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サイクルジャージのポケットにあるお守りに手を触れる。
息は切れ切れで、呉南の時に使った足はボロボロで。もうすぐ、体力が尽きることを悟る。
できれば、この先にあるスプリントリザルトで賞を獲ってアイツに花束を渡したかったけれど。たぶんそれは、かなわない夢に終わるのだろう。
スプリントリザルトまであと一キロメートルの看板が見える。
ゴールまであと少し。ようやく六人になった箱学と総北。たった二人で喰らいついてくる京伏の二人。この中から一人、総合優勝を手にするヤツが出てくるはずだ。
今までに経験したことのない大舞台に気がつけば手が震えている。今なら誰よりも速く走れそうだ。
「新開!! 代われ!! 箱学はオレが引くぜっ!!」
先頭を走っている新開の前に出る。さっきまで受けなかった風が一気に押し寄せてきた。
オレが箱学を勝たすんだ!! エースをゴールにまで連れてってやんよ!!
――観客。照らす日差し。
ここに来て福チャンの言っていたことがようやくわかった。インハイ最終日の先頭はハンパなくキモチイイ。――マジで。
だんだん視界がかすんでいく。最後の力を振り絞ってペダルを踏んだ時、オレの隣にはいつの間にかアイツがいた。オレとそっくりな顔をして、いつの日かオレに忠告してきたアイツ。手を伸ばせば触れそうな距離で並走をしている。
「君は、思いを取って夢を捨てることを選んだんだね」
「不思議なモンだろ。結果的に両方手にしてオレは今ここに立っている」
「初めて君を見た時、オレは思ったよ。もし君が、おもわず肘を壊したことを思い出してしまうような苦しい場面に遭遇したとき、どうするのかなってね。てっきりオレは、君が思いを捨てて夢を取ると思っていたよ。せっかくここまで来たのに走れなくなってしまうことは、君にとって苦痛だったはずだ」
「最初はオレもそうしようと思ったけどな。……だけど、できなかった。もし、アイツになにかあったらと思うと……どんなことよりも怖くてたまらない。オレは、アイツの手を離してまで強くなることなんてできなかった」
突然、ペダルが重くなった。
けれどオレはもう迷わない。ハンドルをしっかり握って、前を向いてペダルを踏む。
「だからオレはアイツらに向き合って強くなることに決めた。これから先どんなことがあろうとも……たとえもう一度故障しようがンなモンは上等だ。何度だって這い上がってやらぁ。どんなにつらい思いをしても、の手は絶対に離さない」
思いをこめてペダルを踏む。さっきまであんなに重かったペダルは、今では嘘のように軽い。
強く言い切ったオレに、男が微笑する。
「この三年間で君は随分と変わったね。昔のオレが見たらびっくりすると思うけど、君は立派になった。……でも君は、ゴールに行けない。もし君がエースアシストという役割じゃなければ、この先のコースで何らかの賞をもらえたかもしれないし、あわよくば彼女に花束を渡せたかもしれないのに」
ちくりと胸が痛む。……けど、それでいい。
「オレが望むのは福チャン率いる箱学の勝利だ。称賛もトロフィーもいらねェ。もきっと、オレたちが勝つって信じてゴールで待っているはずだ。箱学の足引っ張って、負けるなんてマネは絶対にゴメンだ」
「献身的だね。だから彼は、君にエースアシストの役割を託したのかもしれない。……本来なら君は卒業間近になって、やっと過去の自分に向き合うのに。オレが考えている以上に荒北靖友という人物は強いのかもしれない」
男がふっと笑って、オレの後ろに下がる。
「君に力を貸してあげるよ。君がもっと速く走れるように。力尽きるその時まで、全力で箱学を引けるように。……さぁ、行け! 彼女と出会って新たな壁を乗り越えた君は、オレよりもっと遠くへ行けるはずだ!」
男に背中を押されて、さらに加速する。
二度目に出場したレースで福チャンに背中を押されて、一位でゴールラインを通過したことを思い出した。
誰か知らねェけどありがとよ。これならもっともっと速く走れそうだ――。
夢から目が覚めた時、気がつけばオレは空を仰いでいた。抜けるような青空の向こうには白い鳥が飛んでいる。
