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 一定のリズムを保ちながらペダルを回す。
 試走の際、特に脳裏に焼き付けた「急勾配注意」の立て看板が視界に入る。荒北はこれから入るコースに備えて下ハンドルを握り、腰の位置を低くした。
 今日のレースは坂が多いクライマー向けのコース。オールラウンダーの荒北には一見有利でも不利でもないように見えるが、このコースの道中に二回大きな下りがある。下りにはライン取り、バイクコントロールの能力が必要であり、両方とも兼ね備えた荒北にとって下りは一番得意なコースだ。かつて原付に乗っていた時に身に付けたバイクコントロールの腕前が自転車に乗るようになった時にも生きて、彼の強みとなっている。
 試走の時に、ここで勝負を仕掛けると決めた。今まで後方の集団にのみこまれない位置で走り、足を溜めてきた。当初の計画どおり、ここで一気に数人を追い抜く。
 荒北が下ハンドルを強く握る。車体が傾き、下りに入った。
 遠くを見て、適切なラインを選びその上に自転車を走らせる。
 前方に二人の選手が見えた。しかし、すぐに後方に流れて姿が見えなくなった。

「箱学だ」
「速いなアイツ!」
「ハッ、遅いんだよ!」

 背後から聞こえた選手の声に荒北はあざ笑う。さらに一人の選手を追い抜く。
 体全体に風が当たる。髪がなびき、体中にかいた汗が一瞬にして冷えていく。まるで急降下するジェットコースターに乗っているよう。この感覚に抵抗を持ち、下りが苦手だというライダーもいるが、荒北にとっては苦ではなかった。
 下りで数人の選手を一気に追い抜き、平坦道に入る。下ハンドルからブラケットに手の位置を変え、ペダルの回転数を高めてさらに三人を追い抜く。
 追い抜いた後もペダルを回す足は緩めない。気張りすぎだとは思うが、今日のレースは絶対に負けられないのだ。
 ――ここで勝たなきゃ、オレはインハイに行けねェ――!
 ようやくここまで来たのだ。スランプごときで夢を諦めるわけにはいかない……!
 強くペダルを踏むと、頬になにかがあたった。視線を上げると雨が降っている。
 ――最悪。荒北がそう思った瞬間、緑ジャージの選手が隣に並んだ。

「よぉ、ハコガク」
「ンだよテメーは。呉南……あんまり聞かねェ学校だな」
「オマエは知らなくてもワシは知ってるよ。飢えた野獣の荒北じゃろ」

 飢えた野獣は誰かが荒北の走りを見て流布した通り名だ。ゴールに近くなるほど荒北は牙を剥き出しにした野獣のように本領を発揮する。

「オレは忙しいんだ。邪魔すんなっ」

 荒北が男を追い抜こうとペダルを踏む。男もペダルを踏み、すぐに並走された。
 ――コイツ、スプリンターか? 荒北が目を眇めて男を見る。

「逃げるなよォ荒北クン。ここから先は平坦道。ワシを追い抜こうとしたって無駄じゃ」
「ちっ……」
「ワシは広島呉南工業高校の待宮栄吉。今年のインハイで、そっちの福富には世話になったんじゃ」

 福富の名前が出た瞬間、荒北の眉がぴくりと動く。

「あれは二日目のレースのことじゃ。モッてないことに補給でもらったボトルが全部ダメになってのぅ。すがる思いで福富にボトルを分けてくれとゆぅたんじゃが、アイツは首を左右に振った」
「あの鉄仮面、ましてや敵校の選手がボトルを分けるわけねーだろ」
「ロードレースは紳士協定という暗黙のルールがある。困ったときには敵味方関係ないじゃろ」

 待宮の言うとおり、自転車にはレース中紳士プレーを要求される場面もある。時には敵味方関係なく、風除けとなって先頭を交代しながら走り、メカトラなどのアクシデントが起きた際には追い抜きは絶対にしない。
 だが、福富は王者箱根学園の代表の一人。優勝を目指して走る彼にとって、喉が渇いている待宮にボトルを分ける義理はない。

「屁理屈こねたってオマエが言ってるのは逆恨みだ」

 ――気持ちはわからなくもないけど。その言葉を省き、荒北は言った。
 待宮の話に、かつて肘を壊して周囲を責めた過去を思い出す。福富がボトルを分けなかった理由もわかるが……待宮の憤りを、荒北は少しだけ理解した。
 待宮が頭を垂れ、低い声で笑う。荒北は怪訝な表情で待宮の顔を見た。

「エッエッエッ。普通はそう思うかもしれんなぁ……。じゃがなぁ、今年のインハイの開催地は地元の広島。あと一歩のところで優勝が獲れたというのに……それをあの男はすまなさそうな顔ひとつ見せず、『できない』と言い切った! ワシの夢を簡単に壊しやがった!!」

