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町並みが一望できる人気のない場所で、やっと真波くんの姿を見つけた。誰にも見られないように背中を向けて、肩を震わせて泣いている。
表彰式の時間が迫っているけれど、声をかけていいものだろうか……。必死に手の甲で涙を拭っているしぐさに、声をかけるのをためらってしまう。
マネージャーの私には、真波くんのつらさを完全に理解してあげられることができない。私が声をかけたとしても、真波くんを傷つけてしまうだけではないだろうか。
声をかけないまま踵を翻す。一歩踏みだそうとした時、去年の冬に真波くんが言った言葉を思い出す。
『もしオレがなにかに悩んでいたら、その時は助けてください』
かつて荒北くんのことで悩んでいた時、手を差し伸べてくれた真波くんに私は、彼が悩んでいるときに全力で力になることを約束した。
――真波くんを放っておくわけにはいかない。引き返して、真波くんの肩にそっと手を触れる。
真波くんが振り返る。普段の彼からは想像もつかないほどに、頬が涙で濡れていた。
「……さん。ゴメンなさい、一人にしてもらえますか? 今のオレ、余裕なくて……」
真波くんの目から一筋の涙が流れる。つられて私も泣きそうになるけれど、今は真波くんを支えてあげることが先決だ。涙を呑んで言葉を紡ぐ。
「もうすぐ、表彰式が始まるんだ。今日は最終日だから……真波くんは出なきゃいけない」
「じゃあ、一人にしてください。おもいっきり涙を流したらテントに戻るんで……」
「背中を貸してあげるよ。あの時、真波くんには助けてもらったから……次は私が助ける番」
真波くんに背中を向けて、その場に座る。
コツンと、背中になにかが当たる感触がした。真波くんが向かい合わせに座っているのだろう。
「……うっ……うっ……。……あ、あぁぁあああ!!」
すすり泣きが大泣きに変化する。時間が許すまで、真波くんのそばにいた。
表彰式が終わった後、重い足取りでテントが並んでいる道を歩く。大会の余韻に浸りお喋りをする人、「惜しかった」と涙を流し仲間と抱き合う選手。慌ただしく撤収の準備を進める部員の姿などが見えた。
……そういえば荒北くんは近くにいるのだろうか。ぼんやりと考えていると、後ろから誰かに呼び止められた。
「。遅くなっちゃったけど花束」
私を呼び止めたのは新開くんだった。新開くんから大きな花束を受け取る。
「ありがとう、新開くん」
「……その花束、本当は靖友がもらうべきものだったんだ。スプリントリザルト前……呉南戦で力を使い切った靖友は、全力でオレたちのことを引いてくれた。さっきやっこさんに会った時、あげようかって言ったら『いらねェよ』って怒られちまったんだけど」
苦笑していた新開くんの眉尻が下がる。
「本当は靖友に一番もらいたかったんだろう?」
自分でも気づかなかったことを突かれて、心臓が跳ねる。
新開くんになんて言えばいいのだろう……。返す言葉に迷っていると、新開くんが微笑した。
「何年と一緒にいると思ってるんだ。オレには、なんとなく二人のことがわかるよ」
二人が話しているところを見た時の寿一、なんだかうれしそうだし。苦笑が漏れてしまいそうな言葉を添えて新開くんは言った。
「荒北くんにはもうたくさんの物をもらったから。こんなにもらったら一生かかっても返しきれないよ」
笑って花束に視線を落とす。荒北くんにはたくさんのものをもらった。もし、心の片隅にそういう気持ちがあったとしても……私は、充分すぎるくらいに幸せ者だ。
「……そっか。それを聞いたら靖友も喜ぶと思う。……改めて、今までありがとな。オレ、を自転車部のマネージャーに誘ってよかった。がいなかったらウサ吉のことで苦しんでたままだったし、寿一は一人で思いつめてたかもしれない。箱学を出たときには今度こそ離ればなれになっちゃうけど……もしおめさんが悩んでいるときは、遠慮なく呼んでくれ。すぐに駆けつけるよ」
そう言って新開くんは後ろの方角を指さした。
「さっきあっちの方で靖友を見かけたよ。早く行っておいで」
「ありがとう」
新開くんにお礼を言って、荒北くんがいる場所に向かって駆け出す。
さっき真波くんが泣いていた場所に荒北くんはいた。木の幹に背中をつけて、ベプシを飲んでいる。
「荒北くん――」
「……そうか。荒北はカノジョとここまで来たんじゃな」
「ば、バカッ!! まだカノジョじゃねェっつってんだろ!!」
荒北くんの隣には、待宮くんがいた。
荒北くんと同じベプシを片手に、地平線に沈みゆく夕日を見ている。
「ワシはもっと速くなるためにカノジョと別れた。ワシの選択は間違いじゃったんかのぅ」
「さぁな。オレにはわかんねーよ。……ただ、オレはあの時、野球部のヤツらやのことから目を背けてた。オレが強くなるためには、アイツらに向き合わなきゃいけなかったんだ」
「……カノジョのこと、大切にしい。ワシにはもうできないことじゃ」
「あぁ。絶対に大切にする。アイツが困っているときは、必ず力になってやる」
