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 まぶしい日差しに手を日除けにして空を見る。雲ひとつない快晴で、天気予報によると今日はこの夏一番暑い日になるらしい。
 ――インターハイ二日目。今日もまた、給水組として慌ただしくコースをめぐることになる。
 集合場所に向かっている途中で、ストレッチをしている福富くんを見かけた。

「おはよう、福富くん」
「……。おはよう」
「昨日初めてのインハイ参加だったけれどどうだった? 手強い選手とかいた?」

 福富くんは目を伏せて、

「正直、こんな物かと思っている。オレと肩を並べられる強い選手がいるかと期待していたが、参加してみれば集団に甘えて走る者ばかり。……この大会に強敵などいない」

 期待していたこととは全然違う感想に、とっさに返す言葉が見当たらない。私はおもしろいレースだって思ってたけど、福富くんにとっては物足りなかったみたいだ。

「あの、福富くん」

 レースでは常になにが起きるかわからない。そんなことを言っていたら、いつか足をすくわれるかもしれないよ。見ていることしかできない分際で偉そうなこと言ってるってわかってるけど、この温度差が今日は寂しく感じて……。

「おーい福富ー」

 私が言葉を紡いでいる最中、遠くにいる先輩が福富くんを呼んだ。

「オレは行く。じゃあな」
「うん。また……」

 福富くんに手を振り、彼の背中が見えなくなるまで見送る。
 ――この時、私は最後まで選択肢を間違えたことに気がつかなかった。ここであの時、福富くんに向き合っていれば、あんなことにはならなかったはずだ……。


 今日の第二ステージは緩い上りが多い。今先頭を走っているのは福富くん、その後ろを走っているのは総北高校の金城くんだ。先頭が走るステージは残り三分の一を切り、これからは福富くんと金城くんの一騎打ちで勝負が決まるだろう。
 最後の給水所にサコッシュを持って立つ。少し離れた所に、総北の給水係二人が立っている。幼さの残る外見から、おそらく一年生の子だろうか。一人は黒髪のパーマで、もう一人は金髪のストレートの少年だ。彼らはコースの向こう側を見つめている。
 ――先頭に福富くんの姿が見えた。気持ちを切り替え、サコッシュを路上に向かってささげる。

「福富くん、頑張って!」

 福富くんがサコッシュを受け取る。力強くペダルを踏み、後ろに続く選手の追走を許さない。
 すぐに金城くんの姿が見える。金髪の少年が金城くんにサコッシュを渡し、声援を送る。金城くんがお礼を言ってペダルを踏んだ。一瞬にして、二人の背中が見えなくなった。
 補給の仕事が終わり、給水組全員で車に乗り、箱学のテントに向かう。テントの中に入ると、東堂くん、新開くん、荒北くんや他の部員の姿があった。

「これはトミーの勝利で決まりだな」
「尽八、勝敗はゴールに着くまでわからないよ。ま、オレも寿一が負けるとは思わないけどさ」

 荒北くんは携帯電話を耳に当て、誰かと話しているようだ。困惑している様子だけどなにかあったのかな……?
 電話を終えた荒北くんが携帯を閉じる。

「今黒田から聞いたんだけど、今トップ走ってるの榛名で二位が及川だって。福チャンと金城は集団の前にいる」

 給水所にいた時は、トップが福富くんで二位が金城くんだったのに。その後榛名主将たちが追い越してしまったのだろうか。

「荒北、先輩にはさん付けしろっ! ……にしても、トミーどうしたのだ……? 榛名主将と及川さんが速すぎて抜かれてしまったのか……?」

 荒北くんに詳しく話を聞こうとした時、周囲が騒がしくなった。トップを走っている榛名主将たちがもうすぐゴールを通過するらしい。東堂くんたちと一緒にテントを出て、インターハイ二日目のゴールを見届ける。


「二日連続で箱学が優勝か~! やっぱり王者は違うなぁ」
「榛名っていう選手の走り見た? ゴール前、風のように速かったの! すごかったなー」

 興奮が冷めやらぬ観客の会話に誇らしく思いながら、補給品の片付けをする。
 インターハイ自転車ロードレース二日目は、昨日に引き続き箱学が優勝した。福富くんは途中でレースを棄権。メカトラでもあったのだろうか……?
 ゴール前の榛名さんは万人が息を呑むほどの速いスプリントだった。時間が経った今も、目を閉じればはっきりと思い出せる。
 来年、荒北くんがゴールまでアシストして、福富くんが一位でゴールする。なんてすてきな光景だろう。来年のインハイのことを考えていたら、気持ちが高ぶって仕事に意欲が湧いてきた。
 さっさと補給品を片付けて荒北くんの自主練習でも手伝おう。――そう思っていた矢先、大きな物音が聞こえてきた。
 頭に一瞬思い浮かんだのは福富くんの顔。とても嫌な予感がして、音のした方向へ走る。

「――福富くんっ!」

 音のした場所に駆けつけた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 福富くんがテントの壁に背をつけ、うなだれている。頬には殴られたばかりの痕。口元からは血が流れている。
 すばやく視線をめぐらすと、大柄の男の人が福富くんの胸に手を伸ばす――!

「やめて!」

 大男と福富くんの間に割って入る。幼なじみが殴られるのを黙って見過ごせるものか……!

