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 パソコンの画面が切り替わり、一番近くにいた織田くんの表情が変わる。

「スプリントリザルト一位は新開さんっ!! やったぁ、やりました!!」

 車内が歓喜に包まれる。新開くん、リザルト獲ったんだ……!

「さすが新開さん! ここで直線鬼を見せた!」
「御堂筋のヤツ、やけに大人しいな。山岳で仕掛けてくんのかな……?」
「アイツがどう出ようが箱学は負けねーよ! こっちは福富さんはじめ、エース揃いなんだ!」
「……あれ、電話だ。ちょっとすみません」

 織田くんが耳に携帯電話を添え、電話をかけてきた相手と話す。次第に表情が曇り、浮かない顔のまま通話を終えた。

「……スプリントリザルト前で荒北さんリタイア。今、スタッフの車で救護テントに向かっているそうです」
「えっ!? な、なにかの間違いじゃないかな……?」

 だって、補給を渡した時、荒北くんは元気そうだった。レース中にあまり見せない顔で、ゴール前でオレらを待ってろって言ってて……!

「今回は本部から連絡がありました。荒北さんは、間違いなくリタイアです」

 織田くんが私の耳元に口を寄せる。

さんはここで車を降りてください。もう補給の仕事は終わりました。あなたが荒北さんのところに行っても、誰も文句は言いません」

 それだけ言って、織田くんは私から距離を取った。私のことを気遣って言ってくれたのだろう。
 ここでOBに言えば、車を降りることができる。救護テントで休んでいるであろう荒北くんに向かって、ねぎらいの言葉をかけることができるんだ。

「あの――」

 その時、昨日の夜荒北くんと交わした約束を思い出す。

『……お前は、最後までレースを見届けろよ』

 ――ひどいや、荒北くんは。

『オレや他の奴らが精一杯走っているところをちゃんとその目に焼き付けておけ』

 こんなこと言われちゃ、引き返せないよ……!

『それが……オレがここまで来たことの証になるから』

「どうした、
「……なんでもありません」
さんっ!!」

 怒鳴る織田くん。それでも、私の心は変わらない。

「約束、したんだ。最終日の今日、最後までレースを見届けるって。だから私は行かない。途中で車を降りたりなんてしない」

 もし、これが荒北くんの彼女だったら、迷うことなく車を降りるのだろう。
 でも、私は降りない。荒北くんの約束と――これからみんながつないでいくレースがどんな結末を迎えるのか。自転車部のマネージャーとして、インハイを夢見た私にとって。荒北くんのもとに行く前に、結末を見届ける義務がある。

「……ボクはちゃんと言いましたから。後であの時なんで行かなかったんだろうって言わないでくださいよ」

 冷たく言ってそっぽを向く織田くん。織田くんの優しさがうれしくて、視界が涙でにじむ。
 最後、荒北くんはなにを思って走ったのだろう。見たがっていたインハイの景色をちゃんと見られただろうか。彼の夢はかなったのだろうか。
 荒北くんの口から聞くまで――私には知るすべがない。

「昔、エースアシストやってたんだけどよ、アシストって報われない役割でさ。チームを勝たせるために自ら陰日向となって働く。自分がどんなに頑張っても称賛を受けるのはエース。栄光の記録には残らないし、プロになっても注目を浴びなきゃ契約は切られるし、誇りしかない役割なんだよ」

 車を運転していたOBがぽつりぽつりと語る。

「たぶん荒北は……チームのために最後まで全力を尽くしたんだろう。じゃないと、箱学のエースアシストなんて務まらないだろ。……ま、オレの勝手な予想だけどさ」

 OBの一言に、不安な気持ちが薄れていく。
 そうだ……。荒北くんはリタイアする前に全力を尽くしたんだ。箱学が少しでも優勝に手が届くように。エースアシストとしての役割を全うした。
 昔、誰かが言っていた。エースアシストは己の名誉にこだわらず、エースをゴールにまで導く。献身的な役割にサクリファイスという比喩もあるという。
 三日間の間、荒北くんが尽くしてきたであろう一部始終は記録に刻まれることはない。それでも――長い間彼を見てきた私だからこそ、彼がどんな思いで走って、リタイアしたのか想像がつく。
 荒北くんが命懸けで引いたチーム。それに対して私のするべきことは――

「車から降りるなら今のうちだぜ。これから先は混んでて簡単に停車できそうにない」
「……行ってください。荒北くんが全力を尽くしたのならなおさら、この目で結果を見届けなきゃいけないんです」

 ルームミラーに、にっこりと笑うOBの顔が映った。
 車の速度が上がり、窓の外に見える景色の流れが早くなる。
 ……荒北くんは救護テントについただろうか。ぼんやりと思いながら、窓の外を見つめる。

 その後、レースの展開が目まぐるしく変わった。

 ――泉田、槍の如き走りを見せリタイア。力を使いきった走りは、チームに大きく貢献した。
 ――新開、田所とスプリント争いをして失速。あざみラインに滑り込んだのは福富、東堂、真波の三名。
 ――金城、左足を痛めリタイア。総北からあざみラインに入ったのは巻島、今泉、鳴子、小野田の四名。遅れて御堂筋と石垣が坂に入る。
 ――鳴子、今泉ら三人を引いてリタイア。スプリンターであるはずの彼は山岳コースで今までに見せなかった新技を披露し、トップを走っている福富たちに迫った。
 ――今泉が飛び出し、福富と先頭争いをする。一方優勝候補である巻島は、東堂のブロックに入った。山岳コースが得意な二人だが、彼らが優勝を獲る可能性は低くなった。
 ――御堂筋、リタイア。先頭を走っている選手が今泉と福富から、真波と小野田に変わる。

 続々と上がる報告を車内で聞いている時、みんなが沈黙した。
 去年よりも、いや、史上最高の熱を持ったロードレース。誰しもが勝利の行方に息を呑んでいる。
 ゴールに着いた時、急いで車から降りて会場を捜す。会場にある大きなモニタには、小野田くんと真波くん二人の姿が映っていた。
 まさか、真波くんが優勝を賭けた先頭を走っているなんて……! こんな展開、誰が予想できただろうか――!!

さん、こっち!」

 織田くんに手を引かれてゴールゲートの付近に行く。
 人の垣根を分けて立った先に、二人の姿が見えた。

「ゴールまで残り五百メートルッ!!」
「総北頑張れーっ!!」
「いっけー箱学!!」
「真波! 負けたら承知しないからなぁーっっ!!」
「三百メートルッッ!!」
「真波っ!!」
「小野田くんっ!!」
「いけいけいけーっ!!」
「真波くん頑張って!!」
「回せ! もっと回せ!」
「百メートルッッ!!」
「小野田ァァァ!!」
「いっっけぇぇぇ!!」

 二人が、ゴールゲートの下を通過する――!
 ハンドルから手を離して、両手を上げたのは――

『ゴ――――ルッッ!! インターハイ自転車ロードレース三日目!! 最初にゴールラインを通過したのは176番、小野田坂道選手ッッ!!』