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バスに揺られながら窓の外の景色を見ていると、違和感に気づいた。
私に寄りかかって寝ていた荒北くんが、眉根を寄せて小さく呻いている。
「荒北くん……?」
悪い夢でも見ているのだろうか……? 不安になり、荒北くんの肩にそっと手を触れると
「――っ!!」
触れた瞬間に起きて、私の手を強く払った。
私は呆然として、荒北くんはまだ寝ぼけているのか、自分の手と私を交互に見て大きく瞬きをしている。
「……ワリィ」
「う、ううん。私は大丈夫だけど……」
「……嫌な夢見た。レース前だっつうのに最悪だ」
一体どんな夢を見たのだろう。聞こうとした時、目的地を告げるアナウンスが車内に流れた。
窓の外を見ると、輪行袋やロードバイクを携えた人たちの姿が見える。今日はここでロードレースが行われ、箱根学園からは荒北くん一人のみが出場する。
――一週間前。部室で、福富くんが書類を見ている横で今日の練習日誌をつけていた。
最近の部活は毎日のようにトレーニングレースをしていた。福富くんと東堂くんが何度も優勝する一方、荒北くんは下の順位。彼のスランプは今も続いている。
荒北くんのスランプが始まって二ヶ月近く経つけれど、このままでいいのだろうか。仕方のないこととはいえ、長い間結果が出ないと監督がなにを言うかわからない。
「……なぁ、。荒北はこれ以上伸びると思うか?」
信じられない言葉に、練習日誌から顔を上げて福富くんを見る。福富くんは書類を見つめたまま、今の言葉を撤回しようともしない。
「福富くん……?」
「お前も、今のアイツの状態を知っているだろう。がむしゃらに努力しているようだが、二ヶ月経った今でも停滞したままだ」
「今までが調子良すぎたんだよ。プロのスポーツ選手にだってスランプがあるの福富くんだって知ってるでしょう?」
「だが、オレたちは王者だ。いつまでも実力が上がらない者をインハイメンバーに加える気はない。……それが荒北だとしても、例外ではない」
「ひどいよっ、福富くんは!」
立ち上がり、福富くんをにらみつける。福富くんも力強い眼光で私を見返す。
「オレとて悩まずに結論を出したわけではない。だが、もうすぐ期限が迫っている。近日中に結論を出さなければならん」
「私は絶対に反対する! 荒北くんはインハイを目指して部活動以外の時も練習してきたんだよ!? それをこれ以上伸びないからって切り捨てるのはひどすぎるよ!」
部室のドアが勢いよく開く。ドアを開けた人物の顔を見て、頭の中が真っ白になった。
「荒北くん……」
「なに福チャンにケンカ売ってんだよ、バカ」
荒北くんは毅然とした顔でつかつかと歩き、福富くんの前に立つ。
「簡単なことだ。オレが結果を出せばいい。そうだろ福チャン!」
「あぁ」
「今度のレース、オレは一人で出る。上位に入ったら考え直してもらおうじゃないの」
「名の知れたクライマーが何人か出場するという。そのレースで結果を出せば監督も納得するだろう」
「今の約束、絶対に忘れんなよ」
荒北くんが体を翻し部室を出る。私も、福富くんを一瞥した後荒北くんを追いかけて部室を出た。
「荒北くんっ」
「福チャンの言うとおりだ。ここで這い上がることができなきゃ福チャンのアシストは務まらねェ。勝てばいいんだろ? 楽勝だ」
結果が出ないことに一番悩んでいるのは荒北くん自身なのに。振り返った荒北くんは、不敵な笑みを浮かべている。
……でも、荒北くん一人で放っておくわけにはいかない。
「今度のレース、ついてくよ」
「いらねーよ。補給は現地のボランティアがやるし、お前の仕事ねェっつの」
「仕事はないけど、応援することならできるよ」
「まぁ……どうしてもっつうんなら、別にいいけど」
こうして、レースの日を迎えた。
今日は絶対に負けられないレース。ここで結果を出さなければ、荒北くんがもっと窮地に立たされてしまう。
荒北くんが輪行袋から出した自転車を慣れた手つきで組み立てていく。
「体調はどう?」
「まぁまぁ。これで天気がよかったらいいんだけどな」
荒北くんの言葉に空を仰ぐ。今日の天気予報は曇りのち雨。天気予報がはずれてくれればいいのに、空は灰色の雲でびっしりと覆われていて、今にも雨が降りそうだ。
「なんでこんな日に限って雨かなぁ」
空を見るのをやめて踵を翻す。
「あっ――」
「バカッ」
ビアンキのフレームに足をひっかけてしまった。前のめりになった私を、荒北くんが慌てて抱きとめる。
瞑った目をおそるおそる開くと、心臓がトクンと跳ね上がった。
――荒北くんに抱きしめられている。体が密着して、サイクルジャージを着ている彼の胸から、心臓の鼓動の音が伝わってくる。
「荒北くん……」
離れなきゃ……。そう思うのに、このままこうしていたくて「離して」の一言が言えない。
荒北くんも私の背中に手をまわしたまま、その腕をほどこうともしない。力をこめて抱きしめられて、さらに密着する。
自分自身の心臓の音が大きくなっていることに気がついた。このことを荒北くんに気づかれたらと思うと恥ずかしくて、彼の腕の中で身じろぎをする。
やっと緩めてくれた腕に一歩退いて、荒北くんを見上げる。
「……」
荒北くんの真剣な表情に、心臓が大きく波打つ。
荒北くんが顔を近づければキスできそうな距離。頬に手を添えられて見つめ合う。
「つまずいてんじゃねェよ、ボケナス」
「いたっ」
添えていた手を頬から額に位置を変えて――容赦ないデコピンをされた。
「レース前に怪我とかマジでありえねェから」
「ご、ゴメン……」
荒北くんはフレームを手に取り、自転車の組み立てを再開した。そわそわしながら、何事もなかったように自転車を組み立てる手つきを見る。……時間差で恥ずかしさがこみ上げてきた。
「私、飲み物買ってくるねっ!」
「ついでにベプシもよろしく」
予想どおりの荒北くんの注文を聞いて自販機に向かう。自販機は少し離れた位置にあるけれど、火照った顔を冷やすにはちょうどいい時間稼ぎだ。