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 ――あの時肘を壊さなければ。ガキの頃から憧れていた夢を実現できたかもしれない。
 ――あの時誰かが止めていれば。そもそも野球部のヤツら、ずっとオレをマウンドに立たせてたじゃねェか。肘を壊したのはそいつらの責任だ。オレはなにも悪くない。

「くそっ、ムカつくッ!!」

 廊下の隅に置いてあったゴミ箱を蹴り飛ばす。
 ゴミ箱から飛び出した可燃ゴミが床に散らばる。その光景を通りすがりの生徒が何人か目撃したが、顔を上げた荒北に気づくと「なにも見てません」と訴えるようにそっぽを向いた。
 舌打ちをした荒北がポケットに手を突っ込み大きな歩幅で歩く。坊主だった頭は髪を伸ばしてリーゼントになり、以前は校則を順守した制服もわざと着崩して校則違反のアクセサリーを着けるようになった。

「あ……」

 一人の男子生徒と目が合った瞬間、相手が震える。
 先週まで、舎弟として荒北とつるんでいたテツ。テツは頭を下げ、荒北の横を通り抜けた。
 野球部を辞め孤立した荒北は舎弟を作ろうと試みた時期があった。だが、ささいなことで荒北が怒り一方的に縁を切ることがほとんどで、今荒北を慕う者はいない。先ほど荒北の前から逃げるように去ったテツ。彼もまた荒北に縁を切られた一人だ。
 そんな中、ただ一人。かつて野球部でバッテリーを組んでいた南雲だけが荒北に声をかける。

「靖友っ」

 南雲が背後から荒北の肩を叩く。

「今日時間空いてる? 古館が休みでさ、久しぶりに投球練習ができそうなんだけど――」
「誰が行くか……」
「えっ?」
「誰が行くかよバァカッッ!!」

 荒北に肩を押され、南雲がたたらを踏む。廊下にいた生徒たちの視線が二人に集まる。

「もうオレは終わったんだよ! お前やバカな周りのせいで肘が故障してなにもかも台無しだ!」
「まだ終わったって決まったわけじゃないよ。君はもう一度マウンドに立てる」
「いい加減ウゼーんだよオマエッッ!!」

 荒北が南雲の顔を殴る――!
 殴られた南雲が床に手をついて起き上がる。血がにじんだ口元を服の袖で拭った。

「せっかく辞めて清々してんのに話しかけんなよ!! 野球のこと思い出してイライラする!!」

 初めて、積もりに積もったドス黒い感情を南雲にぶつけた。
 南雲は毅然とした表情で荒北を見上げている。

「君が肘を壊した後、ボクがフォローしていつの日かもう一度一緒に試合に出ようって思ってたんだよ……。なのに君は野球部を去って、こんなバカみたいなことをして!」

 立ち上がった南雲が拳を大きく振りかぶる。
 反撃を予想していなかった荒北は南雲の拳を頬に受け、体勢を崩した。

「テメェ……。こんなことしといてタダで済むと思うなよ……」
「お前一人になにができるんだ」

 南雲の氷の一声を火ぶたに殴り合いが始まった。傍観していた女生徒が駆け足で職員室に向かい、その他の生徒は怯えながら二人の様子を見守る。

「辞めたオレに声をかけて善人気取りかァッッ!? オマエのそういうトコ、すごく腹立つ!!」
「ムカつくのはボクの方だっ!! 周りにばかり責任を押し付けて、自分はもう終わったのだと決めつける!! 一年半過ごしてきた時間はどうなるんだよ!!」
「知るかンなモン!! オレはなァ、知ってんだよ!! 古館と組んだオマエは調子がいいってこと!! 完全にオレを捨てて部を作り上げてんじゃねェか!!」

 勢いのついた拳が南雲の顔の前で止まる。
 ――どうして、バッテリーの顔を殴っているのだろう。かつてこの右手は、野球のボールを投げていたはずなのに。

「っ――」

 胸ぐらをつかんでいた左手を離し、南雲に背を向ける荒北。
 口からは鉄の味がして、顔面にはひりひりとした痛み。……だが、不思議なことに一番痛むのは胸だった。

「オレが野球部を変えてやるって言ったの、嘘だったの……?」

 床に尻もちをついたままの南雲が、去っていく荒北に問いかける。

「初めて会った時、お前となら上に行けると思ってた……。なのに故障ひとつで諦めて。救いようのないバカになって……」

 ――今すぐ踵を返して謝れ。今ならまだ引き返せる。

「お前なんか、出会わなきゃよかった!!」

 南雲が叫んだと同時に世界が停止する。
 無傷の荒北が現れ、南雲に近づいていく。

「ワリィな、南雲……」

 あの時自棄になっていた自分に代わって謝罪の言葉を口にする。だが、南雲の返事はない。時間が停止している今、何の反応もないのは当然だ。

 南雲とはあれから、一言も言葉を交わさないまま卒業の日を迎えてしまった。彼がどんな進路を選んだか荒北は知らない。携帯に登録していた連絡先も、とうの昔に消してしまった。偶然出会うという奇跡が起きない限り、謝罪の機会は永遠に訪れないだろう。

 昔の自分から見たら、腹立たしいだけだった過去。だが、自転車に出会って過去を乗り越えた今初めて気がつく。
 野球部を辞めてからも声をかけ続けてくれた南雲。反抗的な態度を取っても、最後まで自分を叱り続けた教師の佐々部。
 なぜ自分は、彼らの優しさを受け入れなかったのだろう。それどころか、その思いを裏切ってしまった。
 いまさらになって後悔が湧いてくる。罪悪感に押しつぶされて、その場にうずくまる。

『荒北くんが謝りたいって気持ち、その人にも届いていると思うよ。だって、荒北くん優しい人だし』

 先日彼女に言われた言葉を思い出して、胸の内が少しだけ温かくなる。
 祭りの夜、野球少年を見て昔を思い出した荒北はに悩みを打ち明けた。今まで、誰にも見せたことがない弱み。夢でうなされるのがつらくて、ふとしたきっかけで吐露した。
 自分のことをさほど知らない彼女に大した答えは期待していなかった。……だが、返ってきた言葉があまりにも心に響いて。涙が零れそうになった時は大変焦った。

 うずくまっていた荒北が立ち上がり、南雲を見下ろす。
 彼は今、どこでなにをしているのだろう。新しい投手とバッテリーを組んで甲子園を目指しているのだろうか。それとも、普通の高校生になっているのだろうか。今の荒北には、彼のことを知るすべはない。
 だが、もし、奇跡的に再会することができたのなら、思いを無視して去って行ってしまったことを謝りたい。
 そうしていつの日か、あの日々の出来事を笑って話せれば……。かなうかどうかわからない願い事ではあるが。
 の言葉を胸に空を仰ぐ。胸の痛みはいつしか消え去っていた。


「ん……」

 振動を感じ、目を開ける。目に見えるのは、学校の廊下ではなく車内の風景。ぼんやりとした頭でインハイ会場に向かっている最中であることを思い出す。バスの振動に眠気を誘われ、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 左肩に重みを感じ、隣を見るとが荒北の肩によりかかっている。くうくうと寝息を立てて寝るに荒北は嘆息して、彼女の頬に手を触れた。