12
――やめろ。やめろ。やめろ。
必死に訴えるものの、目の前にある光景は消えてくれない。
茜色の空、きれいに整備されたグラウンド。高く張り巡らされた深緑色のネットに、振り向けば見える年季の入った校舎。
肌が焼けるほどに暑い夏の日も、手がかじかむ寒い冬の日も。部活を辞めるまでずっとこの場所に立っていた。
部活を辞めて以来、一度も立ち寄ったことのない場所だが――一年半ここで過ごした彼にとって、もはや消せない記憶となっていた。
――オレはもう、前を見るって決めたんだ。いまさらこんな夢見させるなよ!
彼は心の中で必死に叫ぶ。
しかし、心の中の思いは声にならない。身体は自分の意思とは無関係に動き、右手には硬式ボールが握られている。
大きく振りかぶり、投げる。直線を描いたボールは力強い音を立てて向こう側にいる人物のミットの中に収まった。
「OK靖友! いいカンジ!」
向こう側にいた人物が、笑顔を見せてボールを投げる。
心の中の荒北は息を呑むが、表情は変わらない。いうことを聞かない手が動き、左手に着けていたグローブでボールを受け止める。
投球を続けながら荒北は思う。今、向こう側にいる男の名前は南雲という。中学時代、荒北とバッテリーを組んでいた男で、ある時期を境に疎遠になっていた。
自転車を始めてからすっかり忘れていたのに。こうして夢に出てきた今、改めて思い出させられた。
「最近絶好調だね」
「あぁ。練習の甲斐あってか最近は球速が上がったんだぜ」
意識とは別に口が動く。
「次、フォークな」荒北が言うと南雲はミットを構え直し、ストレートに似た変化球を確実に受け止める。
「あまり根詰め過ぎないでよ。もし肘が故障したら……」
「ンなヘマしねーよ。オメェと違って丈夫だし」
投球練習が続く。荒北がボールを投げると、南雲が受け止めてボールを投げ返す。まるで長いことペアを組んできたかのように、二人の息はぴったりだった。
「もうそろそろ時間だ。行こう」
額の汗を拭った南雲が体を翻し、部室に向かう。荒北はその場に一人佇み、南雲の姿が見えなくなると地に膝をついた。
「……なんで、こんな時に夢に出てくるんだよ」
もう後ろは振り返らない。前だけ見るとあの日誓ったはずなのに。なぜ、合宿の最中にこんな夢を見てしまうのだろうか。
周囲の景色がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。荒北は地面に膝をついたまま、世界の崩壊を黙して待っている。
――そういえば、を見る時に時々感じるほのかな既視感。今思えば、それは南雲だった。外見が似ているというわけでもなく、性格が近いというわけでもなく、はっきりとした理由はわからないが――なんとなく、に興味を持つ理由に説明がつく。
もしかして、この夢を見たのはどこか南雲に似ているに出会ったせいなのだろうか……。
「人のせいにしてんじゃねェよ……」
荒北がつぶやく。やがて世界は崩壊し、真っ暗になった。
日の光を感じ、目を開けると薄暗い部屋の天井が見えた。
「……ちっ」
目をこすり、上半身を起こした荒北が舌打ちをする。
周囲にはそれぞれの布団でぐっすりと寝ている東堂や新開、泉田たち。枕元にある携帯電話を手に取り、時刻を確認すると今は午前五時だ。
「どうした荒北。随分と早起きだな」
「……福チャン」
荒北の視線の先には、布団を片付け終えた福富が立っていた。あまりおもしろくない夢を見たとは言えず、荒北はその場しのぎの嘘をつく。
「朝練でもしようかと思って。福チャンは? っていうかもう大丈夫なのかよ?」
「オレもだ。体の方は心配ない」
福富が足音を立てずに相部屋を出る。温かみが残る布団で二度寝をしたい誘惑にかられるが、福富に朝練をすると言った以上寝るわけにはいかない。
意を決して布団から出ると、冷たい空気に体を震わせた。
◆
合宿三日目。今日は未出場組の担当で、外での練習がメインとなる。午後にはレースがあり、今日も一日忙しくなりそうだ。
廊下を歩いていると、荒北くんの後ろ姿が見えた。
「おはよう荒北くん」
荒北くんの体がびくりと震える。私を見ると、バツが悪そうに目をそらした。
「……はよ」
「……どうしたの? もしかして荒北くんも体が」
「悪くねェ! ちょっと寝ぼけてるだけだっつーの!」
突然大きな声を出した荒北くんにびっくりしてしまった。私、荒北くんになにかしたかな……?
「……ワリィ」
ため息混じりにつぶやくと荒北くんは踵を返して去っていった。
一体どうしたんだろう。腑に落ちないまま、荒北くんの背中を視線で追った。
コース前に未出場組のメンバー全員が集う。グループリーダーが今日の練習内容を全体に伝える。
「以上だ。この後各チームで集まって、作戦を練るなり午後のレースに向けてトレーニングをするように。また、先ほど主将から連絡が入ったがひとつ注意してほしいことがある。取材の許可をしていない記者が近くをうろついているらしい。ゴシップ関係のマスコミで、たとえ普通に取材に応じたとしても、後でありもしないことを記事に書かれるのがオチだ。もし声をかけられた場合、無視をするように。では、解散!」
部員が散らばっていく。また今日も一日頑張らなきゃ。
「ちゃん、ボトルの補給頼めるかい?」
コースを周回した東堂くんが、自転車を止めて声をかけてきた。
「うん。一本でいい?」
「んー……さっき荒北や黒田が喉渇いたって言ってたな。三本頼む」
「了解」
クーラーボックスの中をのぞいてみるとボトルが切れている。
今日は暑いし、ボトルを消費するスピードが早いのだろう。東堂くんたちは喉が渇いているし、中にある自販機で買ってくるのが一番早そうだ。
駆け足で屋内に入る。エアコンのひんやりとした空気が体を包んだ。