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 折を見て荒北くんにお礼を言おうと思ったら仕事で手一杯で、気がつけば練習終了の時間を迎えてしまった。レース中に使った機材を片付け、屋外に出る。
 外に出た瞬間、柔らかな風が頬をなでる。練習が終わった時は茜色の空だったのに、今は真っ暗な闇に変わり星が点々と見える。
 彼は今日も一人で自転車に乗って、自主練習をしていた。

「お疲れ様」

 荒北くんが自転車から降りたタイミングを見計らってベプシを差し出す。

「……何の用だ?」
「特に用ってわけじゃないんだけど……」

 差し出したままのベプシを見てどうしたものかなと考えていると、荒北くんが受け取った。

「どーも」
「あの、午前中はありがとう」
「別に礼を言われるほどのことはしてねェ」

 荒北くんの額から一筋の汗が流れる。
 どうして、彼は自分の時間を割いてまで練習に励んでいるのだろう。ここまでくるとなにか目的があるような気がして、聞かずにはいられない。

「どうして、荒北くんって部活動以外のときも練習をしているの?」

 率直に聞いてみる。荒北くんはしばらく沈黙して、

「……インハイ」

 闇夜に消え入りそうな小さな声。

「インハイに出るためにオレは毎日自転車に乗ってんだよ」

 私を見据えて、先ほどよりも大きな声で言った。

「一年の頃の話だ。三年がギャーギャー言ってるインハイが気になって、福チャンに出る方法聞いたら人の三倍練習しろっつーの。あん時は唖然としたさ。時々練習をやめようかと思った。でもオレは、もう一度どこまで行けるかを試してみたい。そうして、ここまで来た……」

 夜空を見上げながら荒北くんが言った。
 普段ぶっきらぼうな彼が見せた、きらきらとした瞳。本当にかなえたいのだと訴えるような優しい声色。
 初めて見た彼の一面に、心が大きく波打つ。
 荒北くんは話を聞いている私に気がつくと、熱くなった自分を茶化すようにお腹をさすった。

「なんでお前に語ってんだろ。腹減ってるんだろうな」

 荒北くんは、インハイを目指して毎日練習をしてきたんだ……。サイクリングロードで出会ったあの日も、今日も。荒北くんは簡単に言うけれど、これって結構すごいことだ。本当にインハイに行きたいっていう気持ちがなければこんなに練習を積み重ねたりしない。
 荒北くんの優しい声色が、今も耳に残っている。
 私は――荒北くんの夢をかなえたい。こんなにもひたむきに練習をする人の力になりたい。

「……私、協力するよ」
「は?」
「荒北くんがインターハイに出られるように、私、荒北くんの自主練習を手伝う」

 荒北くんの細い目が見開く。すぐに眉根を寄せ、拒むように言った。

「お前、新開のこと待つっつっといて今度はオレかよ。そんなことしてお前に何のメリットがあるっていうんだ」
「新開くんが戻ってきた時、できるだけ自転車部を最高の状態にしておきたいんだ。それに――」

 一呼吸置いて荒北くんに宣言する。

「インハイは私の夢でもあるから」

 荒北くんが値踏みするような目つきで私を見る。長い沈黙の後、

「勝手にすればぁ。ただし、見返りなんて期待すんな。オレはお前になにも返さない」
「お気遣いなく」

 一応、練習の手伝いを認めてもらえたようだ。

「そろそろメシの時間だ。食堂行くぞ」
「うん」

 歩調の早い彼の背中を追いかけて食堂まで歩く。これからさらに慌ただしくなりそうだ。


「なにかいいことでもあったか?」

 ボトルを受け取った福富くんが、私の顔を見て言った。

「あったかなぁ」

 そんなに変な顔をしていただろうか。自分の両頬を押さえてみたけれど、特にわからなかった。
 合宿最終日。今日は従来の予定から変更があってインハイ組と未出場組、両方合わせてのレースだ。ぎらぎらと輝く太陽は熱く、こまめに水分補給をしないと熱中症になってしまいそうだ。
 今日のレースは人数が多いため、一部と二部に分かれる。福富くんが属する一部は終わり、今は荒北くんや東堂くんが属する二部のレースの真っ最中だ。

「なら、目標を見つけたのか?」
「あ、それならあるかも」

 さすが福富くんは鋭い。

「私もね、インハイに行きたいって思ったんだ。マネージャーとしてだけど、頑張ってるみんなのサポートをして一緒に頂点が見たい」

 その時、先頭を走る集団が見えた。三年生が多い集団の中に、荒北くんや東堂もいる。

「頑張れーっ!」

 荒北くんたちに向かって声援を送ると、

「テメーが頑張れボケナスがぁ!!」
「えぇっ」

 遠くから荒北くんに怒鳴られてしまった……。困って福富くんを見る。

「荒北は応援が嫌いだ」
「そ、そうなの……? 私、悪いことしちゃった」
「いや、そうでもない。アイツの走りを見てみろ。今のの一声で、やる気を出したようだ」

「うるぁああああ!!」荒北くんが叫んで、東堂くんを引き離す。集団の中から飛び出して、先頭を走る古郡さんと並んで走る。
 ゴールを争うのは荒北くんと古郡さんの二人。二人ともペダルを回す足を緩めない。
 そして、ゴールを一位で通過したのは――

「荒北くんが勝った! すごいや、荒北くん……!」

 荒北くんが両手を上げて空を仰ぐ。福富くんの表情は変わらなかったけれど、どこかうれしそうだ。