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 インターハイが終わった後、引退式が行われ、数日後には東堂くんの誕生日パーティーがあり。閃光のように時が流れ、準優勝に終わったあの日から一週間が経った。
 部活のない日々に完全に燃え尽きてしまい、ソファに横になっていると玄関のチャイムが鳴った。気だるい気持ちでドアを開けると――

「……荒北くん」
「……オッス」

 私の家を訪ねてきたのは荒北くんだった。大型のエナメルバックを携えている。


 荒北くんを家に上げて、麦茶を差し出す。

「サンキュ」
「どうしたの、突然」
「特に用はねーけどお前んち泊まろうかと思って。……明日、実家に帰るんだ。アキちゃんに久しぶりに会えるのが楽しみだぜ」
「……そっか」

 すんなりと納得して、自分用に用意した麦茶に口をつける。
 あれからインハイの話には誰も触れない。東堂くんの誕生日パーティに福富くんたちと集まったことがあったけれど、あの時もみんなインハイのことは一言も口に出さなかった。

「窓側、すっげぇ花だらけだな」

 窓を見やる荒北くん。窓側には荒北くんの言うとおり、たくさんの花が並んでいる。

「福富くんたちにもらった物なんだ。おかげで花瓶を何個も買うことになっちゃったんだけど……」

 言いかけて口をつぐむ。今の話、荒北くんはどう思ってるんだろう。おそるおそる彼の表情を見ると、荒北くんは優しげに目を細めて花を見ている。
 その花を見てなにを思ったのか……私には聞く勇気がない。

「そういや新開のヤツ、福チャンとケンカしてよ。オレのパワーバー食ったの寿一だろうって鬼の形相で怒ってんの。後でそれは誤解だってことがわかったんだけどよ……」

 楽しそうに笑う荒北くん。彼もまた、インハイのことに触れようとしない。

「怒る新開に福チャンが怯んで、悪くないのに謝ったんだぜ。あの時の福チャン、珍しく焦ってて傑作だった」

 いつものように笑って、無難な話題を選ぶのだ――。

「……荒北くんは、悔しくないの?」
「あ? なにが」
「インハイ、負けたんだよ!?」

 一番つらいのは私ではなく選手の荒北くんたちだ。それは充分にわかってる。

「みんなあんなに頑張ったのに、総北に優勝を奪われて……」

 でも、今までの部活の日々を思い出したら、言わずにはいられない。

「一週間も経ったらケロッと忘れて笑って……荒北くんにとって、みんなにとって、インハイってその程度のものだったの!?」

 脳裏には夜一人で自主練習をする荒北くんの姿が浮かぶ。
 今まで、荒北くんが頑張っている姿を一番見てきた私だからこそ、胸にこみ上げてきた感情を抑えることができなかった。
 荒北くんの表情が真剣な色に変わり、私に近づく。

「悔しくないわけねぇよ」

 私の後頭部を支えて抱きしめる荒北くん。彼の胸に顔をうずめる。

「命懸けで箱学を引いたんだ。テントにいる時、箱学が優勝するって信じてたさ。……けど、負けた。アイツらに仲間の強さってヤツを見せつけられて負けた。悔しいけど、あんな力見せられたら、納得するしかねェだろ……」

 諭すような優しい声に、涙腺が刺激される。

「どんなに泣いたって、アイツらに負けた事実は変わりぁしないんだ」
「でも……泣きたくなるよ……。この日のために福富くんたちはいっぱい悩んで強くなったのに。荒北くんが、あんなに練習を頑張ってたのに」

 荒北くんに頭をなでられたことをきっかけに涙が零れる。

「……ごめん、荒北くん……私……」

 ついに抑えきれなくなった涙が頬に流れる。荒北くんはなにも言わず、私が泣きやむまで抱きしめてくれた。


「……で、待宮率いる集団に呑み込まれた時、小野田チャンに会ったんだけどよ」

 涙が枯れるまで泣いた後、荒北くんにインハイで見たことを教えてもらった。
 インハイ一日目、集団落車に巻き込まれた小野田くんが最下位から追い上げて、先頭にいる総北に追いついてきたこと。最後のゴール前で、今泉くんとアシスト勝負をしたこと。二日目、スプリント勝負で負けた新開くんら三人を引いて、福富くんたちと合流したこと。最終日の三日目、総北の小野田くんに出会い、彼の底に眠る才能に期待を寄せたこと。
 私にとって知るすべのなかった出来事の話はどれも新鮮で、時間を忘れて荒北くんの話を聞いていた。

