あれはそう、ロードバイクに興味を持ち始めた頃のことだ。福富くんにロードレースのDVDを借りて、自宅のリビングの大きなテレビで食い入るように見ていた。

 レースは終盤に入り、延々と続くアスファルトの上をトップで走るのは緑ジャージの選手。数メートル後ろには赤ジャージの選手二人がぴったりと並んで走っている。二人のうち、前にいるのは大柄の男、後ろにいるのは細身の男だ。
 赤ジャージ二人が、緑ジャージに近づいていく。追いつき、何秒か並走した後ついに追い越した。
 順位が逆転し、ここでトップを走っているのは赤ジャージのチームだ。このままいけば大柄の男が一位、細身の男が二位になるだろう。
 しかし、大柄の男はなにを思ったのか右にハンドルを切り、細身の男の隣に並ぶとなにかを伝える。細身の男はコクリとうなずき、前方に出た。
 細身の男が下ハンドルを握り、サドルから腰を上げる。ペダルの回転数を上げてこのまま逃げ切ろうとする。
 先ほど追い抜いたばかりの緑ジャージの選手が近づく。それを大柄の男が阻み、細身の男の独走が続く。
 細身の男がゴールラインを通過し、どっと歓声が上がった。

 その後に見た表彰式では、細身の男が一位、緑ジャージが二位、三位は大柄の男だった。
 このまま大柄の男が走っていれば、この人が一位になったはずなのに。大柄の男はどうして仲間に一位を譲ったのだろうか。大柄の男は暗い表情はみじんも見せず、微笑をたたえフラッシュの雨を浴びている。
 次の日、福富くんに聞いてみると彼はこう教えてくれた。

「それはエースアシストだろう。ロードレースはどのように体力を温存しどこで勝負をかけるか戦略が大事なのはこの前話したと思うが……。エースアシストは己の名誉にこだわらず、エースをゴールにまで導く。前を走りエースの空気抵抗を減らし、時に脅威となる敵の足止めをする。献身的な役割にサクリファイスという比喩もあるな」

 なんて誇り高い役割なのだろう。エースを優勝させるために自ら陰日向になって支える。
 この時、初めて私はエースアシストという役割に深い魅力を感じた。


 遠くから電子音が聞こえてくる。目を開けて、手探りで目覚まし時計のアラームを止める。ぼやけた視界で時間を確認すると、時計の針は午前六時を指している。
 今日からゴールデンウィークに入り学校は休みとなる。学校は休みだけど部活はあって、今日から三泊四日の合宿が行われる。目をこすり、ベッドから下りた。


 朝食を済ませ、支度を終えて最後に忘れ物がないか確認する。大型のスポーツバッグを携えて家を出ると、隣の家の人とばったり会った。

さん、おはようございます」
「おはよう、真波くん」

 自転車を押して歩いている途中の真波くんがぺこりと頭を下げる。

「あれ、大荷物……」

 真波くんは私のスポーツバッグを見て、

「もしかして引っ越しですか?」
「違うよっ!!」

 にこやかに言う真波くんにすぐさまツッコんだ。先月引っ越してきたばかりなのにどうしてまた引っ越さなきゃいけないんだろう……! 引っ越しにしては小さすぎる荷物だし。

「引っ越しじゃなくて、三泊四日の合宿なんだ」
「合宿って自転車部の合宿? いいなぁ! 坂、たくさん登るんでしょ!? オレも行きたいなー」
「来年箱学に来なよ。そしたら参加できるよ」
「箱学かぁ……。勉強頑張らなくちゃなぁ」

 あははと苦笑いをすると、真波くんはペダルに足を置いた。

「じゃあ、オレ山登りに行きますんで! さんも合宿頑張ってくださいねっ」

 朝日に負けないくらいのまぶしい笑顔で言うと、真波くんは自転車に乗り去っていった。
 彼は自転車での登坂が好きで、平日学校が終わった後や休日に、何度も山へ足を運んでいる。もし、来年真波くんが自転車部に入部すればクライマーの東堂くんとはきっと意気投合するだろう。
 真波くんの背中を少しだけ見送ると、スポーツバッグを持ち直して学校へ続く道を歩いた。


