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 練習前のミーティングで福富くんが新開くんの復帰を発表すると、部員の間で歓声が湧いた。泉田くんが涙を流して喜び、荒北くんの口元が緩んでいることが強く印象に残っている。
 絶好調になった部活のことを考えながら、天気のいい昼休み、友達の響子と一緒に屋上でごはんを食べていた。
 すぐ近くには三人の女子グループ。特に気にせず、ごはんを食べていたのだけれど――

「自転車部の二年の荒北っていうヤツ、最近カッコいいよね」
「むぐっ……!」

 食べている最中の卵焼きを喉につまらせそうになる。

「大丈夫!?」

 慌てる響子に「大丈夫!」と手でジェスチャーして、卵焼きを咀嚼し、お茶を一気に飲む。
 胸元を押さえながら女子グループの会話に耳を澄ませる。

「この前レース見たんだけどさ、下りをすごいスピードで走ってて、エースを引いてるの。カッコいいなって思ったよ」

 この人は荒北くんのことが好きなのだろうか。そう思うと嫌な気持ちがこみ上げてきた。
 荒北くんと同じ自転車部の東堂くんは、校内で絶大な人気を誇っている。荒北くんも東堂くんのようにならないとは言い切れないだろう。
 どういうわけか気になって、さらに耳を澄ませる。盗み聞きしていることがバレないように、唐揚げを食べてごまかす。……なんでこんなことやってるんだろう、私。

「まぁ……東堂様の方が一番カッコいいんだけどね~!」
「そうよねー!」
「ごほっ、ごほっ!」

 今度は唐揚げを喉につまらせる。

、アンタ本当に大丈夫!?」

 響子がまたしても慌てて、私が手に取るよりも速くお茶を差し出してくれた。
 響子からお茶を受け取って飲んで、涙目になりながら三人組を見やる。知らない人だと思っていたけれど、よく見たら東堂ファンクラブの人たちだ。あのお団子頭は特に覚えている。
 ……なにに不安になったのかはわからないけれど、心配して損した。ため息をつくと、ふと疑問が湧いた。

「東堂ファンクラブってあるけどさ……。よくドラマで見るようなトラブルって、あんまり聞いたことないよね」

 響子に小声で尋ねてみる。響子は笑って、

「みんな東堂くんと付き合えないってわかってるからねー。抜け駆けしないで全力で応援しようって結束してるみたいよ」
「私のこと、悪く思ってる人がいたりして……」
「あはは! アンタドラマの見過ぎ! 同じ部活のマネージャーってだけで敵視するのどんだけよ!」

 響子の言うとおりドラマの見過ぎなのだろうか……。なにはともあれ、私がトラブルに巻き込まれることはなさそうだ。

「……ん? もしかして、東堂くんのこと」
「ちっ、違うよ! ただの部活仲間っ」

 強く否定して、ごはんを一口食べる。
 ……なんでさっき、不安な気持ちになったんだろう。


 今日の放課後は珍しく自転車部が休み。いざ休みと言われても、なにもすることが思い浮かばなかった私はウサギ小屋に寄った。小屋のドアを開けて中に入ると、わらの中に隠れていたウサ吉がひょっこり顔を出した。私の足元に来て顔を上げる。

「こんにちは、ウサ吉」

 その場にしゃがんでウサ吉の背中をなでる。ウサ吉が気持ちよさそうに目を細めた。

「あっ、さん! ちょうどいいところに!」

 フェンス越しに私に声をかけたのは、クラスメイトの田島くんだった。

「荒北にさ、明日の放課後保健委員の集まりがあるって伝えておいてくれる?」
「田島くんが伝えた方が早いんじゃ」
「いやぁ……。オレが言っても来てくれないんだよね。アイツ怖いし。んじゃ、頼んだからな!」
「えっ、ちょっと待って!」

 私の返事を聞く前に田島くんは走って去っていってしまった。……しょうがないなぁ。肩をすくめながらポケットに手を入れるものの、いつもある物の感触がない。

「……しまった……」

 携帯を家に置いてきてしまったようだ。
 今日は荒北くんの自主練習に付き合う予定もないし、明日荒北くんに会ったときに言えばいいのかもしれないけれど……明日になったらうっかり忘れてしまいそうだ。

「ゴメンね、ウサ吉」

 バッグを持って立ち上がる。自転車部の練習がない日、荒北くんのいそうな場所は大体見当がつく。


 ウサギ小屋から離れた所に旧校舎がある。学園内では隅に孤立する旧校舎は人気がなく、寂れた校舎に廃墟を連想させる。屋上のフェンスが老朽化しているため、近づかないようにと最近先生がホームルームで言っていた言葉を思い出す。

