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夕食を食べた後、一人で建物の中を歩いてまわる。午後に慌ただしく室内を往復したトレーニングルームの近くにまで行くと、中から物音が聞こえてきた。
ここは三泊四日の間箱根学園の貸し切りとなっている。トレーニングルームにいるのはおそらく部員か関係者の誰かだろう。こんな時間に誰がトレーニングルームを使っているのかな。気になってドアを開けると、
「あ、さん」
「泉田くん……!」
トレーニングルームを使っていたのは泉田くんだった。レーシングパンツ一枚でアブドミナルという筋トレマシンに座り、腹筋を鍛えている最中だった。
「こんな時間に筋トレ?」
「はい。合宿だと思うとなんだか落ち着かなくて。さんは?」
「私も落ち着かなくて散歩。物音がするなぁって思って来てみたんだけど……」
部屋を見渡してみると、三本ローラーや腹筋台、体の色んな部位が鍛えられそうな筋トレマシン数種類、マッサージチェアなどが備えられている。自転車部にも筋トレマシンは何台かあるけども、ここの方が種類が豊富で効果的な筋トレができそうだ。
「さんも筋トレいかがですか? 夜ぐっすり眠れますよ」
「じゃあ……ちょっとだけやろうかな」
マシンがない広めの空間を探すと、そこに立って屈伸を始めた。伸ばした足からは軽い痛み。午後にたくさん走り回ったせいだろう。
「……新開さん、もう一度自転車に乗りますよね……?」
「泉田くん?」
屈伸をやめて泉田くんを見る。泉田くんは不安そうな表情を浮かべていた。
「前からさんと一回話がしたかったんです。さん、新開さんとは友人だって聞いたので……」
泉田くんと目が合う。彼は突然なにかを思い出したようにあっと声を上げた。
「さんはボクが入部した後に入ってきたので知りませんでしたよね! ボク、箱根学園に入学する前、スプリントレースで新開さんの走りを見たことがあるんです。力強い美しい走りで、ボクも将来新開さんのようなスプリンターになりたいと思いました。……しばらく練習には参加しないって聞いたんですけど、あの走りが見られないのが残念で」
あの時、退部しようとする新開くんを止めたものの、彼が再び自転車に乗るかどうかはまだわからない。……でも、きっと新開くんは自転車に乗る。自転車が好きな彼は、絶対にこの場所に戻ってくるはずだ。
「大丈夫。新開くんはもう一度自転車に乗るよ」
「その日が来るのが待ち遠しいです」
泉田くんがにっこりと笑う。
「……そういえばさんって、入部当時から福富さんとも仲いいですけど……もしかしてその、恋人関係とか」
「ちっ、違うよ! 福富くんとはただの幼なじみっ!」
的外れな推測にかぁっと頬が熱くなる。
「すっ、すみません! アンディがもしかしたらそういう関係じゃないかって言ってきて……!」
「あんでぃ?」
また誰かのあだ名だろうか。聞き返してみると、
「体づくりの一環で、胸に名前をつけているんです。ボクの右胸の大胸筋がアンディ、左胸がフランクです」
「大胸筋……」
泉田くんの胸元を見ると、少し触れただけで硬い感触がしそうな大胸筋が目に入った。あまり見ると悪い気がして目をそらす。
ストレッチが終わった後、泉田くんに薦められた筋トレマシンを使って体を動かす。時々泉田くんと言葉を交わし、切りのいいところで筋トレをやめてシャワーを浴びる。
就寝時間になり、布団に入る。その日はぐっすりと寝ることができた。
合宿二日目。今日はインハイ組の担当で、トレーニングルームでローラーと筋トレ中心のスケジュールだ。
昨日と比べるとメンバーが変わっただけで代わり映えしないように思えるけれど、人数が少ない分補助に入る人数も減る。その上、未出場組よりタイトなスケジュール設定で、昨日よりも慌ただしく室内を往復するだろう。
仕事が一段落した時、ふとローラー練習をしている福富くんを見た。額に汗を流しながら、まっすぐに前を見てペダルを回している。
顔を見ると、なんだかいつもより疲れているような。このまま放っておいてはいけないと思い、福富くんの所に行く。
「福富くん、大丈夫?」
福富くんの顔をのぞきこむ。彼は表情を変えず、
「大丈夫だ」
「顔色が悪い気がするけれど……」
「気のせいだ」
福富くんのペダルを回す足がさらに速くなる。
「さーん! こっち手伝ってー!」
「はーい!」
遠くから聞こえるOGの声にすぐに返事をした。
「オレのことは気にするな。早く行け」
「う、うん……」
少し歩いてもう一度福富くんの顔を見るけれど、ペダルを回す足を緩めずにローラー練習を続けている。どこか無理をしているように見えたんだけど気のせいかな……。
頭の片隅に留めておこうと思いながら、OGのもとに駆けつけた。