13
屋内にある自動販売機でスポーツドリンクを三本買う。買った飲み物を両手に抱えて戻ろうとすると、
「ねぇねぇ、もしかしてあなた箱学の人?」
知らない女の人に声をかけられた。二十代くらいの、どちらかといえば派手な格好をした女の人。ゴシップ記者の話を思い出し、無視をする。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。私、箱学のOGなの。ここで合宿してるって聞いたんだけど箱学の人に会えてよかったぁ。これ、差し入れ。後でみんなで食べてね」
女の人から差し入れが入った袋を渡される。反射的に受け取ってしまった。
「雅人くんとか元気?」
「ま、まさとくん……?」
「雅人くんのこと知らないの? 五十人近くもいる部活だもん、わからないよね」
かぁぁと頬が熱くなる。ゴシップ記者の人だと勘違いしてしまったけれど本当にOGの人みたいだ。なんて失礼なことをしてしまったんだろう……。入部したてで部員全員の名前を覚えていない。雅人くんが誰のことなのか後で調べておこう。
「そうだ、ジュースおごってあげる。なにがいい?」
「私、急いでるので……」
今頃東堂くんたちは喉が渇いて困っているだろう。気遣いはうれしいけれど、今はこのスポーツドリンクを早く届けてあげたい。
「ちょっとくらい大丈夫よ~。今日はお手伝いの人が何人かいるんでしょう? その人たちがカバーしてくれるわよ、きっと。で、なにがいい?」
女の人がさっき私が使った自販機を前にして聞く。
「なんでも……」
「じゃあオレンジジュースでいいかしら。立ち話もなんだし、あっちのソファで話をしましょ」
女の人が、近くにある談話コーナーのソファに座る。こんなことしてる場合じゃないんだけどな……。OGの言うことに逆らうわけにもいかず、対の位置にあるソファにしぶしぶ座る。
スポーツドリンクを机の上に置くと、女の人が私の前に缶ジュースを置いた。
「ありがとうございます」
お礼を言ったものの、缶には手を伸ばさない。東堂くんたちが一生懸命頑張っているのに一人だけ休むわけにはいかないし、後で時間のあるときにゆっくり頂こう。
「いつもの所で合宿してるって聞いて、たまには手伝いに行こうかなぁって思ったの。三日目からの途中参加だけど」
「人手は多いに越したことはないので、きっとみんなも喜ぶと思います」
「そう? そう言ってくれるとうれしいわぁ。後でみんなにもあいさつしに行かなきゃ。うわさで聞いたんだけどマネージャーはあなた一人なんですって? 女の子一人じゃ大変でしょう。私もマネージャーだったから、仕事のつらさわかるわよ」
この人もマネージャーだったんだ。意外な共通点を見つけて親近感がわく。
「部活に気になる男の子はいるの?」
「い、いません」
「隠さなくてもいいのに」
「そんなつもりで部活に入ったんじゃないので……」
「私がマネージャーやってた頃は色んな子と付き合ってたわよ~。部活終わった後もデートでゆっくり休んでる暇なんてなかったんだから。もし気になる子がいたら、ふたりっきりでゆっくりできるところ教えてあげようと思ったんだけど」
昔の部活は緩かったのだろうか。誇りに思っていた自転車部がなんだか汚されたような気がして、口をつぐむ。
「そうだそうだ。気になることがあるんだけど」
女の人がバッグの中から一枚の写真を取り出す。
「これは……」
写真に写っているのは箱根学園のサイクルジャージを着た二人。私の知らない黒髪の男の人が、赤髪の男の人を殴っている。
「去年の冬のレースで、エースがアシストを殴ったんだって。この時なにがあったの?」
「私はなにも……」
「知らないの? マネージャーなのに?」
先月転校してきたばかりだから知らなかった。喉から出かかって、やめた。自転車部に入ってまだ一ヶ月も経ってないけど、これは自転車部のことを知ろうとしなかった私の落ち度だ。転校してきたから知らなかったなんて言い訳は見苦しい。
「まぁ、いいけどさ。最近似たようなことあった? あったら是非詳しく聞かせてほしいんだけど」
写真から女の人に視線を移す。
女の人は――ニヤニヤと笑っていた。
この人は箱学のOGなんかじゃない。さっきリーダーが言っていたタチの悪いゴシップ記者だ。
ソファから立ち上がると、女に手首をつかまれた。
「本当のことを教えてくれたらおこづかいあげる。もちろん、あなたがチクったなんて言わないよ。悪は絶対に許さない。人間として当然だよねぇ」
万札が入った封筒をちらつかせながら言う。この人は正義感などみじんもない。
