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「つ、疲れた……」

 建物の壁に背をつけてぐったりと座り込む。インハイ組の練習は今から十分の休憩だ。私も同じタイミングで休憩をもらい、気持ちのいい風に当たりたくて真っ先に外に出た。
 空を仰ぐと、天高く昇る太陽がまぶしい輝きを放っている。こんな日は自転車で走ると気持ちいいんだけどな。この四日間、私自身が自転車を楽しむ時間はないだろう。
 喉が渇いたし飲み物でも買おうかな……。思い立ち上がると、誰かの声が聞こえてきた。

「おい、猫。こっち来いよ」

 声がした近くの駐車場に行ってみると、黒いワゴン車の下で荒北くんが伏せていた。
 荒北くんは背後に立つ私には気づかず、車の下にいるであろうなにかに向かって喋り続けている。

「ちっ、来ねーな……。奥の手使うか」

 奥の手とは一体なんだろう。声をかけずに見守っていると、

「ニャーニャー。ニャーニャーニャーニャー」

 笑いがこみ上げそうになり、とっさに口を両手で覆う。荒北くんが、猫語を喋っている……!

「ンなので来るわけねーか。おい猫、さっさとこっち来いよ。テメーの逃げ場はねェんだぞ」
「ニャー」

 車の下からなにか出てきたと思ったのもつかの間、荒北くんのいる位置とは違う方向に逃げていく白猫の後ろ姿が見えた。

「あっ、テメー猫畜生逃げんじゃねェっ!! ったく、今日はついてない――」

 ようやく立ち上がった荒北くんと目が合う。荒北くんの顔色がみるみるうちに青くなった。

「えへへ」
「テメェどっから見てた!?」
「猫語喋る前から……?」
「早く声かけろッ!!」
「お取り込み中かなって思って」

 荒北くんが肩を落として深いため息をつく。

「このこと、誰にも言うんじゃねーぞ」
「言わないよ。でも、猫好きだなんて意外」
「好きじゃねーよっ!!」

 否定するわりには頬にうっすらと朱が差している。やっぱり、荒北くんは猫が好きみたいだ。


 休憩が終わると、インハイ組の室内練習が再び始まった。時々福富くんの様子を横目で見ながら、ばたばたと仕事を片付けていく。
 やがて練習が終わり、福富くんが自転車から降りた。

「お疲れ様」

 トレーニングルームを出た福富くんに、冷たいスポーツドリンクを差し出す。

「あぁ、ありがとう」

 福富くんがスポーツドリンクをつかむ。目の焦点合ってないけど大丈夫かな……? 「大丈夫?」と声をかけようとすると、

「福富くん――っ!?」

 福富くんが突然倒れてしまった。額には玉のような汗が浮かんでいる。


 OBが福富くんを相部屋まで運んだ。その間に私は濡れタオルを用意して、部屋に入ると福富くんは布団に寝かされていた。布団を整えたOBが振り返る。

「疲労だな。一晩ゆっくり休めば大丈夫だと思うが……、濡れタオル頼んでもいいか?」
「はい」

 OBが相部屋を出ると、私と福富くんのふたりきりになった。用意した濡れタオルをそっと福富くんの額の上に載せる。

「ゴメンね、早く気がつかなくて……」

 あの時、もっと強気に出て止めていればこうならなかったのに。目を閉じている福富くんに向かって、謝罪の言葉を口にする。

「お前が謝る必要はない」

 福富くんがゆっくりと目を開ける。

「体調管理も選手の仕事のうちだ。こんな初歩的なことで、お前に迷惑をかけてすまない」
「迷惑なんてことはないよ。……でも、最近の福富くん、なんだか焦って練習している気がする」

 新開くんの一件以来、福富くんの練習の取り組み方が変わった。いつも真面目に、基礎の練習でも決して手を抜くことはなく取り組んでいるのだけれど。練習量を増やしたり、ハードな練習メニューをこなしたりするようになって、どこか背伸びをしているような……。最近の福富くんを見ていると、いつかなにか起きるんじゃないかって不安だった。

「焦ってはいない。もし焦っているように見えるとしたら、それは当然だ。オレは来年、主将になる。そのために、いつもよりさらに練習に取り組み強くならなければならない。中学の時とは背負う物が大きく違う」
「でも……」
「これは体調管理の甘さによる疲労だ。休めなんて絶対に言うな。王者である以上、これは当たり前のことだ」

 福富くんの言葉になにも言えなくなる。
 私は、福富くんと違って重い役目を背負ったことがない。そんな彼に「無理しちゃダメだよ」なんて言えるはずがない。でも、このままじゃいけないような……。

「……こうしていると、昔を思い出すな」
「うん……?」

 福富くんが、額の上にあるタオルに手を触れる。懐かしい出来事を思い出すように目を細めた。

「オレがまだ子どもだった頃、高熱を出したことを覚えているか? その時はたまたま親がいない時で、お前が看病をしてくれた」
「あぁ……あの時かぁ」

 小学生の頃、福富くんが高熱を出した。福富くんの両親が仕事で不在で、私の親も同じくいない時のことだった。

「お前が泣きそうな顔で看病していたのを覚えている」
「あの時は……あはは」

 子どもの頃から福富くんは、感情をあまり表に出さない人だった。弱音を吐くことも、感情を剥き出しにして怒ったこともない彼が、高熱にうなされて初めて苦しそうな顔を見せた。このままだと福富くんがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして……涙目になりながら看病していたことをうっすらと覚えている。

「ねぇ、福富くん」
「なんだ?」
「もし、本当につらくなったら……頼ってね?」

 福富くんは自分に厳しい人だから、無理をしないでって言っても絶対に聞かないだろう。数年間、福富くんの近くにいたからそれはよく理解している。
 せめて、本当につらいときは私でも新開くんでもいい。つぶれる前に頼ってほしい。

「あぁ」

 福富くんが目を閉じる。優しい声色に、大丈夫だよねとちょっとだけ安心する。

「寿一、大丈夫か!?」

 声と共にふすまが開く。部屋の入口を見ると、新開くんと荒北くん、東堂くんの三人。東堂くんと視線がぶつかる。

「トミーの容態は?」
「一晩安静にしていれば大丈夫だろうって」
「ったく……。ビックリさせんなよ福チャン。早めに練習切り上げて来ちまったじゃねーか」

 福富くんが上半身を起こし、額の上に載せていたタオルを取る。

「お前ら……。こんなことに貴重な練習時間を割くな」
「そう言うなよ寿一。仲間だろ?」

 新開くんたちと福富くんの会話を見守る。
 昔、福富くんが高熱を出した時は私一人だったけれど、今は新開くんや荒北くん、東堂くんやみんながいる。もし、福富くんになにかあったとしても、私だけじゃない、みんなが支えになってくれるはずだ。
 だからきっと大丈夫。これ以上の心配はかえって福富くんの足を引っ張るだろう。
 仲間を信じて、談笑の輪に入る。合宿二日目はトラブルがあったけれど、大事にならずに済んだ。