「もうこんな時間か」

 掛け時計を見上げた荒北くんが言った。のせいで寝るタイミング見失っちまったじゃねーか。苦笑した荒北くんがソファから立ち上がる。

「始発出るし、もうそろそろ行く」
「寝なくて大丈夫? 少しくらい、仮眠してけば……」
「遠慮しとく。……あんまり長居すると、ずっとここにいたくなる」

 重たそうなバッグを肩にかける荒北くん。彼ともう少し一緒にいたくて、駅まで送ることにした。


 自転車を押しながら、荒北くんと一緒に駅までの道のりを歩く。辺りはまだ薄暗い。太陽の出ていない空に、夜道を歩いているような錯覚に陥る。

「もう部活はねーのかぁ。なんか急に走る必要がなくなったっつうのも変なカンジだな」
「その分、受験勉強があるけどね」
「嫌なこと思い出させやがってェ……」

 苦い顔をする荒北くん。荒北くんの反応に小さく笑ってしまった。

「……お前はさ、これからどうすんだ?」
「どうすんだって?」
「卒業まで、どう過ごすんだよ」
「私は……」

 これから、部活のない日々が続く。
 放課後に部活に参加することもなければ、夜荒北くんの自主練習を手伝うこともない。
 からっぽな日々が続きそうだけど、その中で私はやりたいことがある。

「前に、レースに出てみようかなって言ったの覚えてる? 十月にあるヒルクライムレースに出ようかなって思ってるの。学校を卒業する前に、一度参加しておきたいんだ。さすがに一位獲る気はないけれど……頑張った末に、どんな景色が見られるのかこの目で見てみたい」
「……そっか。ま、ヒマな時には練習手伝ってやるよ」
「ありがとう、荒北くんはどうするの?」
「勉強漬け。知ってるだろ、オレの成績」
「あはは……。前から聞こうと思ってたんだけど、どうして洋南大に行きたいの?」
「特に理由なんてねーよ」
「えっ」

 思ってもみなかった理由に、驚いて足を止める。荒北くんは不敵な笑みで、

「ただ、目標は高い方が燃えるだろ?」

 単純な理由を告げるのだった。
 私が好きになった人はこういう人だ。口が悪くて、その言葉の裏には優しさが秘められていて。面倒くさがり屋のくせに、高い目標を掲げて勇気を持って挑もうとする。
 その事実を改めて認識して、心の中が温かくなる。

「私も荒北くんの勉強手伝うよ。こっちも受験勉強しなきゃだし」
「またに手伝ってもらうのか。前と変わんねーな」

 穏やかに笑った荒北くんが空を仰ぐ。真っ暗だった空は、いつの間にか青色に変わりつつあった。


 駅のプラットホームに着くと人がいない。ここにいるのは私と荒北くん二人だけのようだ。

「今生の別れじゃねェんだ。ここまでついてこなくてもいいのに」

 言うわりにはうれしそうな荒北くん。目を細めて、電車の来ない線路を見つめている。

「……なぁ、。あん時の約束、覚えてるか? インハイ終わったらもう一度告るって話」
「……うん。覚えてるよ」
「オレは、お前のことが好きだ。卒業して離ればなれになったとしても、ずっと一緒にいたいって思ってる。……だからその……」

 私に向き直り、頬を朱に染める荒北くん。言葉が見つからないのか、頭をかいている。

『一番線に、電車が参ります――』

 私たち以外誰もいないプラットホームにアナウンスが響く。驚いた荒北くんが表情を引き締め、キッと私を見据える。

「お前のこと、一生引いてやるから……黙ってオレについてこい」
「……うん」

 荒北くんの顔が近づいて唇が重なる。初めてキスした時とは違う、ほんの一瞬の口づけだった。

「オレがいない間浮気すんじゃねーぞ」
「しないよ、そんなこと」

 笑んだ荒北くんが、電車に飛び乗る。すぐに扉が閉まり、電車が行ってしまった。


 駅を出ると、まぶしい朝日に目を細める。
 夢焦がれていた日々は過ぎ去り、一生忘れられないであろう思い出に化した。
 これから、部活のない日々が続いていく。
 ひとつの夢が終わってからっぽな気持ちになりそうだけど、まだまだやりたいことがたくさんある。
 十月にあるロードレースに向けてコツコツと練習しなきゃいけないし、卒業までの間、荒北くんと少しでも多くの時間を過ごしたい。
 それから……前に荒北くんに借りたアルバム。たくさんの写真で空白のページを埋めて、彼にアルバムを返したい。
 自転車のハンドルを握り、ペダルを踏んでサドルに跨る。爽やかな風が背中を押して、ゆっくりと走り出す。
 そういえば、荒北くんと出会った時もこんなに気持ちのいい風が吹いてたっけ。
 自転車部で過ごした日々を思い出しながら、前を向いてペダルを回した。