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 一瞬の間に周囲の景色が変わってしまった。
 周りには様々なカラージャージの選手が並んで走っている。その中で荒北靖友は呆然とした顔で、ついさっき起こった出来事について思い返す。
 総北と協調して走っている時、嫌な臭いに後ろを振り返れば、巨大な集団が後ろに迫っているではないか。たしか、福チャンのオーダーは……!
 福富のオーダーを思い出し、荒北は泉田に東堂を連れていくように指示をする。
 集団がどんどん近づいてくる。荒北はわざと集団に呑まれ、自分が身代わりとなって集団をコントロールすることに決めた。――だが。
 集団の中に入った時、偶然待宮と目が合った。

「かかった!!」

 去年の秋のレースの出来事を思い出す顔で――罠にかかった荒北を、釣れたと言わんばかりに笑っていた。
 待宮率いる呉南はその後、集団を飛び出してしまった。他校のスプリンターたちは足を使い切ってしまった。待宮たちを追う者は、誰一人としていない。
 このまま待宮は先頭にいる福富たちに追いついて、総合優勝を手にするのだろう。福富が作ったチームをコケにして、笑いながら優勝トロフィーを持って表彰台に上がる……。
 福富を何度も一位の座まで運んだ荒北にとって、それは到底見過ごせることではない。

「ボケナスが!!」

 サドルから腰を上げ、わずかにブレーキをかけ、車体を地面すれすれまで倒して二十センチほどの選手の間を通り抜ける!
 後ろから選手の驚く声が聞こえた。それには構わず時折暴言を吐きながら人の間を縫い、集団の中を走る。
 やっと集団の中を抜けた。しかし、待宮たちの姿は見えない。六人もいる呉南は泉田らを簡単に抜いて、あっという間に福富たちのもとにたどり着いてしまうのだろう。
 このままじゃアイツらの完全勝利だァ!! 足がちぎれることを覚悟でペダルを回そうとした時――
 異様な臭いに荒北が後ろを振り返る。荒北の視線の先には――一日目は集団落車により最下位という絶望的な順位から先頭集団にまで追いつき、二日目は体調を崩した田所迅を引いてチームに貢献した総北高校一年、小野田坂道の姿があった。


 東堂が後ろを振り返る。東堂の後ろには、田所、巻島、鳴子の三人。泉田が東堂の前を走り、風除けの役割を務めている。集団をコントロールするために自ら犠牲になった荒北がいないのは前からわかっているが、小野田と真波の姿が見えない。
 真波まで集団に呑み込まれてしまった……。序盤からチームの二人が欠けてしまった事実に、不安げになる表情は隠せない。

「あの赤頭……まさか集団を一つにしてオレたちを呑み込もうとするとは……!」
「誰しもが勝利したいと思ってる。そんな選手の心を一つにまとめるなんて大したペテン師っショ。……このままヤツらは集団で追ってくんのかな」
「いいや。適当なところでチギってオレたちを追いかけてくるだろう。戦国時代の謀反と似たようなモンだ。油断したときに突然裏切る……たとえて言うならアイツは明智光秀だな」

 田所と巻島が会話をしながら全力で走る。
 このまま呉南から逃げ切って金城たちに合流しなければ……! どれだけ走っても金城たちを見つけることができず、巻島が弱気になった時――後ろから車輪の音が聞こえてきた。

「広島きてまっせ!!」
「アブアブアブアブッ!!」

 最後尾にいた鳴子の一声で、泉田のペダルを回す速度が上がる。だが、呉南の集団は鳴子たちにどんどん迫ってくる。

「エッエッエッ。順位逆転じゃのうハコガク」

 箱学の姿を捉えた待宮は、肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべていた。


「新開」

 トップを走っている福富が、前にいる新開に声をかける。

「後ろでなにか起きたみたいだね」

 パワーバーをくわえた新開は、福富の話の内容を言い当てた。

「靖友たち、大丈夫かな」
「ここで落ちるようならインハイメンバーに選んでいない。……新開、もっとスピードを上げろ」
「OK寿一」

 新開が平然とした顔でスピードを上げる。後ろで金城を引いて走っている今泉の顔が苦痛にゆがむ。
 風を切りながら福富は、昨日の晩の出来事を振り返る。
 昨晩、食事を終えてソファでのんびりしている荒北に、ひとつのオーダーを伝えた。

「レース中、真波が落ちたら引っ張って連れ戻してくれ」

 予想どおり荒北は反対したが、最後には納得いかない様子のまましぶしぶと受け入れてくれた。
 もし、福富の予想が当たれば、今日真波は最終ステージの大きな鍵となる。
 箱学が総合優勝を手にするために、荒北の手を割いてでも、真波を舞台に立たせる必要があるのだ。

「任せたぞ、荒北」

 や昔の野球仲間と向き合い、スランプの壁を乗り越えられたお前ならできるはずだ。
 福富が小さくつぶやき、新開の後ろを走る。総北高校の二人は大きく息を荒らげながら、疾走する彼らの後ろに喰らいついていた。


 荒北と合流した後、真波山岳は総北高校の小野田坂道と共に三人でコースを走っていた。
 先ほどの荒北の引きはジェットコースターを連想させる激しい引きだった。これなら東堂たちにもうすぐ合流できるだろう。
 しかし真波は表情を緩めない。いまだに見えない待宮たちが、先頭を走っている福富たちに迫りつつあるからだ。
 ――どうする、荒北さん。このままじゃ呉南の人たちが福富さんを追い抜いて、ステージ優勝を手にしちゃうよ。
 ガラス玉のような瞳で荒北の背中を見つめる真波。荒北は息を切らしながら、ペダルを回す足を緩めずに走っている。

