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 逆さにした自転車の後輪を真上に引き上げる。何度も強く引っ張ってみるものの、どういうわけかタイヤはすんなりと外れない。

「荒北さーん、そっちもオレがやりましょうか?」
「いらねーよ! オレ一人でやる!」

 見かねた黒田が仕事を引き継ごうと声をかけたが、荒北が怒声混じりに断った。眉根を寄せた黒田が近くにいる泉田に耳打ちをする。

「今日の荒北さん、いつにも増して不機嫌だな……」
「そうか? ボクにはいつもどおりに見えるが」
「よく見ろ! 殺気がすごい漂ってる――」

 まなじりを吊り上げてこちらをにらむ荒北の視線に気づく二人。そそくさと逃げるように去っていった。

「……言われなくてもわかってるっつーの」

 後輪から手を外し、嘆息した荒北が一人つぶやく。
 タイヤがなかなか外れない。自転車の分解などいつもやっていることなのに、なぜか今日に限ってうまくいかない。あの時の光景が何度も脳裏によぎり、そのたびに手が力むのだ。
「この自転車オンボロなんじゃないのォッッ!?」そう言って、フレームを蹴飛ばしたい衝動にかられるが……以前福富に備品は大切に扱うように言われたことを思い出して、ぐっとこらえる。

 昨日、二日目のレースが終わった後、自転車部の誰かから片付けの手伝いを頼まれることを恐れた荒北は、こっそりテント裏に隠れてベプシを飲んでいた。
 絶好の隠れ場を見つけたつもりだったが、しばらくして後ろには人の声。サボっているのがバレてしまうだろうか……荒北がこっそり様子をうかがった時だ。

 ――が、福富を抱きしめている。

 その光景に思考が停止する荒北。手に持っていた空のベプシがすり落ちて、地面に向かって落下していく――!

「あっ――」

 手を伸ばして受け止めようとするものの、缶は地面に落ちて小さな音を立てた。
 急いで物陰に身を隠し、息を殺す。……もし、福富たちに見つかったらなんて言い訳をしよう。「お前ら、こんな所でなにやってんだよ!」お前こそなにをやっているんだと福富からの冷ややかな反撃を予想する。「お前ら、実はデキてたのか!」なぜだか無性に腹が立つ。この言葉こそありえない。
 あれこれ考えてみるものの、福富たちはこっちに来ない。おそるおそる様子を見ると、福富たちはまだ抱きしめあっていた。その光景を見て、胸が強く痛む。
 かすかに声が聞こえるが、荒北は内容を聞かず踵を返した。それを耳にしたら、心の中にあるものが崩れるような気がしたからだ。

「……アイツ、もしかして福チャンのこと……」

 テントから出た荒北が独りごちる。こんなこと、幼なじみと聞いた時点で予想できたはずなのに。いざ目の前にすると、どうしたらいいのかわからなかった。


 それから、翌日になっても心の中にあるもやは晴れなかった。いっそのこと本人に聞こうかと思ったものの、福富は総北の選手と一悶着あったといううわさがあり、は落ち込んでいてとても話しかけられる状態じゃない。新開には以前のことでからかわれた件があるから聞くに聞けず、東堂に聞いても首をかしげるだけで終わるだろう。
 以前から福富のことが好きだったが、たまらず福富を抱きしめたのだろうか。
 実は周囲には内緒でこっそり付き合っているのだろうか。
 は福富のことが好きなのだろうか――。

「……ムカつく」

 意味もなく工具を握った手に力がこもる。
 アイツとは度重なる縁があって、ちょっとは親切にしてやろうと気にかけてやった。祭りの夜の出来事の後では、できるだけ対等に、自分なりに優しく接してきたつもりだった。
 ……だが、そいつは福富のことが好きだった。そう思うと苦しくて、切なくて、悲しくて、腹が立って……今までに経験したことのない、よくわからない気持ちがこみ上げてくる。
 こんなに腹立たしいのは、盟友が今年突然現れた人物に取られてしまったからだろうか。……違う。
 色恋沙汰からかけ離れた部活の中、一つの関係が出来上がったことにねたみを感じているのだろうか。……それも違う。
 この気持ちは、なぜかに向けられていて。もし、福富の相手がでなければここまで悩んだりしなかったはずだ。
 なぜなのだろうか。無い頭で考えて、一つの可能性にたどり着く。

「……まさか」

 思いついた可能性をあざ笑うように肩をすくめる。……まさか、そんなわけがない!
 彼女は自転車部のマネージャー。そう錯覚するのはきっと自分と近い距離にいるからだろう。それに自分は、恋愛事にうつつを抜かしているほど余裕はないのだ――

「靖友?」
「アァッ!?」

 考え事をしている最中に名前を呼ばれて荒北はついに激怒した。
 ばっと振り向き、名前を呼んだ人物を見て目を見開く。
 ――一年半ぶりになるのだろうか。最後に見た時よりも身長は大きく伸びたが、童顔なのは昔と変わらない。

「南雲……」

 まさか、会いたいと思っていたバッテリーにこんな所で会ってしまうなんて。信じられない出来事に、荒北は目を大きく瞬いた。

「靖友……靖友だよね! 久しぶり!」
「ひ、久しぶり」
「こんな所で会えるなんて奇遇だね! ジャージに箱根学園って書いてあるけれど箱学に入ったの? ボクは横浜綾瀬に進学したんだけどさ、今日は他校の友達が出場するって聞いて応援でここまで来たんだ。京都伏見っていう学校なんだけど、知ってる?」
「さ、さぁ、知らねェな……」

 本当は京都伏見のことは知っているのだが、緊張のあまり嘘をつく。

「そうだ。この前携帯水に濡らしちゃってさ、連絡先全部消えちゃったんだけど交換していい?」
「あ、あぁ、いいぜ……」

 震えた手で携帯を取り出す荒北。赤外線ってどうやんだっけ……。またもや緊張のあまり、度忘れしてしまう。

「そういえば靖友のメールアドレス、家のワンコの名前が入ってたよね。今もあれ使ってるの?」
「ま、まぁな……」

 もし、奇跡が起きて南雲と再会したら真っ先に謝ろうと思っていたはずなのに。いざ本人を目の前にすると、なかなか言葉が出てこない。
 緊張する自分とは対照的に、南雲はあの頃と同じように穏やかな笑みを浮かべている。まるで過去に荒北と喧嘩別れなどしなかったかのように。
 話が進む途中で荒北は気づく。もしかして南雲は、あのことをなかったことにしたのだろうか。それとも、忘れているのだろうか。
 連絡先の交換が終わると、遠くで南雲を呼ぶ男の声が聞こえてきた。

「じゃあまたね靖友。今度どっか遊びに行こう」

 南雲が手を振り、友人らしき男たちのもとに走っていく。
 結局、言おうと思っていた言葉は言えずじまい。荒北は携帯を片手にポカンと立ち尽くしていた。

「……どいつもこいつも勝手だな」

 自分の知らないところでなにかが進んで、周囲の人間たちが変わっていく。一人置いていかれたようでなんだか解せない。