荒北さんたちに迫ってきているような……」

 今総北と協調して最後尾を走っているであろう荒北くんと、集団の先頭にいる選手のタイム差が縮んでいる。

「――まさか」

 頭に嫌な予想がよぎる。まさか、不可能だ。あんなに人数がいる選手を、一つにまとめあげるなんてそんなの無理だ――!
 動揺しながらパソコンの画面を見守る。
 三分おきに更新される中間リザルトは、いつまでも経っても更新されない。
 後に機材トラブルが起きたことを知った私は、今どんなことが起こっているかもわからないまま手を組んで、荒北くんの無事を祈ることしかできなかった。