隣には田所が総北を引いて走っていて、オレの後ろには福チャンたちがいる。
もうそろそろバテると思ったけど、あともう少しだけ行けそうだ。ブラケットを握り、サドルから腰を上げる。
仕切り直しだ。――さぁ、今度こそ、最後の一仕事といこうじゃねェか。
◆
タクシーから降りた後藤教頭が、人の間を縫って沿道に立つ。本来はゴール前に向かう予定だったのだが、出発が遅くなり道路は渋滞。痺れを切らした後藤はここで降りた。
さしていた日傘をずらすと、隣の人と肩がぶつかった。
「ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそ」
無精髭を生やしたジャージの男が謝る。男の近くには野球部のユニフォームを着た男子中学生がいる。ユニフォームに書かれている学校名を見ると、横浜の中学校。どうやらこの男は自分と同じ教職員のようだ。
「野球部の顧問の先生?」
「はい。今日は教え子がレースに参加してて、横浜からここまで来たんです。ひょっとしてあなたも?」
「えぇ。同じ県内の私立の教頭を務めておりますの。応援……というよりは視察ですけど」
「教頭先生でしたか。こんな暑いのに大変ですなぁ」
男――佐々部は顔に滴る汗をタオルで拭くと、隣にいた私服の男に声をかけた。
「おい南雲。ここに来てだいぶ立つけど本当に来るのか?」
「来ますよぅ。中間リザルトに靖友の名前ありますもん」
「先生が応援に来ている教え子ってどんな子なのかしら」
「長い長い話になりますが……」
「聞かせてくださる? 先頭が来るまでだいぶ時間がありそうですもの」
誰も来ない道の先を見ながら、後藤が話を促す。
佐々部は一拍置くと、穏やかな口調で語り始めた。
「ある日、うちの野球部に一人の男がいました。そいつはガキの頃から野球が好きで、部活では投手として活躍していました。一年の頃は新人賞を獲って、二年の県大会では活躍すると意気込んでいたそいつは……肘の故障をきっかけに野球をやめてしまいました。後にそいつは不良になって、肘を壊したことを周りのヤツらのせいだと責め立てるようになりました」
その男がどんな道を歩んできたのか想像した後藤は、唇を一文字に結んだ。
「昔のことを引きずったまま卒業したアイツは、高校でロードバイクという自転車に出会いました。もう一度、どこまで行けるかを試してみたい。新しい夢を持ったそいつはかけがえのない仲間と出会い、長かった髪をばっさり切りました。……しかし」
佐々部の言葉は続く。
「高二の夏から野球部のことを思い出したアイツは、今度はスランプに苛まれて走れなくなりました。アイツはもがいて、苦しんで、野球部のことを思い出す原因になったヤツを突き放して……。たくさん悩んだ末にアイツは、昔の自分と向き合いました。あの日、久しぶりに中学に来たアイツは……見違えるほど大人になったと思います」
去年の冬、中学に訪れた荒北のことを思い出す。
荒北が中学を卒業した後も、佐々部は荒北のことを時々思い出しては案じていた。
だからこそ、わざわざ母校に足を運んでは、過去に向き合おうとしてくれたことがうれしかった。教え子の前で泣いては面子が立たないと思いこらえていたが、当時は涙が零れそうで大変だった。
「そいつが今日、夢に見ていたインハイでどんな走りを見せてくれるのか……。この目に焼き付けておきたいんです」
「その男の子……名前はなんて?」
「荒北靖友。今は箱根学園という学校の三年生です」
「荒北って……元不良の子じゃない!!」
それまで穏やかな表情で佐々部の話を聞いていた後藤が、嫌悪をあらわにする。
荒北靖友。一年の春、教師に向かって暴言を吐いたことが何度もあり、学校の備品も壊したことがある問題児。自転車部に入ってからは大人しくなったが、かつて複数の教師から困った顔をされて報告を受けたことを後藤は忘れない。
「そんな子にこのレースでなにができるっていうの!?」
「それは、靖友の走りを実際に見てみたらわかると思います」
佐々部と後藤の会話に割り込んできたのは南雲だった。かつて荒北とバッテリーを組んで長い時間を過ごした南雲は、彼の強さを知っている。
納得いかない後藤が口を閉ざす。こんな生徒にまで入部を許可しているから自転車部はダメなのだ!
