25

「痛い……」

 ヒリヒリと痛む頬をさすりながら、バスから降りる準備をする。
 ――数分前。荒北くんの肩に寄りかかってぐっすりと寝てしまった私は、彼の頬つねりで目が覚めた。間抜けな声を出して起きた時、後ろにいた泉田くんに笑われてとても恥ずかしかった……。
 非難の意をこめて荒北くんを見るものの、彼は知らんぷり。気を取り直してバスから降りると、ギラギラと照らす日差し、生ぬるい風。数時間バスに揺られてたどり着いた先は、インターハイの会場である広島だ。

「すごい……」

 全国から人が集まっているのだと実感してしまうほどの人混み。行き交う人々にお祭りのように声かけをする飲食の屋台。隅で自転車のメンテナンスをする人や、補給用のボトルを持ち運ぶ人、観客を誘導するスタッフなどがいる。
 この前行ったお祭りと雰囲気が似ているようで違う。出場者らしき人からはピリピリとした空気を感じ、タイヤとオイルが混ざった独特の匂い。
 新開くんが教えてくれたあの日から、夢に見ていたインターハイ。ここで、これから三日間全国から集まった選手が力の限りペダルを回し優勝を目指して戦うのだ。

「どうだい? お祭りみたいだろ」

 新開くんが隣に並ぶ。

「こんなににぎやかだとは思わなかった。でも、さすがに浮かれた気分にはなれないや」

 苦笑いして答える。というのも、今日から三日間私は給水係という大事な仕事を任される。
 箱学の給水係は私を含む部員六名で構成され、常に選手たちの先回りをし、給水所で選手に補給品が入ったサコッシュやボトルを渡す。もし、給水所に着くのが遅れ、選手に補給品を渡し損ねるとそれだけでレースの勝利を左右することになる。移動は車だけど気が抜けない仕事だ。

「あんまり気張るなよ。ボトル落っとこしちまう」

 新開くんが私の頭をぐしゃぐしゃになでる。いつもはこんなことしないのだけれど、新開くんなりの気遣いだろうか。
 乱れた髪を手で整えた頃には少しだけ緊張がほぐれた気がした。

さーん。ボトル準備するの手伝ってくれるー?」
「はーい! ……じゃあ、私行くね」
「あぁ。頑張れよ」


 ボトルの準備を終えた頃、開会式の時間が近づいたので会場に移動した。会場前はたくさんの人で溢れかえっていて、選手と観客が混じり立っていた。付近に箱学ジャージを着ている人がいないか見渡す。左の端の方に荒北くんらしき後ろ姿を見つけ、彼の隣に並ぶ。

「見えるか?」
「なんとか……」

 荒北くんは普通に背が高くていいけれど、私の身長じゃ前にいる男の人たちの体の間からやっとステージが見える。もう少し早く会場に来るべきだったかもしれない。

「今のうちに背伸ばしとけよ。来年も同じ目に遭うぞ」

 すっかり耳になじんだ毒舌をさっきの頬つねりのお返しに無言で聞き流し、会場を見る。
 間もないうちに開会式が始まり、役員のあいさつが終わると箱学のインハイメンバーがステージに上がる。

『去年の優勝校、神奈川県代表箱根学園の皆さんです!』

 ステージに上がった途端、観客からは割れんばかりの歓声。改めて、自分のいる学校は強豪校なんだと実感した。歓声が飛び交う中、福富くんはいつもと変わらず堂々とステージに立っている。
 これから数十分後にはレースが始まる。再び緊張がこみ上げて、ぎゅっと拳を握りしめた。


 開会式が終わった後、箱学のテントに行く途中で福富くんを見かけた。

「福富くん」

 彼に声をかけようとしたら、先に新聞記者の腕章をつけた人が福富くんに話しかけた。私がぼうっとしている間に別の記者の人が来て、あっという間に複数の記者の人たちに囲まれてしまった。

「インハイの意気込みは?」
「三日間のうちのどれか、ステージ優勝を獲ることです」
「この前のレース見たけどすごいね! まさか強豪校のエースとのゴール争いに勝って優勝しちゃうなんて!」

 福富くんはすごいなぁ。こうして大人の人たちに囲まれている福富くんを見ると、そのたびにそう思う。
 福富くんは今年出場したレースでは全勝している。アシストを命じられたレースでも最後には一番前を走ったり、先輩に無理だと言われたタイミングでも無理やり飛び出して優勝を勝ち取ったりした。練習量を増やした福富くんに一時期は不安になったけれど、どうやらそれは杞憂だったみたいだ。合宿以降は一度も体調を崩していないし、彼の努力が結果につながっている。
 このまま彼はインハイで活躍して、いずれはプロのロードレーサーになるのだろう。それはうれしいことだけど、なぜか寂しいと思っている自分がいる。

「いけない、そろそろ行かなきゃ」

 時計を見ると、レース開始まであまり時間がないことに気がついた。給水組と早く合流しなきゃ。
 まだ取材を受けている福富くんを一目見て、箱根学園のテントに向かう。


 給水組と合流し、遠くの位置からレース開始を見守る。

『スタート五分前です。各選手はスタートラインにお並びください』

 会場のアナウンスが響く。スタートラインの一番前には箱根学園の選手六人が並んでいる。
 観客がざわつく中、選手からはピリリとした空気を感じる。セミの鳴き声を聞いてじわりと汗が流れてくる。
 箱学の後ろには、様々なカラージャージの選手が自転車のフレームを跨いでレース開始の時を待っている。みんな、この日のためにどれほどペダルを回してきたのだろうか。

『スタート開始一分前です』

 箱学が三日間ステージ優勝を果たし、総合優勝も獲りますように。祈るような思いで選手たちを一人一人見る。
 福富くんも、先輩方も、最近では毎日遅くまで練習しているのを見てきた。自転車に対する熱さなら箱学が一番だ。どの学校にも、絶対に負けない。
 私はただサポートをすることしかできないけれど、福富くんたちが全力で走れるように私も全力を尽くそう。

『スタートです!』

 ピストルの鳴る音と共に集団が動き出す。私はその光景を一目見て、自分の仕事を果たすべく車に乗った。