 顔を上げた待宮の表情には、狂気の色が宿っていた。

「あれからワシはハコガクに復讐するためだけに大切なものを切り捨てて、足がもげそうになるほど練習を続けてきた! なにもかも持ってるエリートとは違うんじゃ! お前はなにを捨てられる!? なにも捨てるモンなどないじゃろ!?」
「るっせ! つべこべうっせーんだよ!!」

 荒北がペダルを踏み、前に出る。
 たしかに待宮の言うとおり、速くなるためになにかを捨てたことはない。捨てるどころか、その問題から目を背けている。

『……捨てなよ、思いを』

 男に言われた言葉を思い出し、目を伏せる。
 男に言われなくともわかっている。秋から続くスランプの原因。それはきっと、にある。
 に会ってから、色んなことを知ってしまった。忘れていた野球部のことを思い出し、自分のことを気にかけてくれた南雲や周囲の人間に対していまさらどうしようもない後悔をするようになった。のことを好きになってからは、彼女の言動ひとつで気分が上下し、時に異性と親しげに話す彼女を見て胸が痛んだりもした。
 あの日福富とはただの幼なじみだとが言い張った頃から、不調の原因は薄々と気づいていた。だが、やまない雨はないように、この不調もいつしか自然に終わると信じて自転車に乗り続けた。
 ――迷うことはない! 誰を好きになっても、クヨクヨしても、ペダルを必死に回すだけだ!!
 荒北が心の中で叫び、ペダルを踏むが――さっきよりも回りが鈍い。脳裏に肘を壊したあの日がよぎり、背中に汗が伝う。
 すぐにその妄想を打ち消すように、ペダルを力強く踏み込む。
 待宮を引き離し、前に出る。しかしすぐに待宮が隣に並ぶ。
 荒北がダンシングで一気に引き離す。待宮もサドルから腰を上げて追走し、荒北の後を追う。
 互角の走りが続くうちに、雨が強くなった。髪は水滴が落ちるほどに濡れ、荒北は手の甲で顔を拭った。
 ここからもうすぐ上り坂に入る。ここで決着をつけなければ、待宮をちぎるのは難しいだろう。
 焦る気持ちでペダルを踏む。がくんと車体が縦に揺れた。

「ちっ――!」

 荒北の眉がしかむ。前輪が脱力しているかのような違和感。タイヤがパンクしたのだろうか、ホイールが重い。
 並走していた待宮は、荒北の視線の先に前輪のタイヤがあることに気がつくと口元をゆがめて笑った。

「モッてへんのぅモッてへんのぅ! もちろん、待つことはせェへんよ。かつて福富がしたことを、そっくりそのまま返すだけじゃ!」
「待て!! 待宮ァァァァ!!」

 前に出る待宮に向かって荒北が叫ぶ。
 タイヤがパンクしても、リムさえあれば自転車は走れる。がむしゃらにペダルを踏み、全力で待宮の後を追う。
 待宮の背中を追うのに必死で、路面の水たまりに気づくのが遅れた。

「あっ――」

 自転車が傾く。荒北は逆方向に体を傾け体勢を立て直そうとするが、自転車の力が勝る。――大きな音を立てて落車した。
 芝生の上に仰向けに倒れ、痛みに耐える。目を開けると、灰色の空に大雨が降っていた。
 横から自転車が通り過ぎる音が聞こえる。端から見たらさぞかし自分は滑稽に倒れているように見えるのだろう。
 背中がじんじんと痛む。完全に打ちのめされてしまった心に、荒北はもう立ち上がることができない。虚ろな目で空を見て、雨にずぶ濡れになったまま大の字でいる。

 ――肘を壊して一ヶ月後のことだ。治療に専念するために休部した荒北は、野球部の試合をフェンス越しに見ていた。
 ゲーム中盤のスコアボードは、僅差ながら自分のチームが勝っていた。自分が休部した最初の頃は、新しい投手になじめず連敗したという。それが一ヶ月の間に、少しはまともなチームに成長したようだ。

「待ってろよ。すぐに治して、またマウンドに立ってやる」

 あの時の荒北は、もう一度試合に出られると信じて疑わなかった。
 だが、その時には全てが終わっていた。野球肘の後遺症は、荒北が思っていたよりも深かったのだ――。

『さぁ、どうする靖くん。思いを捨てて夢を取るか。夢を捨てて思いを取るか』

 今まで、どっちを選ぶかなんて思いもしなかった。両方とも荒北にとってはかけがえのないものだったから。
 だが、荒北には過去に故障して夢を諦めた経験がある。このまま、走れなくなってまた夢がかなわなくなるくらいだったら……そうなる前に自分は覚悟を決めなければいけない。

 やがてひとつの結論を出し、荒北は覚悟を固めるようにゆっくりと目を閉じた。