荒北くんの言葉を聞いて、涙が零れる。
彼らに気づかれないように、そっと引き返す。歩いているうちに、涙が溢れてきた。
道行く人に見られないようにうつむいて歩いていると、誰かの肩にぶつかった。
「……御堂筋、くん」
ぶつかったのは御堂筋くんだった。泣いている私を見ても、彼はなにも言わない。
たしか、御堂筋くんは最後のコースで力尽きてリタイアした。真波くんと同じで、全力で勝負した末に敗者となった彼もまた、悔しい気持ちを胸に抱えているのだろう。
御堂筋くんは私を一瞥すると、無言のままその場を去ろうとする。
「御堂筋くんはここで終わらないよねっ!?」
「……なに言うとるんキミ。バカなの?」
御堂筋くんがぴたりと立ち止まり、振り返る。
「キミの箱学は四人消えるけど、ボクは来年もここに立つ権利がある。ボクは勝つためにここにいるんや。このまま負けっぱなしなんて絶対に嫌やわ」
そう言うと御堂筋くんが突然なにかを投げた。受け取ると、それは花束だった。
「家に花瓶が一個しかないんや。捨てるのももったいないからキミにやるわ」
ぶっきらぼうにそう言って、すたすたと歩いていく。
「ありがとう、御堂筋くん!」
大声でお礼を言う。御堂筋くんはそのまま去っていってしまった。
御堂筋くんにもらった花束を手に、テントに戻ると人だかりができていた。
自転車部の部員たちと……あれは教頭先生だ。教頭先生の前には福富くんがいる。
「私は総合優勝と言ったはずよ」
日傘をさした教頭先生が冷たく告げる。真波くんが人の合間を縫って、一歩前に出る。
「優勝を獲れなかったのはオレの責任です。部活を縮小するというのならオレが――」
「真波っ!!」
真波くんが言おうとしていた言葉を泉田くんが遮る。意を決した福富くんが前に出ようとしたが、この場に遅れて駆けつけた荒北くんが手で制止した。
「福チャンが頭下げるこたぁねーよ。こういう役目はアシストに任せとけ」
荒北くんは不敵に笑うと、教頭先生に鋭い視線を向ける。毅然とした表情で地面に手をつけて、深く頭を下げる。
「教頭先生。来年、挽回するチャンスをください」
らしくない荒北くんの行動に、その場にいた誰もが息を呑む。
「オレは、どうしようもない時に福チャンに会って……自転車部に入って、もう一度夢を見ることができました。この部活がなきゃ、オレはあの頃にとらわれたままだった。大人には大人のルールがある。それは充分にわかっています。……けど、一度きりの勝負に負けたからって、はいそうですかなんて言えるわけねェ。オレにとってこの部活は、とても大切な場所なんだ。だからどうか……もう一度チャンスをください」
考えるよりも先に体が動いた。荒北くんの隣に並び、教頭先生の前に立つ。
「私からもお願いします、教頭先生! 私は、二年からこの部活に入りましたが……二年間の間、色んな問題にぶつかっていく人たちの姿を見て、時に私も悩んだりしました。荒北くんにとってそうであるように、私にとってもこの部活は大事な場所なんです。だから、もう一度チャンスをください」
「後藤教頭。……オレも、と荒北と同じ意見です。もう一年時間をください」
福富くんと同時に深く頭を下げる。新開くんと東堂くんが一歩前に出ると教頭は、
「待ちなさい! あなたたちは最後まで人の話を聞けないの!?」
よくわからない怒声に、驚いて頭を上げる。
「別に、今年のインハイで優勝を獲れなんて言ってないでしょう?」
「で、でも、今朝の態度は……」
「お黙りなさいっ! そんな昔のことなんて忘れたわよっ!!」
昔って、数時間前のことなんだけど……。口に出してツッコむ勇気のある人はいない。
「負けたのがそんなに悔しいのなら、来年総合優勝を獲りなさい。一部で自転車部の廃部を望む保護者がいるようですが、あなたたちは気にせず部活に取り組みなさい。それで、わからず屋の保護者たちにロードレースの魅力を教えてやりなさいな」
「教頭先生……?」
「あんなに熱いレースを見たら……誰だって考えが変わるわよ」
ふっと笑んだ教頭先生が、再び厳しい顔つきに変わる。
「今年は敗れたとはいえ、あなたたちが王者であることに変わりはないわ。ここから這い上がり、来年優勝トロフィーを奪還なさい! それがあなたたちの絶対の使命よっ!!」
「はいっ!!」
自転車部一同が一斉に声を上げる。
今日のレースで教頭先生がなにを見たのかはわからないけれど、自転車部の縮小は免れた。
……でも、それでも今日総北に負けた事実は変わらない。
帰りのバスの中、色んな人からもらった花束を手に、窓の外から流れ行く景色を見ていた。
車内は静かで、時々すすり泣く声が聞こえる。隣にいる福富くんは目を閉じていて、後ろにいる新開くんや東堂くんは今どんな顔をしているのかはわからない。少なくとも、あまりいい気持ちじゃないことはたしかだ。
――夏が、終わった。
あんなにも頑張って練習をして、インハイの舞台に立った箱学は――惜しくも準優勝という結果を残し、私たちの夏に幕が下りた。