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 アスファルトの上をどれだけ走っただろう。容赦なく照りつける太陽が肌を焦がし、生ぬるい風が体に当たる。汗はとめどなく流れ、喉はカラカラで、ペダルを回す足は今も悲鳴を上げている。
 左右からは客の歓声が聞こえる。いつもは煩わしく感じるこの歓声は、体力が限界に近づいている今あまり耳には入らない。
 後ろには何台もの自転車の車輪の音が聞こえる。振り返らずともわかる。仲間が後ろについて走っているのだ。
 まるで前に見たインターハイに似ている大舞台。夢焦がれたこの舞台を、チェレステカラーの自転車の乗り手――荒北靖友はチームを引いて先頭を走っていた。
 ここまで、一人で来た――。

 自転車部で過ごしてきた日々を思い出す。
 福富に出会ったことがきっかけで自転車を始め、そこで後に仲間になる東堂や新開に出会い、自転車初心者という底辺からたった三年間でここまで上り詰めた。

「インハイに出るのなら人の三倍練習しろ」

 あの時、耳を疑うようなことを言った福富の言葉を思い出す。今度こそ夢をかなえたくて、その言葉を胸に努力を積み重ねてきた。
 レース中の時も、夜自主練習している時も。思えば一人でよくここまで来られたと……
 あれ……? オレは本当に一人だったのか?
 回想に大事な人の姿が欠けている。その姿はぼんやりとしていて思い出せない。だが、その人のことを思うだけで練習を頑張れたり、時に胸が苦しくなってしまったりするのだ。
 その人はたしか――桜舞うサイクリングロードで落車した自分に手を差し伸べたことが最初の出会いだった。
 仲間のために悩み解決策を探し、ある時は思い悩む自分に温かい言葉をかけては練習を手伝ってくれた。
 いつの間にか自分の中で存在が大きくなって、最近、恋愛感情を抱いていることにやっと気がついた――



 彼女の名前を口にした瞬間、急にペダルが重くなった。レバーに指を添えて、ギアを変える。
 一枚落とす。まだ重い。
 一枚落とす。まだ重い。
 全てのギアを落としたが、ペダルの重さは先ほどと全く変わらない。
 ハンドルを握る手が汗ばむ。こんなにも足が鈍く感じるのは、足が故障してしまったからだろうか――。
 そう思った瞬間、ぞわりと一筋嫌な汗が背中を伝った。脳裏によぎったのは中学の頃肘を壊したあの時。練習試合の最中だった。今まで大したことないと思っていた肘の痛みが耐え切れないほどに大きく痛んで、試合は一時中断となった。心配そうに様子をうかがう顧問と、南雲の顔をはっきりと覚えている。
 まさか、今の足の鈍さがそうだとは思いたくない。だが、どんなに気をつけていてもその事態は突然訪れることを知っている。
 ――オレはまた故障したのか。もう一度頂点を目指したいと思ったこの時でさえ。

「故障じゃないよ」

 突然声をかけられて思考が止まる。
 荒北が隣を見ると、自分そっくりの人物が同じビアンキに乗って並走をしている。自分と違うところといえば、少し長めの前髪と、どこか柔和な雰囲気を感じさせるところだろうか。

「君の足はいたって正常だ。オレが保証する」

 じゃあなんでこんなにペダルが重いんだ。荒北は声に出して言おうとしたが、喉がカラカラで声が出ない。
 しかし、男は荒北の言うことなど声に出さなくともわかるように、

「君はその原因に気づいているはずだよ」

 うっすらと笑んで言った。――なんだよ。遠回しに言わないでさっさと言えよ。
 荒北が鋭い目つきで男をにらむ。男は荒北の反応を楽しむようにさらに笑った。

「それはのせいさ」

 心臓が大きく跳ねる。――アイツが、今のスランプと何の関係があるっていうんだ。

に会ってしまったせいで君は変わった。恋を知って、あまつさえ忘れていた野球部のことを思い出した。自転車を始めてやっと消えたしがらみが、今君の足元に絡みついている」

 ――バカじゃねェの。んなの、気の持ちようでなんとでもなる。

「制御できない感情ほど怖いものはないよ。あの時、君が後悔の沼からなかなか抜け出せなかったように……気がつけばがんじがらめになって、いつの間にか足を鈍らせるんだ」

 男の言葉に荒北は否定できない。たしかにあの頃、肘を壊したことを後悔しては前を見ることができなかった。福富に出会い自転車に乗らなければ、もしかしたら今も過去にとらわれたままだったかもしれない。

「さぁ、どうする靖くん。思いを捨てて夢を取るか。夢を捨てて思いを取るか」

 ――んなの、どっちでもねェ! オレァ前に進む!

 ペダルを強く踏み、男を追い越そうとする荒北。

「忠告したのに。愚かな靖くん」

 男の唇が弧を描く。
 強く踏んだはずのペダルが回らない。チェーンに異常が起きたのか、それともベアリングが駄目になったのか――。
 原因を考えているうちに車体が大きくふらつく。荒北は落車を覚悟し、せめて痛みが少ないようにと左の芝生に体を傾ける。
 大きな音を立てて落車した。背中には激しい痛み。目を瞑り、痛みをこらえる。

「両方を取れるほど現実は甘くない。中途半端な覚悟で行けば、またあの時と同じ繰り返しになるよ」

 男が福富をはじめとするチームメイトを引いて前に進み、最後に倒れたままの荒北を一瞥してつぶやく。

「今ならまだ間に合う。……捨てなよ、思いを」

 荒北が半身を起こした頃にはチームの姿は見えず、車輪の音すら聞こえなかった。
 行き場のない荒北が空を仰ぐ。空には雲ひとつなく、落車した荒北をあざ笑うかのように太陽はまぶしい輝きを放っている。 

「オレは……」

 あの時、故障に気づいてからはどうすることもできなかった過去。だが、今はどちらかを選ぶ余地がある。思いを捨てて、夢を取るか。夢を捨てて、思いを取るか。
 もし、どちらかしか選ぶことができないというのならば、オレは――。