 集合場所の正門前に着くと、門の前には大型バスが二台並んでいる。その前には人だかり。自転車部にしては女の子が多いような気がするけれど……。

「東堂くーん! 指さすやつやってー!」

 ……あぁ、なんだ。東堂ファンクラブの女の子たちだ。女の子たちの輪の中には東堂くん。一人を指さしてポーズを決めると、「キャーッ!」と黄色い歓声が響く。

「登れる上にトークも切れる! さらにこの美形! 天はオレに三物を与えた!! 箱根の山神天才クライマー東堂とはこのオレのことだっ!! よろしく!!」

 さらに歓声が沸き上がる。自転車部に入ってから知ったことだけど、東堂くんは校内で絶大な人気がありファンクラブまで存在している。普段の時や、部活の練習の時でもこうやってファンの子が声をかけると嫌な顔せず答えてくれるのが人気の秘訣なんだよと最近新開くんが教えてくれた。

「朝からウゼェ」
「荒北くんおはよう」

 荒北くんは大型のエナメルバッグを背負って、東堂くんたちを煩わしそうな目で見ていた。

「はよ。オメェもぼーっと突っ立ってんじゃねーよ。早くバスに乗れ」
「そうだね」

 東堂くんたちの横を通り、乗降口から中に入る。奥には自転車部の人たちが何人かいた。真ん中ほどの空いている席に座る。

「いやぁ……美形は罪だな」

 東堂くんが私の隣に座る。

「おはよう東堂くん」
「おはようちゃん。これから四日間よろしくな! もし荒北にイジメられたらオレに言うのだぞ」
「っせ! いじめねーよっ」

 腰を上げて後ろの席を見ると、私の後ろには泉田くん、東堂くんの後ろには荒北くんがいた。

「おはようございます、さん、東堂さん」
「おはよう泉田。荒北とは違うきちんとしたあいさつ。将来女子にモテるぞ!」
「ウッザ!」
「ウザくはないな!」

 いつもの口喧嘩が始まる中、泉田くんと目が合った。苦笑すると、泉田くんも同じように笑い返してくれた。


 バスに揺られ、二時間ぐらい経っただろうか。文庫本を読みふけっていると、東堂くんが声をかけてきた。

「改めて聞くが、ちゃんはトミーと新開の幼なじみなのだな」

 トミーとは誰のことだろう……? 頭の中で疑問符が浮かぶと、東堂くんがすぐに訂正した。

「福富のことさ。略してトミー」
「あ、あぁ……」

 ついこの間も誰かに似たようなことを言われたような。中学の時は苗字だけだったのに、福富くんは高校に入ってから様々な愛称で呼ばれている気がする。

「トミーから聞いたよ。新開が退部届け出そうとしたの、ちゃんが止めてくれたって。いまさらなことだがありがとう。新開とはこの学校に入ってからの付き合いだが、アイツのスプリント能力は大したものだ。色々と世話になってるし、オレも新開が退部届けを出すのを知った時止めようと思っていた。入部早々、君は一人の部員を助けてくれた」
「ううん。あの時、新開くんを止められたのは私一人の力じゃないんだ」

 後ろの席をちらりと見る。ミュージックプレーヤーを聞きながらハンドグリップを両手に持って筋トレをしている泉田くんの横で、荒北くんは腕を組んですやすやと眠っている。
 私のこれからの目標を決めるきっかけを作ってくれたのは荒北くんだ。あの後家に帰った私はすぐに福富くんに電話をして、その時彼に伝言を頼まれた。

『新開に伝えてくれ。来年、オレが主将となって最強のチームを作る。その時、エーススプリンターの証である四番のゼッケンをお前にやると』

 誰か一人でも欠けたら、新開くんを止められなかったかもしれない。その誰かは、今隣にいる東堂くんも含まれる。

「いいマネージャーが入ったな。これもトミーと新開のおかげだ」

 東堂くんがニッコリと笑う。女子に人気が出るのもうなずけるほどの整った顔に、不覚にもドキリとしてしまった。