「……いたいた」

 そんな旧校舎の近くに一人、佇む男子学生の姿が見えた。背を向けてなにをしているのかわからないけれど、大体の察しはつく。

「オメェ体こすりつけてんじゃねーよ。くすぐってーだろォ」

 嫌というわりにはまんざらでもなさそうだ。
 このまま猫とたわむれているところを見るのもいいんだけど……。今日はすぐに声をかけよう。

「荒北くん」

 声をかけると、荒北くんは驚いて私を見た。

「なんだ、お前か」

 驚いて損した、と言わんばかりに視線を戻し猫をなでる。
 荒北くんになでられて気持ちよさそうに目を細める黒猫と目が合う。きれいな金色のつぶらな瞳。今なら仲良くなれそうな気がして、しゃがんで黒猫に手を伸ばす。

「シャーッ!!」
「えぇっ」

 黒猫は後ろ足を上げて大きく威嚇し、荒北くんの背中に隠れた。

「いきなりなでようとすっからだよ。こういうのはな、日頃の積み重ねが大事なんだよ」
「むむむ……」

 なんで荒北くんにはなついているのに私には心を開いてくれないのだろうか。この猫の性別メスなのかなぁ……。そう思いながら眉をひそめる。

「で、何の用だよ」
「田島くんが、明日の放課後保健委員の集まりがあるってさ。メールしようと思ったんだけど、携帯家に置いてきちゃって……」
「集まりっつっても、どうせぐだぐだで終わるだろうに」
「だからって田島くんに任せきりじゃダメだと思うよ」
「へいへい」

 行く気は全くなさそうだ。荒北くんには伝えたし、これ以上はなにも言わないでおこう。

「……新開、部活に戻ってきたな」

 猫の背中をなでながら、荒北くんが言った。

「うん。本当によかった」

 前に新開くんがインハイを辞退した時、どうしたらいいかわからなくて荒北くんに相談したことがある。あれから半年も経ったんだ……。荒北くんとこの話をして、改めて実感する。
 半年の間に起こった出来事を思い返す。桜舞い散るサイクリングロードで荒北くんと出会って、新開くんのことを相談して、合宿のあの日を境に自主練習を手伝うようになって……。今思い返すと私は、荒北くんに助けられてばっかりだ。

「ありがとう、荒北くん」
「ハァ? なんだよ突然」

 突然のことに驚いたのか、荒北くんは頬を朱に染めて戸惑っている。

「荒北くんがいなきゃ、ここまで来れなかったと思って」
「ハッ。別にオレはなにもしてねェよ」
「してくれたよ、たくさん」

 空を仰ぐ。秋の空は高く、青空が澄んで見える。時々吹き付けるそよ風のように心は静かに凪いでいる。
 ――荒北くんに感謝の気持ちを伝えたい。穏やかな気持ちで、いつの日か思ったことを口にする。

「……私ね、福富くんのことで悩んでいた時、練習を頑張っている荒北くんを見て、立ち止まってる場合じゃないなって思ったんだ」

 インターハイが終わった後。私は部活にいていいのか悩んでいた時期があった。
 私の代わりなんていくらでもいる。ぐるぐると迷いが渦巻いては、足をすくわれそうになったけれど……来年のインハイを目指して頑張る荒北くんの姿を見て、悩んでいる場合じゃないって思い直すことができた。
 その時だけじゃない。言葉じゃ伝えきれないくらい、荒北くんには多くのものをもらった。
 新開くんのことで悩んでいた時には道を示し、合宿の時ゴシップ記者に捕まった私を真っ先に助けてくれた。
 風邪をひいた時にはおかゆを作ってくれたり、私の部屋までおぶってくれたりして……中でも記憶に残っているのは合宿三日目の夜のことだ。あの日、荒北くんが夢を打ち明けてくれなかったら……今頃私は中途半端な気持ちのまま部活に取り組んでいたかもしれない。
 荒北くんと出会って、まだ半年にも満たないけれど。本当に彼にはたくさんの物をもらった。

は気づいてないかもしれないけれどさ。おめさんって、結構周りを変えてるんだぜ?』

 あの時の新開くんの言葉がよみがえる。
 もし、私がいてみんなが変わったというならば。私は、荒北くんのおかげで変われたのかもしれない。

「荒北くんに会えてよかった」

 まだ部活を引退するわけでもないのに、随分と気の早い言葉だと自分でも思う。
 けれど、半年の出来事を思い返した今、どうしても言わずにはいられなかった。今浮かんだこの気持ちを是非彼に伝えたかった。
 荒北くんは猫をなでる手を止め、一瞬だけ目を伏せて――意を決したように私を見据える。

。オレは、お前のことが――」

 その言葉の続きを遮るように、大きな物音がした。猫が草むらに逃げる。
 音がしたのは旧校舎からだ。ここから見る限り、何の変化もないけど……

「屋上からなにか落ちたんだろ。ここも本当に危なくなってきたな」

「ネコのヤツ、来るなっつってるのに来るし……」荒北くんが小声で言いながら立ち上がり、毛だらけになった手をはたく。

「オレ、自主練して帰るわ。お前は?」
「私も付き合うよ」
「あっそ」

 いつもと変わらない態度で、荒北くんが歩き始める。
 さっき言いかけた言葉は何だったんだろう。歩調の速い彼に追いつくのが精一杯で、結局聞けずじまいだ。