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 インターハイ第一ステージは山の上り下りが多いコースだ。クライマーが鍵となるのはもちろん、ただでさえ息苦しくなる登りにこの暑さでは体力はあっという間に奪われてしまうだろう。
 OBが運転する車で確実に選手たちの先回りをし、給水所で選手が来るのを待っていた。
 遠くから観客の歓声が聞こえる。道の先を見ると、箱根学園の選手が一団となって走っている。

「来たぞ!」

 一番手前にいた部員が声を上げる。
 私は三日間福富くんの担当になっている。持っていたサコッシュを路上に向けてささげる。
 選手全員が少しだけスピードを落とし、サコッシュを持った部員に近づく。

「福富くん、頑張って!」
「あぁ!」

 言うと同時に福富くんは私がささげたサコッシュを受け取り、他の仲間と並んで走る。一瞬だけ福富くんを間近で見たけれど、表情から察するにまだまだ余裕がありそうだ。

「榛名主将たち、足を溜めてるみたいっスね」
「まだ本気を出してないってとこか……」
「給水組撤収! 次の給水所に行くぞ!」

 リーダーのかけ声を合図にワゴン車に乗る。
 ――その後、インターハイ初日でステージ優勝をしたのは、我らが王者箱根学園だった。


 ホテルに移動した後も興奮が冷めなくて、風を浴びに外に出る。夕方から夜に変わる曖昧な空色の下、一人景色を見ている新開くんがいた。

「新開くん」
「お、。今日は一日お疲れ様」

 新開くんの隣に立ち、彼が見ていた景色を見る。ここから見える山々は黒く染め上げられ、鳥の群れが空を飛んでいる。夕方の景色に、インハイ一日目が終わったことを実感する。

「今日のインハイどうだった?」
「新開くんが言ってたとおりすっごく熱かったよ! 給水所で待っている時遠くからみんなが速く走ってくるのが見えたし、みんながゴールした後他校の走るところも見たんだけど、熱い思いが伝わってきた」

 今日見たレースを思い返してみる。緊張感で張り詰めた、レース開始直前。給水所ではそれぞれの学校の人たちが自分のチームはまだかまだかと焦り、ゴール前では全力でペダルを回す選手の姿を見た。
 ゴール前から足を伸ばすと、悔し涙を流しながら棄権する選手。お互いに違う学校の選手二人が競って坂を登り、手作りの旗やカードを持って応援する観客たち――これが、新開くんの言っていた大会だったんだ。夢見ていたレースは私の想像を超えるほどに、見応えのあるものだった。

「そうか……。それはよかった」

 新開くんがニコリと笑う。たしか、新開くんもレースを観戦していたはずだ。彼の感想を是非聞いてみたい。

「新開くんはどうだった?」
「オレもと同じ気持ち。今回初めて見る顔のスプリンターがちらほらいてさ。もし、そいつらとオレがぶつかったらどんな勝負になるんだろうなって思うと、じっとしていられなくなった」

 新開くんが休部してから三ヶ月経つけれど、彼の自転車に対する熱は冷めていない。

「じゃあ、もう一度自転車に乗ろうよ」

 新開くんが大きく目を見開く。

「でも……」
「インターハイはツール・ド・フランスにも負けないくらい熱い戦いだよ。出場できるのは来年が最後のチャンス」

 ためらう新開くんに、私はかつて彼に言われた言葉で背中を押す。
 呆然とした新開くんの口元が緩む。

「そうだな……。オレ、もう一度自転車に乗りたい。一時期は自転車やめようって思った時もあったけれど……やっぱりオレは、自転車が好きだ。風を切って、誰よりも速くありたいと思う」

 空を仰ぎ、出した答え。やっと、ずっと言ってほしかった言葉を言ってくれた。
 この日のために全力でマネージャーの仕事を頑張った。新開くんの決断に、目頭が熱くなって涙が零れそうになる。

「……オレ、けじめをつけるために今度ウサ吉のお袋の墓に行こうと思うんだ。それで、おめさんにお願いがあるんだけど……寿一と一緒に、ついてきてほしい」
「もちろん、ついていくよ」
「ありがとう。ちょっと遠いけど大丈夫か?」
「大丈夫だよ。遠出は慣れてる」

 地方のロードレースで遠出は慣れっこだ。冗談交じりに言うと新開くんが微笑する。

「本当は一人で行くべきなんだろうけどさ……。いまだに後悔ばっかりで、一人で行くのが怖いんだ。おめさんと寿一がついてきてくれるのなら、とても心強いよ」

 新開くんがもう一度遠くの景色を見る。前に進むことを決心した彼の顔には、もう迷いの色はなかった。


 新開くんと別れた後、夕食まで時間があるのでとある人を捜す。彼の性格を考えれば、インターハイの夜でも外にいそうなんだけど……。

「あ、いた」

 ホテルの外壁を背に、荒北くんは愛車のメンテナンスをしていた。自転車のフレームをクロスで磨いている。

「荒北くん」

 荒北くんはフレームから私に視線を移すと眉根を寄せた。

「バァカ。オメェ明日も明後日も仕事あんだろ。オレに構ってないで休めよ」
「インハイで熱いレース見ちゃったから休む気になんてなれないよ。荒北くんだって同じでしょ?」
「っせ」

 荒北くんの視線がフレームに戻り、さっきよりも手荒にフレームを磨く。きっと図星だったのだろう。
 最近、荒北くんのぶっきらぼうな態度にようやく慣れてきた。冗談も言えるようになったし、今のようにそっけない言葉で返されても、その言葉の裏で彼がなにを思っているのかなんとなくわかるようになった。
 荒北くんがクロスをしまい立ち上がる。

「今から走るの?」
「あぁ。そこらへんぐるっとな」
「じゃあ私も手伝うよ。ノート持ってくるからちょっと待ってて」
「あのノート、合宿にまで持ってきてんのかよ!?」
「荒北くんなら、こんな日も自主練やるかなって思って」

 笑いながらホテルに向かう。
 荒北くんの自主練習に付き合うようになった頃、一冊のノートに彼の練習の記録をまとめていた。荒北くんは「そんなのいらねーよ」って言ってたんだけど、一年前自転車初心者だった彼がインハイに出るほどの実力をつけるためにはデータ分析も必要だ。
 時々うらやましくなるくらい、荒北くんの飲み込みは早い。ノートにつけた記録を見返すたびに、改めて彼がすごいことを実感するのだ――。
 そんなことを考えていると、誰かにぶつかってしまった。相手が地面に尻もちをつく。

「ご、ごめんなさいっ!」
「ボクこそぼーっとしてて、すみません」

 尻もちをついた男の人が頭を下げる。
 男の人の近くに、なにか落ちていることに気がついた。拾い上げるとそれは生徒手帳。横浜綾瀬高等学校の南雲淳一……この人、私と同じ神奈川の人だ。

「落ちましたよ」

 生徒手帳を差し出すと、男の人が遠くを見ていることに気がついた。
 視線をたどるとこちらからは背を向けて、タイヤの空気圧を見ている荒北くん。この人、荒北くんの知り合いなのかな?

「あの……」
「わっ! すみません、拾ってもらっちゃって!」

 男の人が生徒手帳を受け取る。「本当にすみません」と頭を下げると、ぱたぱたと去っていってしまった。……一体、どうしたんだろう。
 男の人の背中を見送り、首をかしげると荒北くんと視線がぶつかった。

「いつまで待たせんだァ!!」
「今取りに行きますっ!」

 ダッシュでホテルの中に入る。自主練が始まった頃には、荒北くんに聞こうと思っていたことをすっかり忘れてしまった。