もし私が変なことを言ったら、女はそれをネタにして中身を捏造した記事を書くのだろう。なにも悪いことはしてないのに、黒いうわさを流されて名誉が傷つけられる自転車部、それを他人の不幸は蜜の味だと言わんばかりに騒ぎ立てる人たち。……冗談じゃない。
「で、どうなの? やっぱりあるんだよね。こういうこと。体育会系気取りの部活だもん、あっても驚かないよ。最近自転車部で活躍している福富くんとかどう? 彼、ロードレーサーの家系だって聞いたけど、裏でこういうことやってるんでしょう。あの子他人に厳しそうだもんね」
「福富くんのことバカにしないでっ! 福富くんは、あなたが思っているような人じゃない!」
声を荒げた時、ニヤニヤと笑みを浮かべた女の片手にICレコーダーが握られていることに気づいた。
そんなことはどうだっていい! 福富くんのことを悪く言うのは許せない。
「あらあらぁ。さっき好きな子はいないって言ってたけど、もしかしてあなたと福富くん」
「違います! 私は――」
言いかけた時、遠くからつかつかと廊下を歩く足音が聞こえてきた。
荒北くんが、怖い表情でこちらに向かって歩いてくる。
青ざめた女が逃げ道を探す。だけど荒北くんの横を通る以外に逃げ道はない。そのことに気づくと、女は作り笑いをした。
「私、自転車部のOGの……」
「るっせ! テメーのことなんざ聞いてねーっつの! オレァコイツに用があるんだ!」
荒北くんに腕をつかまれる。
「主将が呼んでっぞ」
「ま、待って。今日は合宿の手伝いに……」
女に引き止められそうになった時、警備員が談話コーナーに駆けつけてきた。
「ちょっと君。勝手に入ってきたら困るんだよね」
「私はその」
警備員が、女の前に立ちはだかる。悔しそうな顔をする女を見ながら、荒北くんに手を引かれたまま外に出る。
「バカ! ゴシップ記者にまんまと乗せられてンじゃねーよっ!!」
手を離されたと同時に怒鳴られた。荒北くんの言うとおり、私はバカだ。
「ごめんなさい……」
荒北くんの顔がまともに見られない。下を向いて、唇をかみしめる。
今朝リーダーが言っていた言葉を気に留めていれば、こうなることは予想できたはずだ。あの時、声をかけられた時点で無視をしていれば荒北くんに迷惑をかけるようなことにはならなかったのに。
もし、荒北くんが助けに来てくれなかったら……。今頃私はゴシップ記者に喧嘩を売って、後日雑誌の記事にありもしないことが書かれてみんなに迷惑をかけていたのだろう。
強豪校にマスコミはつきものだ。私は、王者箱学のマネージャーとしての自覚がいまひとつ足りなかったのかもしれない。
「……なにを話した?」
「特に大したことは話してない。さっき私が怒った時は荒北くんが割って入ってきた時で……」
「なにかされたか?」
「ううん」
「ならいいけどよ。東堂からがボトル取りに行ったのにやけに遅いっつってて。なんとなく気になって様子見に行ったら外にはいねぇし……」
「本当にごめんなさい」
「気ィつけろ。オレは先に練習に戻る」
荒北くんがコースの方に去っていく。私も早く練習に戻らなきゃ……。
「……、大丈夫かい?」
建物の影から新開くんが、申し訳なさそうな顔をしながら現れた。
「ゴメン……。靖友の大きな声が聞こえて、なにがあったんだろうって来たんだけど、声かけるタイミング見失っちまって……。で、どうしたんだ?」
さっき起こった出来事を一通り話すと、改めて自分の浅はかさを感じてため息が漏れた。
「そっか……。あんまり自分を責めるなよ。おめさんにとっては初めてのことだったんだ。無理もないさ」
「ありがとう……」
新開くんは相変わらず優しい。その優しさがうれしくて涙腺が緩む。
「さっき、走ってる靖友を見かけてさ。『をどこかで見たか!?』って聞かれて、見てないって答えるとすぐに走っていっちまったんだけど……よほどおめさんのことを心配してたんだな」
荒北くんがそこまでしてくれたなんて。私のことを捜してくれなかったら、今頃どうなっていただろうか……。
「靖友、口は悪いけれど本当は仲間思いのいい奴なんだ。だから、今ので嫌いになったりしないでくれよ?」
「大丈夫。嫌いになんてならないよ」
荒北くんに怒られた時、正直怖かったけれど。それは私を心配してくれた上で怒ってくれたんだってわかってる。
こんなことで彼に距離を置いたりなんてしない。むしろ、荒北くんには助けてくれてありがとうって思っていて……。
「……お礼、言いそびれちゃった」
罪悪感でいっぱいで、助けてくれたお礼を言いそびれたことに気がつく。
「後で言おうかな」とつぶやくと、「それがいい」と新開くんはにこやかに賛成してくれた。