後藤にとって自転車はただの道具だ。わざわざ金をかけて速さを競い合うなどバカバカしい。心の底から強くそう思っていた。
やはり、総合優勝を逃したら部活を縮小させよう。こんな部活など、保護者にも他の部にも迷惑がかかるだけだ。
「来ましたよ先頭集団!」
南雲の声に弾かれて前を見る。
道の先に、箱根学園の選手五人を引いて走っている男がいた。ゴール前のような異様な引き。おもわず、見惚れてしまった。
「荒北ー!! そのまま突っ走れ!!」
「靖友ー!! スプリントリザルトまであと少し!!」
かつて荒北と同じ時間を過ごしていた者たちが、大きな声で荒北に声援を送る。
あれが自転車に多くの時間を割いた者の走る姿なのか。荒北の力強い走りに後藤は、学生時代にバスケをやっていた時のことを思い出す。あの頃の自分は、自分のチームを優勝に導こうと、コートの中をがむしゃらに走り回っていた――。
力強いスプリントで走る荒北は、苦しそうだが同時に楽しそうだ。
佐々部の話を思い出す。今彼は、どんな気持ちで走っているのだろうか……。そう思ったら日傘がジャマだ。日傘をすばやく閉じてバッグの中に突っ込み、両手をハの字にして大声で叫ぶ。
「頑張れ頑張れ!!」
昔は問題児だったとか、そんなのはどうでもいい! 全力で走る生徒の姿を見て、後藤は心を動かされた。
「箱学いけえええええっっ!!」
荒北率いる箱学が、後藤たちの前を一瞬で通り過ぎる。大勢の観客の声援を背中に受けた荒北たちは、だんだん遠くなってやがて見えなくなってしまった。
……周りのことも考えず、大声を上げてしまった。佐々部と視線がぶつかった後藤は顔を赤らめる。佐々部はにっこりと笑い、南雲は満足そうな表情で、誰もいなくなった道を見つめていた。
全身全霊で走る荒北の姿に、多くの観客が心打たれた。観客の中には、前にが自転車の乗り方を教えた二人の子どもがいた。泉田の活躍見たさでスプリントリザルト前の沿道に立っていた二人は、荒北の走る姿を見つめていた。
一人の少年は固唾を飲み、一人の少女は目を見開いている。二人は、エースアシストという役割を知らない。だが、全力で走る荒北の姿には言葉を失って見入るものがあった。
「――あばよ、箱学」
荒北が失速し、地に足をつける。
五人になった箱学は荒北を拾うことなく前に進む。
「どうした二番!?」
「力尽きたか!?」
周囲にいた観客が一斉にざわつきはじめる。荒北靖友はうつむいたまま、息が収まるのを待っていた。
ようやく息が収まって、顔を上げる。
どこまでも続く青い空。ギラギラと照らす日差し。割れんばかりの客の歓声。延々と続く道の先に、箱学の姿はもう見えない。
視界が、どんどんにじんでいく。
ひたすら、この場所を目指して必死に走ってきた。
ゴールまで行けなかったけれど悔いはねェ。
一迅の風が吹いた。生ぬるくて優しい風がオレを包む。
ここが、オレの終着点――。この日のことは、一生忘れないだろう。
沿道に立っていたスタッフが荒北に駆け寄り、二言、三言話すと耳に無線機を添える。
「箱学二番、棄権の申し出あり。今から救護テントに連れていきます」
無線機をしまったスタッフが荒北に肩を貸す。肩を借りた荒北は弱々しい足取りで、近くに停まっている車に向かう。
「ま、茉莉花っ!」
止める母の声にも立ち止まらずに、一人の少女が人の間を縫って走る。コースと沿道の境目にたどり着き、車に乗り込もうとする荒北に向かって声をかける。
「あの、お兄ちゃんっ」
「……なんだ?」
「お姉ちゃんのこと、知っていますか?」
荒北を見た時、真っ先に思ったことはが着ていたジャージとそっくりなものを着ていること。
頑張ったねとか、なんでチームの人はお兄ちゃんを追いてっちゃったのとか、色々聞きたいことはあったはずなのに。真っ先に口をついて出たのは、五月に出会った彼女のことだった。
「……あぁ、知ってるよ」
スタッフから肩を離し、顔を上げる荒北。
「オレの一番、大切なヤツだ」
箱学の誇り高きエースアシストが少女に向かって笑う。目指していた場所にたどり着いた彼は、心の底から笑って――少女の問いに優しく答えていた。