「どけっ!! そいつがなにをしたかわかってんのか!! そいつはなぁ、オレたちのエースに汚い真似したんだ!!」
「やめろ田所っち!!」

 大男の咆哮を、聞き覚えのある声が遮る。

「巻島くん……」

 福富くんの背中を支えて田所くんの後ろを見やる。――玉虫色のきれいな髪。巻島くんが、金城くんに肩を貸して立っていた。
 巻島くんが気まずそうに目を伏せる。

「なんでだよ……なんでだよ……! あと一歩のところで優勝が獲れたかもしんねぇのに、ジャージ引っ張って落車させるかよ!!」

 田所くんの目から大きな涙が流れる。福富くんが深く頭を垂れた。

「オレたちにはエースが一人しかいないんだ! 恵まれたハコガクとは違うんだよ!! 優勝するためにオレたちがどれだけ――」
「もうやめろ、田所。こんなことをしてもリザルトは変わらない」

 静観していた金城くんが口を開く。

「けどよ金城……」
「オレたちがやるべきことは明日に備えて身体を休めることだ」
「ま、待て! そんな身体で明日出場するのは無理だ!」

 福富くんの言葉に金城くんを見る。誰かの支えなしでは歩けない身体に、ボロボロになったサイクルジャージ。落車した身体では、明日は出場しないのが賢明だ。
 だが、金城くんの目に見える熱は冷めていない。どんなに打ちのめされても強く立つ選手のように、力強い目で福富くんを見据える。

「ロードレースのすべての勝敗は道の上で決まる。ゴールの決まる瞬間まで、どのチームが勝つか誰にもわからない。……だからオレは明日レースに出る。怪我をしようとも、勝つ見込みがなくとも。総北が優勝を獲るまで、絶対に諦めない!」

 ――なんて、強いのだろう。
 夢がかなう寸前で福富くんの手に阻まれた彼は、怪我をしてもなお明日のレースに出るという。
 眉根を下げた巻島くんと目が合う。巻島くんはなにも言わず、私と福富くんから背中を向けた。田所くんも鋭い一瞥を送った後に体を翻す。

「すまん、……」

 彼らが去った後、消え入りそうな声で福富くんが言った。……とりあえず、人目もあるしここから離れよう。福富くんに肩を貸し、箱学のテントまで連れて歩く。


 互いに無言のまま歩き、箱根学園のテントに近づく。片付けで忙しいのか中は無人。この状態の福富くんを誰かに見せるわけにもいかず、人目のつかないテント裏に連れて行った。周囲には他校のテントが並んでいて、隠れるのには絶好の場になっている。よほどの物好きでなければ誰も立ち入らないだろう。
 肩をはずし、福富くんの顔を見る。うつむいた福富くんの口端に血がついている。持っていたハンカチを取り出して、そっと彼の口元を拭った。

「オレは取り返しのつかないことをした。シフトチェンジに失敗して焦った時……前に出た金城を見て手を伸ばしてしまった」

 福富くんの体が震える。初めて見る弱気な幼なじみにどうしたらいいかわからず、肩に触れると――福富くんの膝の力が抜ける。倒れないように福富くんの背中に両腕をまわして抱きとめた。
 向こう側でなにかが落ちる音がした。音のした方を見やるとジュースの缶が地面に転がっている。その缶にはとても見覚えがある気がするのだけれど、今はそんなことを気にかけてる場合じゃない。幼なじみの体をそっと抱きしめる。

「勝負を仕掛ける前、少しの間金城と話をした。自分の力だけを信じて走るオレ。仲間の思いを背負って走る金城の信念は、ただの友情ごっこでしかないと思っていた。だが、オレが何度勝負をしかけてもあいつは喰らいついてきた。『オレは絶対に諦めない』……あの時アイツはそう言った。子どもの頃からあんなに走ってきたオレが、格下の選手に負けるわけがない。オレがいつも受けていた光に向かう金城を見て……オレは……」

 福富くんが懺悔するようにつぶやき、私の体を抱きしめる。

「金城に見た強さが受け入れられず、絶対にやってはならないことをしてしまった。オレは弱い……。明日のレースに参加する権利も、自転車に乗る資格もない……」
「福富くん……」

 離れた福富くんの顔から大きな涙が零れる。その顔に胸が強く締めつけられる。

 福富くんのお父さんとお兄さんは有名なロードレーサーで、箱根学園の卒業生でもある。そんな家庭に生まれた福富くんはロードレーサーになるべくして生まれたようなもの。小さい頃から自転車の練習に励んでいるのを見てきたし、時に悩む姿を見てきた。ロードレーサーの血が流れている彼には避けられない重圧があったのだ。
 福富くんの背中にあるものを私は知っていたはずなのに。どうして私は幼なじみがボロボロになるまで放っておいたのだろう。今まで、向き合う機会はいくらでもあったはずなのに。どうせ福富くんは耳を傾けてくれないと決めつけ、私は彼から逃げていた。
 何のために私は自転車部のマネージャーをやっているのだろうか。みんなの力になると言っておきながら、結局何の力にもなっていないじゃないか。

「……ゴメンね、なにもできなくて。あの時、ちゃんと福富くんに向き合っていればこんなことにはならなかったのに」
「お前のせいではない」
「でも私は、福富くんのことを見て見ぬフリした! なんでもないって突っぱねられるのが怖くて、大丈夫かなって不安に思った時……私はなにもしなかった」
「だが、お前は悪くない。これは、オレの弱さが招いた結果だ」

 福富くんが涙を拭う。

「榛名主将のもとに行く。今回の件、黙ったままでいるわけにはいかない……」

 福富くんはすっと私の肩に添えていた手を離して、その場を後にした。
 あの時、福富くんにもっと声をかけていればこんなことにはならなかったのに。今になって色んなことに対する後悔が湧いてきて、その後悔をかみしめるようにうつむいた。