39
コースの試走を終えた荒北くんが、自転車に乗ったままこちらに来た。近くで停止してヘルメットをはずし、首を左右に振る。
「今日のレース、下りが多いんだな」
「その分登りもあるけどね。……今日の意気込みは?」
「もちろん、優勝に決まってンだろ。じゃないと福チャンに見せる顔がねェ」
荒北くんを見る限り、いつもと変わらない様子だ。
……でも、嫌な予感がするのはなぜだろう。理由は説明できないけれど、放っておけないような……。インハイ二日目の朝の福富くんの時と、どこか似ている。
「荒北くん……」
「お前、そろそろ行かなくていいのか? 向かっている最中にオレがコース通りすぎても知らねーぞ」
腕時計を見ると、レース開始まであと少し。そろそろバスに乗らないと荒北くんの応援ができなくなってしまう。
「……じゃあ、私行くね」
踵を翻し、バス停に向かう。
途中、荒北くんのことが気になって後ろを振り返ったけれど、もうスタート地点に行ったのか荒北くんの姿は見えなかった。
列に並んでバスが来るのを待ちながら、バッグの中からリーフレットを取り出して今日のコースを確認する。
「あの、すみません」
後ろから声をかけられて振り返る。声をかけたのは、私と同じくらいの歳の女の子だった。
「ゴールゲート行きのバスはこっちでいいんやろうか」
「こっちは古谷峠行きですよ。ゴールゲート行きのバスはあっちの行列ですけど、さっきバスが出たばっかりであんなに並んでますし、行っても混んでると思います」
すぐ近くにある長蛇の列を指さす。あれではゴールゲートに行くのにだいぶ時間がかかってしまうだろう。
「そうなんか……困ったわぁ」
「こっちのバスでも、いい観戦ポイントに行きますよ。登りだから選手は一瞬で通り過ぎないし、選手がここに着く頃にはレースの終盤だからいい走りが見れると思います」
「ロードレース、詳しいんやね」
「あの……よかったら一緒に行きませんか?」
「ええの……?」
「私もちょうど一人ですし。迷惑じゃなければですけど」
「じゃあ……よろしくお願いします」
女の子の名前は佳奈という。苗字も教えてくれたけれど珍しい苗字で「佳奈って呼んでください」と言われたので佳奈ちゃんと呼ぶことにした。
佳奈ちゃんは私と同じ学年で、はるばる広島からここに来たという。独特のなまりは広島によるものだ。
お互いの学校の話をしているうちに、あっという間にバスが来て目的地に着いた。ここなら観客が多すぎず観戦を楽しめるだろう。沿道に立って、話の続きをする。
「応援したい選手って、佳奈ちゃんの友達なの?」
慣れないロードレースの観戦に来たのは、応援したい選手がいたからだと言う。選手と佳奈ちゃんはきっと知り合いか友達なのだろう。そういうつもりで聞いてみると佳奈ちゃんは……
「友達っていうより……うちの元カレなんじゃ」
「ももも、元カレっ!? ゴメン私中学の時から幼なじみのレースを見に行ってたから、てっきりそうじゃないかと思って……!」
「気を遣わんでもええよ。今じゃ笑って話せることじゃ」
佳奈ちゃんがくすくすと笑う。失礼なことを聞いてしまったと思ったけれど、特に気にしていないみたいだ。
佳奈ちゃんが道の先を見て、昔を懐かしむように目を細める。
「夏休みが終わった日のことじゃ。栄吉くんに、『他に好きな女ができたから別れたい』って言われて……。突然のことじゃったから、受け止めるのに時間かかったわ。でも、今の栄吉くんを見てたら、うちとは別れた方がよかったかもしれないって思うんじゃ」
「なんで……?」
「私と別れてから栄吉くん、部活頑張っとるみたいでな。今の栄吉くんには、うちは必要ないんじゃ」
冷たい風が吹いた。佳奈ちゃんが風でなびく髪を手で押さえる。
「人を好きになることって、必ずしもええことばかりじゃないと思う。別れる前、栄吉くん学校も違うし、部活で忙しいのにうちに会う時間を作ってくれてな……。今思うとうちは栄吉くんに甘えとったんじゃ。うちがいたらその分自転車に時間を割けなくなる。……最近来年のインハイでは絶対に優勝するって意気込んでるって聞いたんじゃ。うちと別れた栄吉くんは、今度こそ日本一になることができる。栄吉くんの進む道の先には、うちはいない方がいいんじゃ」
「そんなことは……」
なぜ、ここまでムキになるのだろう。自然と心に浮かんだのは荒北くんのこと。
――荒北くんがスランプになったのは、インハイが終わった後だ。
今の佳奈ちゃんの話は、他人事のようには思えない。
――インハイが終わってから、たまたま手が触れた時、ふたりっきりになった時。意識してしまうことが多くなった。
私は、荒北くんの足を引っ張ってなんかいない!
――スランプになってから、荒北くんはとても苦しそうだ。なんとかしてあげたいけれど、私にはなにもできない。
荒北くんには、インハイに出てほしいと思っていて……!
――それだけ?
それ以外にはなにも望んでなんかいない!
――もし、荒北くんが他の女の子に向かって笑いかけていたら。それでも私は「部活仲間」として彼に接することができるのだろうか。
それは……できない。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
本当はわかっている。私は、荒北くんにとって、特別な存在になりたいと思っている。
そして、荒北くんのスランプの原因は――
「だから今日栄吉くんの走りを見て、この気持ちにケリをつけようと思ったんじゃ。そういう思いで今日はここまで来たんじゃ」
佳奈ちゃんが寂しそうに笑う。
私には、彼女を説得する権利はない。
それから数分後。近くの観客の一声によって、荒北くんが落車してレースを棄権したことを知った。私は佳奈ちゃんに謝ると、急いでバスに乗り救護テントへ向かった。