 ◆

 機材トラブルが解決しないまま給水所に着いてしまった。中間リザルトが確認できないため、今箱学がどこを走っているのかもわからない。荒北くんたちが集団に呑み込まれたか否かもわからずに、不安な気持ちのまま沿道に立つ。
 近くで携帯で通話をしている観客の一人に目が留まる。通話を終えた観客が、興奮した様子で連れの人に内容を伝える。

「さっき友達が一人リタイアしたとこ見たってよ! 水色ジャージだって言ってたけど、もしかして箱学だったりして!」

 ――頭の中が真っ白になる。
 去年の秋のレースを思い出す。雨が降りだした時、荒北くんはメカトラと不注意が重なって落車して、ボロボロになった彼はレースを棄権した。まさかあの時と同じことが起きたんじゃ……。

「惑わされないで。まだ箱学と決まったわけじゃありません」

 隣にいた織田くんの一声に、来た道を戻ろうとして思いとどまる。……そうだ、まだ荒北くんだと決まったわけじゃない。インハイ前日にあげたお守りに願いを託し、彼の無事を祈る。
 いつ誰が来るかわからない道の先を見やる。客の歓声はいまだに聞こえない。

さんは、荒北さんのことが好きなんですか?」
「えっ」
「朝、呉南の人が荒北さんに啖呵を切っていた時、庇おうとしていたので……」

 織田くんの顔を見る。こんな時に、どうしてそんなことを聞くのか……織田くんの真意はわからない。
 私は迷った末に、本当のことを口にした。

「……好きだよ。荒北くんのこと」
「たぶん、荒北さんも同じ気持ちだと思います」
「それは知ってるよ」
「えぇっ!? じゃ、じゃあ、こ、恋人同士なんですか?」
「違うよ。ただの部活仲間」
「両思いだとわかっているならなんで……」
「約束したんだ。インハイが終わるまで部活仲間のままでいるって。……インハイに出るためには遊んでる余裕がないこと織田くんも知ってるよね」
「そりゃあ知ってますけど、今時珍しい約束ですね。……でも、あの人の性格を考えたらそう言いそうです」

 不安な気持ちを吹き飛ばすように、穏やかな風が吹く。
 こうしているとまるで、秋の日のレースに逆戻りしたみたいだ。あの時は天気が逆で、憂鬱な気持ちになりそうな曇天の天気だったけれど。

「合宿三日目の朝、さんに言われたことが気になって、こっそりロードバイクに乗ってみたんです。色んな人が自転車で走る姿をたくさん見てきたのに、いざ乗ろうとするとなかなかうまくいかなくて。その時たまたま会った荒北さんに、ロードバイクの乗り方を教えてもらいました。ある程度乗れるようになったら周回コースに連れていかれましたけどね。荒北さんの指導は鬼教官並みで、あの時は怖かったです」

 織田くんが当時の出来事を振り返っては苦笑する。

「あの人がこんなところで負けるとは思いたくないんです……」

 目を伏せる織田くん。きっと織田くんは、荒北くんのことを信頼しているのだろう。
 だから合宿の日を境に、織田くんの自転車部に対する姿勢が変わったんだ……。

「ねぇ、さん。なんで荒北さんのことを好きになったんですか? あの人、メンドクセーだのウザいだの口が悪いですし、普段の態度もあまりいいものではありません」

 ボクが入部する前、先輩には生意気な態度を取っていたそうですし、正直、東堂さんたちに比べたら顔立ちはいい部類ではありませんし。荒北くんの短所をいくつも挙げる織田くんに、苦笑が漏れる。長い間近くにいたからすっかり忘れてたけれど、そういえば彼はそんな人だった。

「初めて会った時、私荒北くんのことが苦手だったんだ。いつも怒ってるみたいで、正直怖かった。……でも、ある日私に夢を教えてくれたんだ。インハイに出たいから、毎日自主練習をしてるんだって。その時から私は、荒北くんに惹かれたんだと思う」
「時々、最後にボクがしまったはずの備品の位置が変わっていたので疑問に思っていましたが……あれは荒北さんの努力の跡だったんですね」

 織田くんが目を細めて笑う。その表情につられて口元が緩んでしまう。
 ここに来るまで荒北くんは長い間自転車に乗っていた。私に出会う前から、この地に立つまでずっと――。
 ずっと、荒北くんのことを見てきた私にならわかる。荒北くんは必ずここにたどり着く。こんなところでリタイアしてしまったら、彼の夢はかなわないのだから――。

「先頭来るぞ!」

 給水係の声に、顔を上げて道の先を見やる。
 胸の鼓動が一気に速くなって、一番先に見えるのは水色のジャージであることを祈る。

「あ……」

 姿が見えた瞬間、うれしさのあまり一粒の涙が零れた。
 福富くんたち六人が、揃って給水所を通過する。

「福富さん、頑張ってください!」
「真波、こっからお前の好きな山だ! しっかりやれよ!」
「泉田さん、お疲れ様です!」
「新開さん、パワーバーたっぷり入れておきました!」
「東堂さん、山神の意地見せてください!」

 士気が高まった給水組が、担当する選手に補給を渡す。

「荒北くんっ――!」
「昨日の約束、忘れんなよ! ゴール前でオレらを待ってろ!」

 言うと同時に荒北くんがサコッシュを受け取った。力強い手応えに、笑って荒北くんの背中を見送る。
 補給を受け取った箱学が道の向こうに消える。箱学の後ろを総北、総北の後ろには京伏の御堂筋くんと石垣くんが追って走る。

「よかった……」
「これでボクたちの仕事は終わりましたね」
「ゴール前で福富くんたちを待とう!」

 給水組のみんなに号令をかけて車に乗り込む。
 このまま私は、荒北くんがゴールに来るって信じてた。しかし――